2015.07.10

引越しから二週間が経とうとしている。

 

気が向かないままに書かないままでいたためほとんど引越しまわりの記述はないままにきてしまったし、記録していないのでもちろんもうほとんど覚えていない。

覚えていなくてもなにかしらの痕跡はきっとどこかにあって、生活のだいたいのことはそうした記憶からこぼれた何気ない過ちや成果によって決定付けられてしまうのだと実感する二週間だった。

忘れるのはいい。

ただ思い出せないのは悲しい。

やっぱりちゃんと書こうと思った。

こうして書くのは、ひとつには働いているとあっという間に停止してしまう益体もない雑感をきちんと稼働させるためというのが一つと、もうひとつは忘れてもいつか思い出せるようにしておくというのが理由としてあるのだから。

ひとつめにかんしては忙しくなってくるともうそれどころではなくてやっぱり書かなくなってしまった。けれどもそれは雑感が停止したというよりは雑感の氾濫にそれらを言語に翻訳することが追いつかなくなってしまったというほうがちかくて、書いておかなかったことをすこし勿体無くも思う。もちろんそれは喉元過ぎればなんとらというやつで、当時はそれどころではない。

「忙しいというのは心を亡くすと書くんだ」というようなことをわが心の師武井宏之先生は『シャーマンキング』の単行本の帯の折り返しのところでいつだかおっしゃっていたけれど本当にその通りで、忙しいと心がどこかに行ってしまう。

感じることも考えることも億劫でただただタスクに追われて満足してしまう。その安心感たるや簡単に引き返せなくなりそうで、こうして思い返しながらいまでもぞっとする。

引越してから初めて迎えた休日に、近所の古本屋さんに格安で売っていた『シャーマンキング』全巻セットを買って毎日ちょっとずつ読み返しているのだけど、小学生から中学生の自分に出会い、もっとも人生観に影響を及ぼしたであろうこの漫画は、いま読み返すとそんな人格形成の源流に立ち返るような感慨と、ガキの自分にはとうてい読み取りきれなかったであろう渋みとが、とてもいい塩梅で、ほんとうに、すごくいい漫画だと思う。幹久の天井の話なんか、リアルタイムで読んでいたころは読み流していたのにな、だとか。人の心が読めるということのしんどさがいかほどのものか、大人になったいまだからこそ想像するだに底知れない恐ろしさを感じるな、だとか。

 

ゆるく楽々にいきていくためには、ときにはふんばらなければいけないこともある。

みんなそれぞれ違ったものを大事にしていて、それを守るためにふんばっている。

あなたの大事なものは、誰かにとってはなんでもない。あなたの何かを大事にしないことは、誰かにとってはとても辛いことかもしれない。そういうものだ。なにが大事かは自分の心で決めるしかない。決めたからには、ふんばらなくちゃいけない。ふんばらなければ、大事なものすら守れないのだから。

大事なもののため、ふんばったあとにくる楽々がいいんよ。ふんばったあとは、相手の大事にしているものもきっと受け入れられるようになるからさ、と『シャーマンキング』は教えてくれる。

これから仕事も繁忙期。

夏が終わるまでの間はしんどいのが続くだろう。

決して自分を見失うことのないように、適度に受け流しつつ、もうひとふんばりしなくちゃいけない。

まったくめんどくさいことだ。

とりあえず寝る前に27巻だけ読み終えちゃおうと思う。

ああ忙しい。忙しい日々だ。

けれどもめげずにまた書いていけたらいいと思う。

梅雨も明けそうだし、走ることも再開しなくちゃなあ。

 

 

2015.06.24

今朝は長くしんどい夢をみて、寝ているあいだじゅう苦しかったのだけれど、目が覚めたころには驚くほどあたまも気持ちも体もすっきりとしていて、あまりの満足感に丸一日寝過ごしたかと思うくらいだった。
とっちらかった考えや経験の整理のために夢をみる、そんな話を昔どこかで習った気がするのだけれど、あれは本当かもしれない。
昨日までの心配事や考えごとが、明らかに反映された悪夢を経て、たしかになぜだか整理されてしまったように思う。
夢は思考のクリーニングだ。それともうひとつある。
夢をみることは、現実とはパラレルな時間を生きることでもある。
異なる時間を生きることは、日々に追われいっぱいいっぱいになった気持ちを落ち着かせるゆとりを与えてくれる。
今朝の夢では僕は簀に巻かれて三週間くらい土手に転がされていたのだけど、これから始まる怒涛の一週間を前に、一度どうにかリセットしたいと思っていた僕にとって、この何も身動きの取れない三週間はありがたかった。
起きたとき、きょうがほんとうに昨日と地続きで、あの三週間が目覚める前のほんの数秒の出来事であったということがにわかには納得できなくて、しばらく横たわったまま惚けてしまった。
夢というのは『ドラゴンボール』の《精神と時の部屋》みたいなものだな。
そんな陳腐なことを考えている。
こうして会社に向かいながら、いまでもすこしへんな気持ちだ。
久しぶりにぐっすり眠れたと思ったら、起きてもなお夢と同じくらい現実がリアルに感じられる。落ち着かないなあ。本当に俺は目覚めているのかしらん。

