2015.11.06
休日のいまは午前9時50分。
同居人を送り出した5分後には、回していた洗濯機が仕事を終えて、ラジオをつける。
ぼんやりと聞き流しながらすっかり干し終える頃には陽射しは気持ち良く強くなって、寝間着の半袖ティーシャツにパンツという無防備な格好でも暑いくらいだった。
こんなにきもちのいい陽射しは久しぶりだった。
そういうわけで、ベランダに日向ぼっこに出ることにした。
部屋の中から椅子を持ち出して、いちおうきちんと外行きの格好に着替える。
せっかくだから陽にあたりながらものでも書こうと、オンボロのMacBookはガタピシいいながら膝の上でがんばっている。
そうして腰を落ち着けたのが午前9時50分。ここまで書いて、いまは9時58分。
老Macは文字の変換にいちいちもたつくのだ。
午前いっぱい干せば乾くだろうか。嬉しい天気だ。
ここでふと観たかった映画の配信が今日いっぱいであることに気がついたので、洗濯物が乾くまでそれをみて過ごそうと思う。
(午前10時02分。中断)
正午を少し過ぎたところ。
映画を観た。
バートリ・エルジェーベトの鉄の処女伝説に基づいた映画。
大好きな女優、ジュリー・デルピーの映画。彼女が脚本・監督から主演はたまた製作・音楽まで手掛けているという。
ぞくぞくするほど美しい映画だった。
ダニエル・ブリューリュのお尻の滑らかさと、執拗に繰り返されるジュリー・デルピーの手のショットに、老いに対する彼女の美意識としんと冷え切った洞察が込められているようで気持ちがひりつく。
この人はほんとうに美しい歳の重ね方をしている。
美しいものはおそろしい。
美しいものへの畏れを忘れかけてどれだけ経っただろう。
そういうのは中二病っぽいしもう卒業しよう、なんて思ってここ数年ご無沙汰だったはずなのに、
悪徳や退廃、フェティシズムへの憧憬が、またむくむくと興ってきていて、『城の中のイギリス人』だとか、『夜のみだらな鳥』だとか、『O嬢の物語』あたりを読み漁りたいような気持ちでいる。
きっと今の生活が安定してきたからだ。
平穏な退屈と余裕があってこそフェティッシュに耽溺できる。
快楽主義者とは高雅なものなのだから。
気高い快楽主義者はさっぱりと乾いた洗濯物を取り込みながら、伯爵夫人を演じるジュリー・デルピーはマッツ・ミケルセンに似ていたな、マッツが主演の『ハンニバル』の屍体の撮り方はそれはとても美しいんだ、などとうっとりとした。
所帯染みたいまだからこそ存分にデカダンスを弄ぶことができるのだ。勝ち誇ったような気持ちで下着を畳み、衣装ケースにしまいこみ、鼻歌を歌っている。
2015.08.27
恋や革命、悪徳や退廃にそれほど心躍らなくなってからどれだけの時間が経っただろう。
テレビや音楽に踊らされることに自嘲まじりに気持ちよくなることがすくなくなってどれくらいだろう。
小学生のころ、40日ほどもある夏休みのうち30日は暇だった。
何もすることもなく、出かける気にもならず、部屋の隅にぼんやりと体を横たえて、陽に当たって浮かび上がる埃をぼんやりと眺めては、この部屋にはこんなにも埃が待っているのか、こんなところで呼吸をしていたら体に毒じゃないか、なんて不安になって、じっと息を止めてその埃を眺めていた。しばらくして息を止めることも忘れて、こっそりいかがわしいサイトを検索したり、なにごとか物思いに耽っているうちに、日が暮れていく。
もとから、僕にとってのデカダンなんていうのは全く華やかでも泥臭くもなかった。
ただいつ果てるとも知れない、だらだらんとした退屈があるだけだった。
上京してから、華々しかったり、ぐずぐずと湿っぽい退屈しのぎを覚えたのは、きっと、たださみしかったのだろう。
それまでだって、いまだって、ずっとさみしい。
けれども、いまはそのさみしさを弄ぶことができる。
上京以来これまではさみしさは立ち向かったり、見て見ぬ振りをしたり、必死に忘れるものだった。
今はさみしさは恋しいものだ。ふやけた毎日の中でふと思い出す甘いものだ。さみしさはたのしいたいくつ。
大人になってよかったと思うのは、たいくつをしていることが、自分のつまらなさを暴くようなものではなくなったこと。
いつだってつまらないからだ。
さみしいときだけ、いつもよりすこし面白い人間になれるような気がする。
ひとりになりたいからものを書く。
ものを書くのはさみしくなりたいからだ。
