2015.11.06

休日のいまは午前9時50分。

同居人を送り出した5分後には、回していた洗濯機が仕事を終えて、ラジオをつける。

ぼんやりと聞き流しながらすっかり干し終える頃には陽射しは気持ち良く強くなって、寝間着の半袖ティーシャツにパンツという無防備な格好でも暑いくらいだった。

こんなにきもちのいい陽射しは久しぶりだった。

そういうわけで、ベランダに日向ぼっこに出ることにした。

部屋の中から椅子を持ち出して、いちおうきちんと外行きの格好に着替える。

せっかくだから陽にあたりながらものでも書こうと、オンボロのMacBookはガタピシいいながら膝の上でがんばっている。

そうして腰を落ち着けたのが午前9時50分。ここまで書いて、いまは9時58分。

Macは文字の変換にいちいちもたつくのだ。

午前いっぱい干せば乾くだろうか。嬉しい天気だ。

ここでふと観たかった映画の配信が今日いっぱいであることに気がついたので、洗濯物が乾くまでそれをみて過ごそうと思う。

 

(午前10時02分。中断)

 

正午を少し過ぎたところ。

映画を観た。

バートリ・エルジェーベトの鉄の処女伝説に基づいた映画。

大好きな女優、ジュリー・デルピーの映画。彼女が脚本・監督から主演はたまた製作・音楽まで手掛けているという。

ぞくぞくするほど美しい映画だった。

ダニエル・ブリューリュのお尻の滑らかさと、執拗に繰り返されるジュリー・デルピーの手のショットに、老いに対する彼女の美意識としんと冷え切った洞察が込められているようで気持ちがひりつく。

この人はほんとうに美しい歳の重ね方をしている。

美しいものはおそろしい。

美しいものへの畏れを忘れかけてどれだけ経っただろう。

そういうのは中二病っぽいしもう卒業しよう、なんて思ってここ数年ご無沙汰だったはずなのに、

悪徳や退廃、フェティシズムへの憧憬が、またむくむくと興ってきていて、『城の中のイギリス人』だとか、『夜のみだらな鳥』だとか、『O嬢の物語』あたりを読み漁りたいような気持ちでいる。

きっと今の生活が安定してきたからだ。

平穏な退屈と余裕があってこそフェティッシュに耽溺できる。

快楽主義者とは高雅なものなのだから。

 

気高い快楽主義者はさっぱりと乾いた洗濯物を取り込みながら、伯爵夫人を演じるジュリー・デルピーマッツ・ミケルセンに似ていたな、マッツが主演の『ハンニバル』の屍体の撮り方はそれはとても美しいんだ、などとうっとりとした。

所帯染みたいまだからこそ存分にデカダンスを弄ぶことができるのだ。勝ち誇ったような気持ちで下着を畳み、衣装ケースにしまいこみ、鼻歌を歌っている。

2015.08.27

恋や革命、悪徳や退廃にそれほど心躍らなくなってからどれだけの時間が経っただろう。

テレビや音楽に踊らされることに自嘲まじりに気持ちよくなることがすくなくなってどれくらいだろう。

小学生のころ、40日ほどもある夏休みのうち30日は暇だった。

何もすることもなく、出かける気にもならず、部屋の隅にぼんやりと体を横たえて、陽に当たって浮かび上がる埃をぼんやりと眺めては、この部屋にはこんなにも埃が待っているのか、こんなところで呼吸をしていたら体に毒じゃないか、なんて不安になって、じっと息を止めてその埃を眺めていた。しばらくして息を止めることも忘れて、こっそりいかがわしいサイトを検索したり、なにごとか物思いに耽っているうちに、日が暮れていく。