2015.06.15

ここ一ヶ月ほど気持ちが忙しなくてブログもランニングもサボりがちだ。
書かないだけで思考力はみるみる減退するし、走らなかったせいでいまもうすでに体力のなさが生活に支障をきたすレベルで、そろそろ再開しないとまずいかもしれない。
そもそも忙しくてそれどころではない時こそ、無理やり続けていないとだめなのだ。
なんのために書く筋力と、体力とをつけるかって、こうして気忙しくわけもなく消耗するようなとき、バテずにちゃんとやり遂げるためなのだから、気ぜわしさに流されてサボって、結果気ぜわしさに立ち向かう気力も知力も体力も消耗していくのでは、まったく、いかんではないか。

さいきんは、いよいよ政治にも関心を持たないと良くない気がしてきたし、株とかああいうのにも興味がわいてきた。
政治もお金も生活の邪魔さえしなければどうだっていい、と思っていたのにずいぶんな変化だ。そのどちらもが、そろそろ生活の障壁として立ち現れる気配を感じ取っているのかもしれない。

iPadでこうして文章を打っていると、だんぜんキーボードの方がいいと思える。
スピードも正確さも圧倒的にキーボードの方がいい。
この前このブログは誤字だらけだと言われた。
カッコつけた文章もこうも誤字だらけだと格好がつかないと。
はずかしい。
OSをアップデートしてから、6年ものの純白MacBookは動かざること亀の如しで使い物にならない。いよいよ買い替えどきかもしれない。
さいきんイヤホンもびろびろに配線が飛び出してきてちょっと外では付けられないし、お金がかかるような必要はなぜだか重なってやってくる。
お金があるときはこんなに持っていても使い道がうまく想像できないや、なんて思ってついつい無駄遣いをする。ないときはこんなにも必要に溢れているのにどこに余るお金があるっていうんだ、という気持ちになる。
わかっていたって隣の芝は青いし思い出は鮮やかだ。
ここにないものはなんだって羨ましい。

こうして他愛もないことでも書いているとそわそわ落ち着けない気持ちがほんの少し凪いでくるようだから不思議だ。
書くことと走ることは、書いたり走る気になれないときこそやっぱり必要で、それはこころの穏やかさを取り戻す。
今夜は帰ったら走ろうかね。仕事でくたびれてるだろうけれど。
明日は雨みたいだしさ。

2015.06.02

きょうはおやすみなので昨晩は夜更かしをしてとびきりつまらないゾンビ映画を眺めていた。『ザ・ホード 死霊の大群』という映画で、感想としてはフレンチ・マッチョってアメリカの脳筋ヤンキーよりもよっぽど気持ち悪いなあというものでした。総じて筋肉は苦手だけれど、なんだろう、アメリカのマッチョはどちらかというとアメコミと西部劇に鍛えられた無邪気なガキの論理なんだけれど、フランスのそれは気障でアンニュイな雰囲気に騙されがちだけれど実はかなりえぐいマッチョイズムなんだと思う。

 

今朝は10時くらいまでのんびり寝て、洗濯を済ませて朝ご飯を食べ終わる頃にはすっかりすべてのやるきをなくして、きょうという日は一歩もこの家から出ないぞと決め込んで過ごすことにした。お金も貯めなくちゃいけないし。

 

PTAの『マグノリア』を観た。これこそが映画だよなあと思う。とても好きな映画。

そういえば『マグノリア』のトム・クルーズジョン・C・ライリーは、それこそ昨晩のフレンチ・マッチョと好対照な、素直で素朴な脳筋坊やのカリカチュアだとも思える。

マグノリア』は1999年の映画で、きのうTSUTAYAにいって思ったのは、僕にとってのレンタルビデオ店の時間は2000年前後で止まっているということだ。だからそれ以降の作品が旧作で置いてあるときまってびっくりするし、つい最近封切られたと思っていたものがもう5年以上も前の映画であることも少なくない。

