2017.12.07

本を読まない時期は「あれ、この人こんなに口数少ないんだっけ」と思うし、いざ本を読みだすと「こいつ本を読むとほんとよくしゃべるな」と思う。
本以外のインプットではそんなにしゃべらないし、本からのインプットしかアウトプットに繋がらない体質なんじゃないか。

きのうの帰り道に奥さんはそんなようなことを言った。
英国ロイヤル・オペラ・ハウスの『不思議の国のアリス』を観に映画館に出かけた帰り道だった。
きのうの無口の原因の八割は空腹由来の不機嫌だったことは疑いようがないけれど、それでもたしかに僕はバレエの感想をうまく言葉にすることができない。
それはまたバレエというものを頭からおしまいまで観るということ自体きのうが初めてだったことも少しは関係あるかもしれない。
けれどもついこのあいだ初めて見た能は、かなり饒舌に気持ちよくしゃべった。
能は入門書から謡本、日本語文法の生成史まで目を通し、かなりブッキッシュな態度でのぞんだから、これもまた本からくる饒舌だともいえる。

不思議の国のアリス』はすごく良かった。
かわいいし、きれいだった。
けれども、これ以上の言葉は出てこない。

テクストの表れない身体表現の面白さがわかるような気持ちになったのもついこの間のことで、それは大学時代の演劇との関わりの中でそれこそ「体感」していったことだけれど、そうした演劇の身体性について言葉にしようという気持ちは当時ふしぎと起きなかった。
ちゃんと言葉に起こしてみたいと思いついたのは先月読んだ中村雄二郎の『臨床の知とは何か』や渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性: 情報社会をいきるための感覚のリテラシー』の影響が大きい。

テクストであればテクストに置き換えられる、というような話でもない。
あらゆるテクストは言語という画材を使った絵画、音を使った音楽、ノミを使った彫刻であって、それが言葉で書かれているからといってかんたんに言葉で再現できるようなものではないから。
絵画や音楽や彫刻などの作品を、言葉を用いて十全に再現できるなどという意見は、多くの人から直観的に否定されるだろうけれど、テクストとなるとどうもこのことが見えづらくなる。

そもそも書かれた言葉と話される言葉は全くちがう。書かれた言葉は視覚によって受け取られるけれど、話される言葉は聴覚によって受け取られる。
これは受付の窓口が違うだけで、結局は読むことも聞くことも書くことも話すことも体のまるごとで行われるのだという考えが最近僕の中では主流なのだけれど、ともかく入り方がちがえばそれはもう全然違うともいえるだろう。
我が家に玄関から入ってきた人と、天井を突き破って入ってきた人とでは応対の仕方が変わるように。

あらゆる作品に触発されて行われるおしゃべりや書き物は作品の「再現」ではなくあたらしい別個の作品なのだ。ここでは作品への感想というようなことを想定して書いているけれど、この「作品」というのは「現実」だとか「出来事」みたいなものに言い換えてもいい。ひっくるめて「情報」としてもいい。ともかく自分を媒介としてそこを通過していった「情報」が、通過する前と後とではすくなくとも異なった性質を帯びている、というようなことが言いたい。それは自分を通過する前の姿とかなり似通っていることもあるだろうし、まったくの別物だと言い切ってしまいたくなるものもある。

僕という媒体は、テクストを入力するとおしゃべりを出力するというのが得意技らしい。
おしゃべりという入力をおしゃべりと言う出力で返すのは苦手だ。
だからこうしてきのうの奥さんとのおしゃべりの続きをテクストで返している。
おしゃべりをテクストで返すのもわりあい得意なようだ。
テクストをテクストに変換することはその次くらいで、苦手というほどでもないけれどすこし苦労する。

こう考えてみると僕は能やそのほか演劇作品の多くを僕はテクストの表出として受け取っている。これはテクストでもあるし、おしゃべりでもあるということだ。だから感想はおしゃべりでもテクストでもふんだんに返すことができる。
本を読むと僕はまずおしゃべりを経由しないとうまくテクストにできないから、まずは読んで感じたことをべらべらとしゃべりたくて仕方なくなるのだといまこうして書いていて気がついた。


バレエの感想がうまく言葉にならないという話だった。
バレエは能と同じく舞台作品ではあるけれど、テクストが表出するというものではない。
表出しているとしたらそれは身体言語というようなものだ。
僕はこうした身体表現の入力をどのように出力するのだろうか。
とりあえずテクストやおしゃべりなど、言語というツールを用いたものではないようだ。