もとから、僕にとってのデカダンなんていうのは全く華やかでも泥臭くもなかった。

ただいつ果てるとも知れない、だらだらんとした退屈があるだけだった。

上京してから、華々しかったり、ぐずぐずと湿っぽい退屈しのぎを覚えたのは、きっと、たださみしかったのだろう。

それまでだって、いまだって、ずっとさみしい。

けれども、いまはそのさみしさを弄ぶことができる。

上京以来これまではさみしさは立ち向かったり、見て見ぬ振りをしたり、必死に忘れるものだった。

今はさみしさは恋しいものだ。ふやけた毎日の中でふと思い出す甘いものだ。さみしさはたのしいたいくつ。

大人になってよかったと思うのは、たいくつをしていることが、自分のつまらなさを暴くようなものではなくなったこと。

いつだってつまらないからだ。

さみしいときだけ、いつもよりすこし面白い人間になれるような気がする。

ひとりになりたいからものを書く。

ものを書くのはさみしくなりたいからだ。

どこにも届きそうもない、そもそも届けたいのかどうかさえはっきりしない、ことばを弄びながら、他人みたいな文章をでっちあげる。

さいきんは、勉強したいな、と思う。

勉強をして、もっとましな人間になりたいという、あまりに子供じみた、そしてだからこそ根源的な欲望がむくむくと立ち上がってくる。

このままふやけた毎日を送っていると、いつしか、さみしさと戯れることも忘れてしまって、ほんとうに、いつまでもぼんやりとした頭で歳を取っていくだけなんではないかしら。

どんどん忘れっぽくなるし、気がつけばぼんやりしている。

あんなにうるさかった頭の中がいまではがらんと静かだ。

それはすこしほっとするし、それ以上にこわいことだ。

おしゃべりな頭の中こそが自分自身だと思っていた。

だとしたらこの空洞はなんだろう。

こうしてキーボードをいじくっていればまだなんとなく文字は起こせる。

中身は全くないけれど、それはこれまでもずっとそうだった。

勉強をしたいと思う。

べつに偉そうな誰かの言葉や考えをそれっぽく引用するような、飲み会の席で年寄りの垂れる訓示じみた文章が書きたい訳ではないけれど、このままでは、自分で自分のことを信用できなくなりそうだから。

自分の中に他者をたくさん抱えることはいいことだ。

自分の中にの他者の数が、世界の捉え方の可能性の幅そのものだ。

これまで寄り添ってきた本や映画、歴史や音楽がからっぽで凡庸な僕のことをすこしだけましな人間に見せてくれる。誰に見せているかって、それはもちろん僕自身にだ。他の人は関係ない。

いま、僕自身が閉じてきているのをひしひしと感じる。

このままではこれ以上の他者を自分の中に受け入れることができなくなるんじゃなかろうか。

そうなる前に、もっと、もっと勉強をしたい。

ことばを、寛容を、柔軟を、いいかげんさを、すっかり失う前に。

 

革命も退廃もただの娯楽。

毎日は非凡なまでに平々凡々。

やわらかくいいかげんに暮らしていきたいやね。

 

 

2015.08.20

ここ数日湿気のせいか体調が優れない。

体の節々が痛いし、ただでさえ大きい頭がさらに重い。

毎年のことながらこの季節になるとごっそり体重が落ちる。

不調の理由はそれもあるかもしれない。

筋肉なりなんなり、もうすこしつけておかないと体力が続かない。

油断すると仕事にいって帰って寝るだけで一日が終わってしまいそうでそれはとてもいやだ。

仕事は嫌いではないけれど、僕の生活のうえで衣食住の次の次の次の次の次くらいに欠かせないものでしかない。

そのくせ毎日の生活のなかで一番時間と体力をもっていくのも仕事というもので、それは就職前もっといえば幼稚園の頃からかわらない。

ほんとうをいえば、いつだってずっと家にいて、おしゃべりと炊事掃除洗濯とお芝居と書き物だけをやって、のこりは音楽と映画に溺れて静かに暮らしたい。

でもそれはむりだ。社会でしか生きることのできないよわい生き物だからむりだった。

どうしたってでかけていかなくちゃいけない。

入園式のとき、泣きに泣いて家にいたいと抵抗したときのまま、気持ちは変わらない。

衣食住の次の次の次の次の次くらいに欠かせないものでしかない幼稚園や学校そして仕事に、時間と体力をどんどん使ってしまって、衣食住とそれに次いで大切なものたちをないがしろにしてしまったり、そもそもそれを行う時間がまったくなくなってしまったりすることへの幼稚な納得のいかなさがいつまでも捨てられない。