母に連れられて行って、こっそり悪そうな映画のパッケージを眺めるのがレンタルビデオ店だった。あのころすでに「大人になったらこれを観よう」と思っている映画だけで一生ぶんあったのに、あれから10年以上たって、「いつか観よう」という映画は倍以上に膨れ上がっている。もう絶対に追いつけないことはわかっている。生きているうちにぜんぶは観れない。それがちょっと切ない。切ないからこそ、きっと僕の一部分はそれを認めたくなくて、いまだに2000年前後のラインナップをTSUTAYAの棚に探し求めている。

 

 

15時前くらいに『マグノリア』は終わって、なにしろ3時間もある大作だから、けれどもまったく退屈しない手腕に舌を巻きつつ、余韻に浸りながら呆けていた。調べ物をして、リビングのハンモックで昼寝をして、掃除機をかるくかけて、気がついたらこんな時間だ。

 

自分から何かを生み出すようなことをなにもしないまま、平気で日が暮れていくのはなんとも落ち着かない気分になる。

ほんとうに、ほぼなにもしないまま1日が過ぎてしまった。

けれども、マグノリア』の3時間はそれこそ人生そのものみたいなものだから、むしろ十分すぎるとも言える。

なにかに触れてなにかを感じなにかを思うというのは、実はそれだけでとても創造的なことなのだ。

本の価値は読み方できまる。映画の価値は観方できまる。音楽の価値は聴き方で決まる。

世界はそれを認識するわたしやあなたのとらえかたひとつで決定される。

陳腐だけれど、これはひとつのほんとうだ。

たとえばさいきんジャズをたいくつせずに聴けるようになってきた。それはジャズの聴き方をすこしだけつかめた気がするからだ。

たとえばさいきん読める本が増えてきた。それは働くようになって、より自分と社会との距離というようなことを考えるようになってきたからだろう。

世界観とは、その人の生きる世界そのものだ。

ゲームや映画や音楽の持つなんとなくの雰囲気をさす言葉ではなくて、どんな世界観を持っているかということは、いかようにものごとをとらえるかというのは、その人の生き方そのものなのだと思う。

僕は『マグノリア』を観てひとつの人生を生きたように思えるような世界観を持てて良かったと思う。

『ザ・ホード 死霊の大群』に夢中になれないで途中から手元のiPadで吉岡里帆の画像検索に精を出すような世界観の持ち主で良かったと思う。しかしどうしてゾンビ映画を観ていると無償に女の子のグラビアをみたくなるのだろう。やっぱりオタク文化が内包する、頭の悪いマッチョイズムについつい侵されているのだろうか。

 

 

いちにちぼんやりすごすと文章もぼんやりととりとめがない。

いや、きょうに限ったことではない。

最近はいつだってとりとめがない。

現実感がない。なにごともゲームやままごとのようだ。

いや、それも最近始まったことではない。いつだってそうだ。

社会だとか人生だとか言うのは、人が上手く生きていきやすいようにみんなで力を合わせてつく大ボラにすぎないのだから。

この世はぜんぶ嘘だよ。

誰かが勝手に決めたルールの中で、楽しく遊ぶってだけなんだ。

楽しければいい。

きっとそれでいい。

 

 

書き始めたのはおそらく19時ころ。

だらだらと1時間もかけて、書けたのはこれだけ。

いまは、SAKEROCKのラストライブがYouTubeで中継されているのをiPadからリビングのテレビにクロームキャストで繋いでみている。

スーダラの灯を消すな。

2015.05.30

さっきの地震はけっこうこわい感じで、もうそろそろ上がるかな、という頃合いだったので、職場で、みんなでちょっとハイになってくだらない冗談でゲラゲラ笑かしあいながら、ああ、今日は電車止まってるんだろうなあ嫌だなあ、と思った。

去年の12月、自分へのクリスマスプレゼントとして携帯をガラケーに替えた。
それまではiPhone4sをつかっていたのだけれど、それ以降はばかみたいに大きくなっていくばかりで、なんのためにこれまでテクノロジーが小型化薄型化を志向してきたんだかわからない。それだったらいっそiPadがいいと思い、それまでスマホにズブズブにはまっていたことへの危機感もあり、スマホでできることの大半は中古で買ったiPadに移行させて、携帯電話は電話とメールだけできればいいやというところに原点回帰、ガラケーに替えて今に至ります。
これには、引越し先に据え置きのWiFiがあり、自分のポータブルWiFi使い道が微妙になくなっているのがもったいなかったというのもあって、だからこのiPadは4Gとか、なんか携帯会社の回線には繋いでいない。ポータブルWiFiの現場復帰と相成ったわけですが、こいつは電源から離れてつけっぱなしにしていると半日でダウンするのでiPadをいじるときだけつけて、使わないときは消す。そういうエコな、開けたら閉めるような、使い方をしなくてはいけなくて、それをうっかり忘れて会社のロッカーの中で夕方頃には力尽きていたのでした。