そういえばバレエなどの舞踏と同じように言語を用いない絵画や音楽の感想を言葉にするのも苦手だ。
やっぱり絵画の感想は絵画でしか、音楽の感想は音楽でしか表せないということなのだろうか。

そういえば昨晩からなんとなく重心を高めに軽やかに歩行することを心がけている自分がいることに気がついた。
これこそが僕なりのバレエへの応答なのかもしれない。

2017.11.17

若くてはつらつとしていることの価値、というものがある。
なぜだかこういう話は女性の話としてばかりなされるけれど、もちろん生まれてこの方老いたことしかないすべての生物にとって関係できる話だ。
なぜだか、と書いたが理由はある程度はっきりしている。
男のほうがいつまでも若くあるという幻想を抱きやすいような構造がいまの世にはある。
そのことのナンセンスさについては僕よりもうんと上手く言葉にできる人たちがたくさんいるだろうし、そこに連なろうとするには僕の持つ怒りはあまりに小さく、思慮はあまりに浅いように思うのでこのあたりで黙る。

ともかく、「わたしが一番きれいだったとき」は、僕にも確かにあった。
そしてそれはすでに過ぎていった。
そういう話をきょうは書きたい。

子供のころは自分と同世代の人間がテレビに出ているのを見ると虫唾が走った。
僕としては芥川賞の最年少受賞者になる予定であったし、世界一周を成し遂げた偉大な高校生として全国の講演会に引っ張りだこになる予定であったから、そうならなかったことをはっきり突きつけられるようでほんとうにいやな気持になった。
一番嫌いなテレビ番組は「天才てれびくん」。
理由はもちろん、あの番組のどの出演者よりも僕のほうが知的で思いやりにあふれているにもかかわらず、僕はレギュラーどころか挿入されるちょっとしたVTRにすら出る機会に恵まれなかったからだ。

就職してすでに四年目だ。
いい加減、自分がもう「いちばんきれい」ではないことを認めなくてはならない、というか、もうぜんぜん「きれい」でもないし、そもそも最初から人から尊敬されるような大したものなんて何も持っていないという事実から目を逸らすのがきつくなってきた。
こういうことを認めることは、僕の繊細な自意識からすると大変苦しいことだけれど、いったん開き直ってしまえばこんなに楽チンなこともない。
なーんでもない「ふつう」から、気長に始めてみればいいのだ。

僕は最近「なにかするにしても、30後半くらいからだな」と思っている。
これからの十年は、興味の赴くままに本を読み足を伸ばし、自分を育てていきたいと思う。
それは僕を糠床ととらえ、捨て漬けをし、毎晩かき混ぜるような気持ちなのだ。
そうやって自分の中にとりこんでいったものに、この体が糠床のようにはたらいて、誰かを喜ばすことのできるものが発酵してきたらいいなと思う。
残りの若さを仕込みの時期として捉えなおすことができて、いまはとてもいい気分だ。

「だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね」

2017.11.07

体重がぐんと落ちたせいか、雨の日が長く続いていたせいか、日照時間があっという間に短くなってしまったせいか、会社のパソコンがデスクトップからモバイルにとってかわり肩が凝るようになったからか、連休を目前に控えてそわそわしているからか、奥さんの体調がすぐれないからか、連休中そんなかわいそうな具合の奥さんを置いて出かけてしまうことが後ろめたいからか、単純に奥さんと離れてしまうのがさみしいからか、たぶんそのすべてが原因となって、きのうは一日中気持ちが落ち着かず、意味もなくむしゃくしゃしていた。
いまもまだ落ち着いてはいない。

そわそわしてしまって本も読めない。WEB媒体の軽めの記事すら目の上を滑っていく。
勉強したいこともやまほどあるのに、と焦りだけが先走るも気分が乗らない。

「読むことは書くこと」と最近読んだ記事の中でも掲げられていて、それはその通りで読むことはそれ自体でひとつの創造的な行為だけれども、その行為は食べ物を消化する内臓の運動のようなもので、外へは出ていかない。
出すにはまたひとつ書いたり話したり手を動かしてみる足を伸ばしてみるなどの行為が必要なのだ。
そう、ここ最近の暴食がたたって、いま知識や考えが便秘気味。
困ったことだ。
楽しさにかまけて蓄えすぎてしまった。
自分としては、いまようやく蓄えていく準備ができたくらいの気持ちでいるのだけど。
脳みそも気持ちも体だから、体にストップをかけられたら休むしかない。
ほかの部分を働かせなくては。
こういうときに走ってみると爽快なのは知っている。
それも億劫なので会社でずっと深呼吸をしている。