どこにも届きそうもない、そもそも届けたいのかどうかさえはっきりしない、ことばを弄びながら、他人みたいな文章をでっちあげる。
さいきんは、勉強したいな、と思う。
勉強をして、もっとましな人間になりたいという、あまりに子供じみた、そしてだからこそ根源的な欲望がむくむくと立ち上がってくる。
このままふやけた毎日を送っていると、いつしか、さみしさと戯れることも忘れてしまって、ほんとうに、いつまでもぼんやりとした頭で歳を取っていくだけなんではないかしら。
どんどん忘れっぽくなるし、気がつけばぼんやりしている。
あんなにうるさかった頭の中がいまではがらんと静かだ。
それはすこしほっとするし、それ以上にこわいことだ。
おしゃべりな頭の中こそが自分自身だと思っていた。
だとしたらこの空洞はなんだろう。
こうしてキーボードをいじくっていればまだなんとなく文字は起こせる。
中身は全くないけれど、それはこれまでもずっとそうだった。
勉強をしたいと思う。
べつに偉そうな誰かの言葉や考えをそれっぽく引用するような、飲み会の席で年寄りの垂れる訓示じみた文章が書きたい訳ではないけれど、このままでは、自分で自分のことを信用できなくなりそうだから。
自分の中に他者をたくさん抱えることはいいことだ。
自分の中にの他者の数が、世界の捉え方の可能性の幅そのものだ。
これまで寄り添ってきた本や映画、歴史や音楽がからっぽで凡庸な僕のことをすこしだけましな人間に見せてくれる。誰に見せているかって、それはもちろん僕自身にだ。他の人は関係ない。
いま、僕自身が閉じてきているのをひしひしと感じる。
このままではこれ以上の他者を自分の中に受け入れることができなくなるんじゃなかろうか。
そうなる前に、もっと、もっと勉強をしたい。
ことばを、寛容を、柔軟を、いいかげんさを、すっかり失う前に。
革命も退廃もただの娯楽。
毎日は非凡なまでに平々凡々。
やわらかくいいかげんに暮らしていきたいやね。
2015.08.20
ここ数日湿気のせいか体調が優れない。
体の節々が痛いし、ただでさえ大きい頭がさらに重い。
毎年のことながらこの季節になるとごっそり体重が落ちる。
不調の理由はそれもあるかもしれない。
筋肉なりなんなり、もうすこしつけておかないと体力が続かない。
油断すると仕事にいって帰って寝るだけで一日が終わってしまいそうでそれはとてもいやだ。
仕事は嫌いではないけれど、僕の生活のうえで衣食住の次の次の次の次の次くらいに欠かせないものでしかない。
そのくせ毎日の生活のなかで一番時間と体力をもっていくのも仕事というもので、それは就職前もっといえば幼稚園の頃からかわらない。
ほんとうをいえば、いつだってずっと家にいて、おしゃべりと炊事掃除洗濯とお芝居と書き物だけをやって、のこりは音楽と映画に溺れて静かに暮らしたい。
でもそれはむりだ。社会でしか生きることのできないよわい生き物だからむりだった。
どうしたってでかけていかなくちゃいけない。
入園式のとき、泣きに泣いて家にいたいと抵抗したときのまま、気持ちは変わらない。
衣食住の次の次の次の次の次くらいに欠かせないものでしかない幼稚園や学校そして仕事に、時間と体力をどんどん使ってしまって、衣食住とそれに次いで大切なものたちをないがしろにしてしまったり、そもそもそれを行う時間がまったくなくなってしまったりすることへの幼稚な納得のいかなさがいつまでも捨てられない。
体調が悪いと愚痴っぽい年寄りみたいになってつまらない。
引っ越してからこの一ヶ月強はとにかく暮らていくことがままごとみたいに楽しくて、ほかのことはする気にもならなかった。
いまになってようやく落ち着いてきたのだろう。
ただ暮らしていくだけではたいくつするようになってきた。
生活の苦労が染み付いて所帯染みてくるのはまんざらでもないのだけれど、やっぱりそれだけじゃつまらない。
お芝居をしたいな。
映画ももっとみたい。読みたい本だってうんとある。
暮らしに慣れて、満足しきって、たいくつしはじめたらようやくそういう気分を取り戻してきた。
贅沢な話だ。
きょうは月に一度のお芝居の稽古の日。
稽古用に書こうと思っていたテキストはさっぱり進んでいない。
2015.08.13
2015.08.05
14時41分。浜名湖SAを出る頃には高速バスは予定より35分遅れで運行していた。