 

体調が悪いと愚痴っぽい年寄りみたいになってつまらない。

引っ越してからこの一ヶ月強はとにかく暮らていくことがままごとみたいに楽しくて、ほかのことはする気にもならなかった。

いまになってようやく落ち着いてきたのだろう。

ただ暮らしていくだけではたいくつするようになってきた。

生活の苦労が染み付いて所帯染みてくるのはまんざらでもないのだけれど、やっぱりそれだけじゃつまらない。

 

お芝居をしたいな。

映画ももっとみたい。読みたい本だってうんとある。

暮らしに慣れて、満足しきって、たいくつしはじめたらようやくそういう気分を取り戻してきた。

 

贅沢な話だ。

 

きょうは月に一度のお芝居の稽古の日。

稽古用に書こうと思っていたテキストはさっぱり進んでいない。

2015.08.13

きょうはおやすみ。
夜まで特に予定がないものの、一緒に暮らしている人は仕事があり、そのくせぐずぐずと布団といちゃついているので、ついついテキパキと朝の支度を済ませてしまい、会社に向かうのを見送ったあとも二度寝するには布団をたたんでしまったし、それにすっかり目も冴えてしまっていた。

外に出かけるような気分にもなれず、huluでサイモン・ペグ主演の良くできたコメディをみて、これは邦題があんまりで、しかも良くできてるだけに退屈な映画で、なので途中から部屋の片付けと家計簿の整理をしながらそれでも結局最後まで観通した。
こまやかに掃除機をかけて、それでもまだ10時を少しまわったところ。
ドラマ版『ハンニバル』のシーズン1の最終回までの3話をついに観る。もちろん最高だった。huluではシーズン2の配信はないのだろうか。twitterで拾い見た情報によるとシーズン3で打ち切りらしいけれど、そもそも海外ドラマは長すぎて完結まで見れたためしがないからそのくらいがちょうどいいと思う。

お昼は適当に冷やし納豆うどんをこさえて済ませる。
梅と白だしでさっぱり仕上げてまずまずの味。

近所にあるという気になるカフェに行ってみるかと思いつつもなんとなくぐずぐずとめんどくさがり、もう一本映画を見ることにする。
『8月の家族たち』はWOWOWオンデマンドの調子が悪く、しょっちゅうリロードをしなくてはならない悪環境のなか、それでも集中力を切らさずに面白がれる一本だった。予告編を見たときから薄々気がついていたけれど決して好みの筋書きではない。とてもよく書けているのだけれどだからこそその巧さが鼻につくし、そもそも家族というのは愛憎渦巻くえぐいものだよねみたいな物語とはそもそも相性が悪い。そうしたことはさておいて、ただ俳優たちに見惚れる映画だった。
最近ではいよいよひどくなるばかりなのだけど、どんな映画を見ても本を読んでも、どんなお話だったかはだいたい忘れてしまって、あるシーンに切り取られた風景や、ふとした表情や、なんでもない会話をまるで自分のことのように記憶してしまうから、画がきれいであったり人が生きてさえいればのこりの要素はなくてもいいとすら思ってしまう。