いつも意識して深呼吸をすると、ふだん呼吸がどれほど浅いのかに気がつく。
気がつくだけで、どうすればいいのかは今でもよくわからない。
深呼吸するぞ、という時ですら、満足に深い呼吸ができているようには思えない。
すぐに肋骨のあたりが痛くなってきて、むしろ息苦しいような感じさえする。

息すら落ち着いてできない。
困る。

2017.11.03

昨晩は奥さんが帰ってこない日だったので仕事終わりに映画館に行った。

楽しみに邦訳を待っていたトーマス・トウェイツの『人間をお休みしてヤギになってみた結果』はもちろん最高で、映画館のロビーで読み終えたときの僕の顔はふにゃふにゃになっていたと思う。

映画は『ゲット・アウト』を見た。これぞ映画という顔、これぞ映画という音。トリッキーなアイデア一発勝負と見せかけてストレートな演出の鮮やかさでみせてくる映画。うんうん、映画はこうでなくっちゃ。大満足で映画館を出た。

帰ってすぐテレビをつけて録画していた「100分de名著」の歎異抄の回を流しながら前日の豚汁を温めなおしてうどんを投入。夕飯を済ます。
楽しみにしていた本にも映画にも満足してしまっていたので、食後に何かしようという気持ちにならない。とりあえずSMAPのやつを流しておく。面白くはない。けれども楽しそうにわいわいやっているのをだらだら眺めて楽しむ、もしかしたら何かすごいことが起こるかもしれない、みたいなわくわくした感じは懐かしいような気もした。でもやっぱりありふれているのかもしれない。

奥さんがいないとつまんないな、と思う。
生きがいは、寿命が300年あっても遊びきれないだけの文化があるのでいくらでもでっち上げられる。けれども生活のしがいはもうすこし個人のサイズやくせに合わさってしっくりくるものでないといけないらしい。そして僕の生活のくせとして、しっくりくる運用へのやる気スイッチはしっくりくる誰かといないと入らないようだ。難儀な性分をもって生まれてしまったものだと思う。文化に遊ぶ元気は、ある程度しっくりくる生活がなければ湧いてこないから。生活をなくしてしまうと、文化に生きるしかなくなる。けれども僕は文化でご飯を食べていけるほど器用でも極端でも元気でもない。
そんなことを考えていたらこれは今朝気がついたのだけど弁当箱を洗うのを忘れた。
忘れているからさっさと布団に入って夜電波をタイムフリーで聴いた。まだ寝つけなかったのでリアルタイムでメガネびいきを聴いた。
雨が降ってきた。
これじゃあ余計に寝られないなと思ったところから記憶がない。

今朝起きて弁当箱を洗い忘れたことに気がついてしょげた。
でも洗えばいいだけの話だったので洗ってまたご飯を詰めて会社に行く。

2017.10.18

長い雨にまいって早寝をしたら晴れていた。

週明けから、夫婦そろって九時前まで起きだせない体たらくだったのだけれど、今朝はちゃんと八時半には家を出ることができた。
われら太陽の子。

本が読みたくて読みたくて仕方がない。勉強もしたい。運動もしたほうがいい。
けれどもそれだけでは奥さんと遊ぶ時間が減ってしまうので、なるべくそうならないようにほかのものから削っていく。

たとえばtwitterやらを意味もなく眺める時間が減った。
どのみち面白いリツイートは奥さんが教えてくれる。
通勤電車のなかで僕はぐったりとして無口なのだけれど、目の前でスマホをたくる奥さんがたまに画面をこちらに向けて面白いツイートを見せてくれる。
僕はそのときは黙ってうなずくだけだけれどわりとあのやりとりが好きだ。