なのでいま、たびたび間隔調整で止まる、乗車率170パーセント、不快指数無尽蔵なこの電車内で、僕の意識を外界に飛ばしていってくれるものはなにもない。なにもないこたないのだけど、インスタントな情報の洪水による安心安全無味無臭の思考停止をもたらしてくれるものはなんにもない。

そのおかげで、電子の海に漕ぎ出さないこのiPadのメモに向かって、久しぶりにこうしてブログの下書きを書いている。
ずるずるとサボりがちになって、でもまあそこにはあんまりこだわらずに、なるべく毎日書いていこう、サボるときはサボろう、と、この、右隣のおじさまの強烈な口臭に涙ぐみながら、思いを新たにしたのでした。

きのう24になりました。
23歳のあたしも見事に死に損なって、のうのうと生き延びてしまいました。
おかげでいまでもいまが一番良きときです。
過ぎ去ったことはよく覚えていられないから、いまがいつでも一番楽しいです。
さいきんは昔のことを思い出すことも多いけれど、それでもやっぱりいまの自分が一番好きだし、いまの状況がいちばん好きです。
なんてこった。この生は生きるに値する、なんて思ってしまいます。この世はやっぱり、どうだか知らないけれど。
みなさんありがとう、きのうはそんなめでたい気分でした。我ながらおめでたいやつ。
そしきょうもまた、おじさんの口臭はきつくとも、まえに座っているお兄さんがさり気なく僕のお気に入りの靴の爪先をわざと踏んづけてきても、みんなありがとう、というふわふわめでたい気分が続いているのでした。これはほんとうにめでたいことです。こういう気持ちが、いつまでも、無理なくほんとうでありつづけたら、どれだけいいだろう。そんな風に思い、でも、それはそれでつまらなそう。おじさんとおにいさんは今日の帰り道で転んで擦りむいたり、この車内に財布忘れたり、些細な大不幸に見舞われてしまえ。

ラッキー。前の席が空いて座れました。
おにいさんは財布を忘れていきませんでした。帰り道で転べばいい。
さてはて、もう書くのも疲れたな。
この文章をブログにあげるのは、このiPadWiFiに接続されたとき、帰宅する23時前後とかなのだろうけれど、この文章を書き上げたのは、2015年5月30日、21時50分。満員の東横線の電車が次に停車駅菊名に向かってびゅんびゅん駅をとばしているところ、でした。

2015.05.23

ついに一週間以上ブログをさぼってしまった。

「毎日書く」という目標は一応続いている。月曜日にお芝居の稽古をするので、そのためのテキストをつらつら書いているのだ。

こうして身近にあったことや、ふと浮かんできた雑感をぼんやり書くことと、創作をすることとは、いくら力を抜いてやってもやっぱり別物で別の筋力を使う。

書く筋力にも種類がある。

いまこうして書いているのはほんとうに基礎的な体力作りという感じがする。

 

とにかく、どんどん語る言葉がなくなっていく。

最近知り合った人で、この人と話したいな、と思って誘ってみても、たあいもない恋バナだったり仕事の愚痴だったり、つまらない話しかできなくなってきているように感じることが多くて、悲しくなってしまう。もっとあなたはどんな子供だったのかだとか、こんな映画を見てきただとか、明け方までこんな本を読む耽っていただとか、さいきんはこの音楽は聴けなくなってきただとか、そういう話がしたいんだよ。

 

三日くらい前までそういう風な言い訳を書き進めていて、とにかくもう俺はおしゃべりじゃないからあんまりブログをかけないんだ、と言おうと思っていたのだけれど、ここ三日くらい夜遊びばかりしていて、そもそも家に帰るとすぐに寝てしまう。

寝てしまうと文章は書けない。

夜遊びしながら何をしてるのかって、おしゃべりをしていて、なんだ、結局、好きな人たちの前ではいまでもべらべらべらべらとしょうもないことばかり喋りっぱなすのだな俺は。

おしゃべりになる相手を選ぶようになっただけだ。

そう思って、あきれたように安心した。

いつだって、そう簡単に人は変われない。

では、こちらにはどんなことを書いていこうか。

 

ちょっとそんなことを考えながら、また書き始めていこうと思う。

ではこちらには