約束の時間に間に合うためには一時間後には家を出なくてはいけないというようなタイミングでとうとう家を出る。目当てのカフェまで歩いて10分強。下見だと思えば30分もいられたら充分だ。環七を駅とは反対方向に歩いていく。六年前に上京してから毎回のことなのだけれど、引っ越してようやくこの土地にも慣れてきたかしらと思うようになるころ、家から駅とは反対方向へ散歩に出かけてみると、そこはあたりまえに知らない街なのだ。自分の居場所はここにはなかった。いまもまだない。そのあまりのよそよそしさに決まって心細くなる。目当てのカフェは15時で閉まっていた。夜は18時からの営業だそうでそれでは約束に間に合わない。場所はわかったから今日のところはよしとしよう。約束の時間までまだ余裕があるけれど、家に戻るほどでもない。そのまま駅へと向かう。環七沿いの道はやっぱり全く知らない街だという感じがする。きっと長くはここにいないだろう。いつ出て行くかはわからないけれど。
ここでのいまの暮らしは大きな不満もなく、楽しくやっているし、いまでも部屋の広さを持て余してさえいるのだけれど、近い将来もっと広くて快適な家に越そうと当然のように考えている。そうだ。強いて言えばキッチンはもっと使いよいところがいいし、テーブルと椅子が欲しいし、壁一面の本棚も必要だ。テレビだってあったほうが楽しいかもしれないのだ。このように、「自分たちの生活はこのままでは終わらないだろう。基本的には良くなっていくだろう」と思い込みながら現状に精一杯であることが、若さというものなのだと最近になって思うようになった。自らの未来への無邪気な楽観はたしかに尊い。そしてそれに気がついた僕はそろそろ自分の天井を決めてしまいかけているのかもしれない。それは必ずしも悪いことではないのだけれど。
ひとりでひとりのために面白おかしく生きていこうとはもう思えない。
欲張ることのカッコ良さや大切さも重々分かっているつもりだけれど、カッコつけることにいまいち熱中できないほどには、この暮らしを守りたいと思う気持ちが大きくなってきている。奪うのは一瞬だけれど守るのはずっとだ。『シャーマンキング』はやっぱりいいことを言う。ずっと続けていくには、カッコ良さや強さだけでは無理だ。弱音も吐くし、さぼりもしよう。ずるだってするかもしれない。そうまでしてでも続けていきたい。自分の自分に対する体面なんて、心底、どうだっていいじゃないか。

引っ越し前からあることは知っていてなかなか行くことのなかったゲオに寄ってみる。レンタルビデオ屋特有のしけた臭いがした。だるだるしたTシャツの家族連れやバイトちゃんの汚い茶髪の田舎臭さが地元を思い出させる。海外ドラマコーナーに『ハンニバル』シーズン2の扱いがあることを確認し、こころのなかで万歳をする。

新宿までの電車のなかでこれを書き上げる。まずまずの速さ。
待ち合わせは南口だから、新宿三丁目駅からはそこそこ歩く。
いつのまにかぶかぶかになっているジーンズがどんどんずり落ちてくる。ベルトをしてくるんだった。

2015.08.05

14時41分。浜名湖SAを出る頃には高速バスは予定より35分遅れで運行していた。

道が混んでいたのか、どこかで一度なんらかのトラブルで停車していたようにも思うのだけど、乗車してすぐイヤホンを突っ込んで寝入っていたからくわしいことはさっぱりわからない。
乗車から5時間弱が過ぎてようやく気を取り直したから、遅めの昼食がわりにSAの売店で買った肉巻きおにぎりを食べる。売店のにいちゃんは汚い茶髪に気持ちのいい笑顔で、いちいち感じがよかった。そういえば今朝、バスに乗り込む前に寄った東京駅構内のマクドナルドのお姉さんも、怖いくらい感じがよかった。彼女のたしかに金銭には換算できそうもないとびきりの笑顔を前に、こちらもついついにこにこしてしまうほかなかった。たぶんマクドナルドのお姉さんは自分よりずいぶん年下だろう。それなのに、そつなく綺麗な女の人を見るとついつい「お姉さん」だと思ってしまう。この「お姉さん」と思う感覚のことを、もうなんべんも色々なところで話したり、書いたりしている気がしている。わかっていても書いてしまうし、そもそもこの感覚ははじめ保坂和志の文章で読んで、それで腑に落ちたのではなかったか。いやいや、保坂和志が俺と同じことを書いてる、となんとなく安心したような気持ちになって、それからいよいよしつこくこの感覚について言及するようになったのだとも思えてくる。どちらにせよ同じことだ。人の考えることはだいたい誰も彼も似通っている。ばらばらに生き、てんでべつべつの暮らしを過ごす人たちの考えが似通っているとうことは、ちょっとした救いなのだと思う。きっとTVもSNSもなんにもなくたって、人びとは時代の気分というものを知らず知らずのうちに体現してしまうものなのだと思う。個人の思考や思想といったものは、ちっとも個人のものではない。わたしたちは他者によって形づくられている。
 