いまはアウトプットよりもインプットしたいし、からだに入れるのは情報の濁流にさらされるのでなく自分で選びとりたい。
昔からカタカナ語を多用する人のことを軽蔑すらしていて、だからこのアウトプットだのインプットもしゃらくさいくらいだけれど、さいきんは自分の考えをうんと遠くまで進めてくれるような便利な言葉に出会えたと思うとその大半はカタカナだ。
たとえば「ブリコラージュ」。
この言葉についてはなぜ大学生のころこの言葉を濫用しなかったのかというくらい、便利な道具だ。やっぱりあの頃の僕はジーンズじゃなくて本を作るほうのリーバイスを読めていなかった。いままた読み返したい。

ほかには「リバースエンジニアリング」「アフォーダンス」あたりが手になじむいい道具だ。
そうなってくると「エクソフォニー」あたりもまた引っ張り出してきたくなる。

いま一度日本語からのエクソフォニーを試みることで、自分の思考形式をリバースエンジニアリングする。そのうえで手持ちの要素をブリコラージュして得られるものは、あらたなアフォーダンスを獲得しているかもしれない。ほら、こう書くとバカみたいだ。
本を読むと人はバカになるけれど、それは自分で扱えもしない道具を使おうとするからだ。
服に着られるように言葉に語られているのだ。
自分よりも雄弁なものを身に着けてはいけない。

なれないカタカナ語をあえて使うというのもエクソフォニーとは言えないか。
大切なのは、カタカナ語の濫用期を経て、それらの言葉を普段使いの言葉に「ひらいて」行くことだろう。
言葉を着崩すこと。着こなしの作法を更新すること。

 

 

2017.10.12

本を読んでいられるあいだは気分がいい。
図書館に通うようになってからどんどん本を読むようになった。

これまでは本というものは買わずにはいられないものだった。
それは自分の本棚に収めてまいにちその背表紙を眺めるともなく眺め続けることに意味があると思うからで、本というのは実際に読んだか読まなかったかはそこまで重要ではない。
自分の本棚にそんな本があるのかが大事なのだと思う。
本棚は庭いじりみたいなものだ。庭をいじったことはないので本当のところはわからないけれどきっとそうだ。
自分の関心ごとがかつてどこにあり、今どのあたりにあるのか。本棚の配置をいじりながら、その本棚の持ち主は自分自身を分解し、点検している。
過去あんなに熱中した一冊がいまいち今の本棚の雰囲気にそぐわなくなっていたり、古本屋のワゴンで叩き売られていたというだけの理由で買っておいた一冊がいつのまにか意味ありげな存在感をたたえていたりする。
自分の本棚をいちばん格好いいと思っているのも、いちばんわくわくする並びだと思っているのも、僕自身だ。
本棚は、かつてそうありたかった未来、またはいまだ焦がれ続ける憧れの在り方の見立てなのだから。

新しい本を迎え入れた時、その一冊によってそれまで保たれていた棚の中の均衡が崩れ、それぞれの一冊がまたあたらしい関係を取り結びながらあらたな均衡が立ち現われていく快感はなにものにもかえがたい。
本棚に新しい本を迎え入れる行為は、それまで想像もできなかった未知に出会う予感であったり、探検せずにはいられない謎を発見する喜びであったり、つまり自分が新たに作り替えられる可能性に満ちている。
読みたい本を買うのではない。「こういうふうになっていくといいな」という理想の在り方を立ち上げるためにこそ、本を買うのだ。
「こうありたい」という理想をモノに託して見立てていくというのは、先に書いたように庭づくりでもいい。盆栽でもいい。彫刻でも音楽でも、なんだっていいだろう。僕にとってはそれが本棚だったというだけのことだ。
本を買うということ、それは僕にとって本棚づくりという無上の「見立て」遊びそのものだ。
僕は本を読むのが好きなのではなく、本を所有し、レゴ遊びのように自分の生活の文脈にあわせて組み立てては壊しまた作り替え、そうやって自分だけの思索の場所を育てていくことが好きなのだ。
最近は発酵にハマっているので、このような本棚との関係のありかたがまるで「糠床」のようだとも思う。捨て漬けをしたり、定期的にかきまぜたりしながら、時間をかけて「うちの味」を醸していく楽しさよ!