何ひとつ自分のものではないというはなしを続けると、この文章だって、ぼくが書いているだけでぼくのものではない。ぼくのことばというのはない。ことばによるぼくだけがある。これは、ことばという物質によって語らされているに過ぎない。ことばはぼくのからだとは異質のいっこの物資であり、ぼくがそのあり方を規定するのではなく、ことばはことば自身としてことばを規定する。そこにぼくの介在する隙なんてないし、むしろことばによってぼくが規定されていく。さきほどの「お姉さん」という感覚だって、ことばという道具とぼくのからだとの間に生まれた違和なんだとも言える。なんのこっちゃ。
 
ともかくこの文章は、予定より到着が40分遅れそうな高速バスの硬くて狭い座席にじっとしながら、遅れのせいで到着後にみっちりと詰め込んでいた計画がだいなしになることへの苛立ちを紛らわすために書き始めたわけだけれど、ここまで書いてだいたいどうでも良くなった。というかもともと計画なんてどうでもいいのだ。どうせたんなる暇つぶしなんだから。
就職してから、綿密に立てた計画がつつがなく進行しないと苛立つ狭量と何度も出くわした。
計画通りいかないのは、そらあんたが計画を立てたからでしょう。最初のころは生まれつきの先を見越すという能力の欠如と、その欠如がもたらす底抜けの能天気さで、むしろそうした「計画好き」たちをこっそりばかにしていたものだったけれど、いつのまにやら、自分もすっかり余裕をなくしている。気がつくとインスタントなものばかり求めている。たとえばいちいちコーヒーを豆から挽くだとか、たとえば部屋の四隅を丁寧に掃除するだとか、洗濯物を綺麗にたたむだとか、お皿を一枚ずつみがくだとか、そうしたことをしているときに次になすことに考えを巡らしては焦ったり、苛立つことがある。ばかなんじゃないだろうか、と自分でも思う。いまここにないものにばかり考えを巡らして、いましていることに集中できないやつは、なにをしたって何も大事になんかできやしないのだ。
仕事はどうしたってそうしたばかばかしさが必要になってくる。だからといって日々の暮らしにまでそうした論理を持ち込む必要はないだろう。テキパキ順序立ててこなしていくことは楽しいけれど、うっかりそればかりになってしまうと怒りっぽい、つまらない人間になってしまう。怒りっぽいというのは臆病でめんどくさがりであるということだ。自分のものさしの他に世界を測る尺度があるなんてことを考え付きもしないひとや、めんどくさくて考えたくもないひとは、自分にとって不測の事態に対応できない。自分にないものを面白がる柔軟さに欠けるのだ。自分の考え得たことしか認めることのできないようなおかたい人間を、ぼくはこれまでばかとよんできた。仕事ばっかりしているとばかになっちゃう。
こういうことに改めて気がつけただけでも、高速バスが40分遅れ、予約した美容院がぱあになったかいがあるってものだ。心底、そう思うよ。ええ。ほんとうですとも。
 
ともかく、これからは気をつけて、丁寧にゆっくりコーヒーを淹れよう。家事をするとき、済ませたあとに残された睡眠時間を計算するのをやめよう。まったく、1日の大半を会社に取られてしまうと、ほんとうに気持ちの余裕なんてあっというまになくなっていく。だからこそ気をつけて、自分自身のことをなにより気にかけてやらないと、あっというまに他者への想像力をなくしたくそみたいなおっさんになってしまう。好きなひとたちや弱っているひとたちに優しくできる程度には、傲慢さと自己愛と能天気さを持ち続けていたい。時計と手帳に魂を売り渡すわけにはいかない。そう思ったのでした。
 
しかしまだつかないのかこののろまなバスは。
うまくいかないのが人生だというのなら、おれはそんなのごめんだね。
ものごとは、自分の思い通りになるほうがいいに決まってる。
きっとみんながみんなそう思ってるんだろうね。

2015.07.28-31

引越しからなんだかんだ一ヶ月が経とうとしている。
最初の半月はままごとというか、どこかで覚えた「生活」のまねごとみたいで、もろもろの書類手続きに追われていたのもあって、自分たちで暮らしているというよりもなにかに演じさせられているような、背伸びして身の丈に合わない服を着せられて服に着られているような、そんな日々が続いた。それはいちいち長いくせに息もつけない日々だった。
その後の半月はカッコが取れてようやく生活が始まって、あっというまに暮らしはなんでもなく暮らしになった。
格好がつかなくなったぶん、自分の嫌な部分もみえてくる。
わがままで視野が狭い、口下手なくそがき。
言わなくても分かるだろう、そんなのは常識、なんていう物言いはうそで、どんなに簡単そうなことでも言わないと伝わらないし、言っても伝わるとは限らない。エジソンは偉い人かどうか、そんなことすら言い切れない。相対化された世界で、なるべくましであろうとバランスをとって暮らしていくのはこんなにも心細く、むつかしい。
そう思い知ってきたはずなのに、油断をするとすぐに甘えが出る。
伝える責任を放棄して、わかるやつだけわかればいい、とただ気分を振りまく迷惑。
わかるやつなんざ、いないんだよ。
思えば人の目もはばからず不機嫌を隠さず表すなんて、いつからしていなかっただろう。
いや、これまでも、してはいたのだけど、こうも簡単に自分の状態に素直になれているのは、恥ずかしいし情けないのだけれども少し嬉しい。
自分がまだひとを信じ頼れるのだということが嬉しい。けれどもその信頼は手放しに褒められたものではないから難しい。
仕事のうえで、(円滑に仕事を進めるためにこのひととどう付き合っていこうかしら)というような形でひとの気持ちを慮ることはだんだんと覚えてきているけれど、そうではない、損得に還元しきれない気持ちのやり取りは今でもまだ下手くそだ。
大人というのは難しい。
自立していなければ簡単にひとの迷惑になる。かわいくもないからただひたすら迷惑だ。ひどい。
きちんと自分の足で立つこと。それは大人の最低限のたしなみ。誰かと関係するための条件。
自立したうえで上手に甘えられなければたいへんだ。あっというまにさみしいことになる。
さみしいのは苦しい。苦しいのにじっと耐え続けていられるほど、強い人間ではない。
苦しいと藁をも掴むような気持ちで他人にすがりつきがちだ。だいたいそのような場合、誰ひとり救われることはなく、温かな水底で息もできない。それはけっきょく苦しい。いつよりもさみしいからだ。
苦しくなく、楽ちんで、それでいて自分に対して後ろめたさを感じないで済むような、そんな生き方は、どんなだったっけ。
何者でもなくて、ただ正しくいられた十代の頃の自分の方がずっとカッコよかったし堂々としていた。
あのころむしゃくしゃとやりきれなく、欲しくて欲しくてたまらなかったものをだいたい手に入れて、今、ぼくは自分がつまらなくって、格好悪くて仕方がないような気持ちになる。
なんともマンションポエムのようなふわふわだるだるした文章だ。けったくそわるい。

ともかく、いくつになっても真剣にひとと関わること以上に面白いことなんて一つもないのだと思う。
面白いというのは、その何倍ものめんどくささとやりきれなさを隠し持っている。
隠しきれていない隠し味をとやかくいうよりも、どうやったら面白とおいしくつきあっていけるかを改めて考え直している。
マンションポエムのような気分と、四角四角な人生設計の必要を思うこととが、なんの矛盾もなく同居していて、それはつまり人と関わることはこころと計算とどちらも必要なものだから。
ひとはこころのために打算的になり、計画のなかにこころを宿すのだ。
一見相反する二つ以上の要素について、判断に迷う必要はない。
だいたいにおいて、どちらか、というようなことはなくて、けっきょく全部ひっくるめたのが現実なのだ。
どこにいてもどこかに偏る。だからこそ、落ち着いて、バランスを定めていく。
自分にとって、もっとも自分に誠実な場所を探っていく。
大切なことは、いつもこころで決めなさい。

自分にとってのいい塩梅というのがどういったものだったか、一息つきながら思い出す必要を感じる。
だからいつもより力んでこうして書いてみると、さっぱりだめだ。
おそらく2000字足らずのこんな日記を書き散らかすのに、4日もかけていやがる。
さいきんは難しい顔ばかりしがちでいけないや。
楽々悠々と、不敵にへらへらてきとうに、いい気持ちで生きていきたいものですね。
それだけのことのはずなんだけど。









2015.07.25

上京した頃からともに歩んできた純白のMacBookちゃんがついに潰れた。いままでありがとう。さよなら。
たしか学割で8万円くらいで買ったこのMacちゃんは年老いてからは病気がちで、手術代がそろそろ元値をゆうに超える。
そう。もう潮時なのだ。おわかれだ。
さよならを言うことは、少し死ぬことだ。フィリップ・マーロウはそんなことを言った。僕のMacちゃんはほんとに死んだ。
うんともすんともいわず分厚いまな板と化したそれを和室にほったらかしにして一週間弱が過ぎた。
とく不便はないけれど、文章が書けない。まとまった文章を書くにはキーボードが欲しいのだ。
そういうわけでiPad用のキーボードを買った。これはその、打つたび安っぽい音のする、Bluetoothキーボードにて書き込まれている。
慣れるまでこれは大変やりにくい作業だ。
まったくもってやりきれない。
けれども道具はどうあれ文章を書かなくてはいけない。
書かないとどんどん醜くつまらなくなっていくから。
先日たいせつな友人に会って、 彼女はぼくの悪文をきれいだと言ってくれた。
書き続けていいと言ってくれた。だからというわけでもないけれど書く。
すこしでも、ましな自分を保つために。自分で自分に愛想を尽かさずにすむように。
書かないとどんどん醜くつまらなくなっていくから。

すぐおしゃかになる道具にぶつくさ文句を言いながら、タイプライターからMacに乗り換えたブコウスキーは晩年ブログじみた散文を書き散らかした。
ブコウスキーはその散文なかでこう書いている。
〝魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。 確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の速さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時。〟
書くことは、たとえば保坂和志も言うように、時間そのものなのだ。
文章は書いている時間、読んでいる時間の中にしかない。
音楽と同じく、文章とは時間芸術なのだ。
すこしでもおだやかな時間がここに流れているといい。
これが時間そのものだとして、そこに関わるものはなるべく少ないほうがいい。
体や道具など、必要最低限のフィルターだけを通して、なるべく純度の高い時間を象る。
そのためにも、文章をタイプする道具は便利であればあるほどいいのだ。
出力までの速さはそれだけで純度の高さを担保する。
ブコウスキーは正しい。
そんなことを思いながら、変換がしちめんどくさく、タイプの音が安っぽく、キー同士の間隔が絶妙に狭くミスタッチを誘発する、ばかみたいなBluetoothキーボードで、ぼくはこの文章を書いている。
ブコウスキーは便利さは文章の味方だとも言っているが、便利でなくてはいけないとは言っていない。
彼が言わんとしていることは、文章の質につかっている道具は本質的にまったく無関係だということ。
それだったら余計な手間暇をかけず、便利なほうがいいに決まっているということ。
まったくそのとおり。
このばかみたいなキーボードに体が順応するのが先か、冬のボーナスでMacちゃんを買い替えるのが先か、ともかく、こうしてまた書き始めている。