以上が、僕が本を買い続ける理由だ。
けれども僕は三流以下の道楽者なので、懐具合や住宅事情を無視してまで遊び倒そうなんて豪気に構えることはとてもじゃないができない。
盆栽の置場もないからと苔盆栽に自然を見立てる喜びを見出すように、僕の「糠床」は本棚から僕の頭の中やノートの中へと場所を移し始めている。
だから八月のあたま頃から、僕は図書館に通うようになった。
するとどうだろう。
僕は本を読むようになったのだ。
もともと今年度は仕事もひまなので、比較的本を読むようになっていた。
とはいえ四月から七月までのあいだに読み終えた本は十冊程度だった。
それが図書館に通いだしてからの二か月では十五冊もの本を読み終えている。単純計算で三倍速だ。
僕は速読というものができないし、むしろ遅読であることに誇りをもっているくらいだ。
今でも遅い。一冊に少なくとも三日はかける。図書館の本は延長に延長を重ね、はじめのころに借りたものでもまだほとんど読み進んでいないものもある。だから読むスピードが三倍になったのではなく、読んでいる時間が三倍になったのだ。
僕は、「年収も恋人もなんでもかんでも多ければ多いほうがいい」というような、量がないと充実を感じられないような価値観からも距離をとっていたいと思っている。
だから、ふだんの三倍もの時間を読書に使っていることについても、「だからなんだ」で済ませたほうがよさそうな話だけれど、でも、自分比三倍の読書量ってすごいな、と思って、ついこうして書いておきたくなったのでした。大学生のころだって、こんなに本を読んでいたかと問われたら怪しいくらいだ。

手元に残らない本は読むしかない。それ以外に関係を持ちようがないのだ。
たったそれだけのことで、こんなに本を読むようになるとは思わなかった。
そしてわかったことがある。
本は、読むと楽しい!
読めば読むほど自分の頭の中の「糠床」がどんどんかき混ぜられて、どんどん美味しくなっていくのを感じる。読んでいるうちにまた読みたい本が増えていく。考え事が活発になり、知りたいことが無尽蔵に広がる。そうか、本って読んでも楽しいものだったのか。
レゴのように遊び、眺めているのとはまたちがった気分の良さがある。
「糠床」を外に見立て遊ぶのではなく、僕自身が「糠床」になる快感とでもいおうか。

本読む僕は「糠床」なので、ひととのお喋りもいい感じに醸される。
いや、これについては僕の話し相手はもっぱら奥さんなので、ぼくが一方的に気持ちよくまくしたてているだけで、それを好きなようにさせてくれている奥さんこそが「糠床」なのかもしれない。
ともかく最近はちょっと本にかまけすぎているので、この気分の良さをほかの人にも上手に振りまけるようないい塩梅を見つけたい。
これから仕事も忙しくなるけれど、本を読めるだけの気持ちの余裕は確保しておきたい。
それは誰よりも大事な自分自身の幸福のために、絶対にさぼっちゃいけない努力と工夫だ。

そして、読む楽しさを思い出せたいま一層つよく思うのは、やっぱり良い本は手元に置いておきたくなるということ。
佐々木正人アフォーダンス』、ブコウスキー『ポストオフィス』、高野秀行『謎のアジア納豆:そして帰ってきた“日本納豆”』の三冊は、きっといつの日か僕の本棚にお迎えしたいと思っている。それぞれどんな本の隣に置きたいか、もう考えてある。

2017.09.14

思い返すと一人暮らしに限界を感じてシェアハウスに引っ越したころから貧乏ゆすりや小さく奇声をあげることが少なくなった。一人暮らしの頃は家のなかでなにをしていてもどちらか片方の脚がガクガクしてたし、気がつくとアウウウウムウウウとうなり声のようなものが漏れていた。あのまま一人で暮らしていたら家の外でもアウウウウムウウウとしていたかもしれないと思うと笑えない。さすがに六、七人で暮らしているうちは、そうした奇声も他に誰もいないような時間にトイレの中にいるときしか発しなくなった。

 

貧乏ゆすりのくせはなかなか治らなかったけれどシェアハウスを出て奥さんと暮らしだしてからはまったくなくなった。「それやめて」とものすごく嫌な顔で言われたので、それがあまりにも嫌そうだったので、嫌な気持ちにさせるのは嫌だなと思いやめた。案外やめられるものだ。いまもこうして書きながら、貧乏ゆすりへのやむにやまれぬような衝動をかすかに思い出すものの、もうガクガクやろうという気持ちにはならない。

 

貧乏ゆすりや奇声がなくなったぶん、twitterを眺める時間が増えた。放置していたほかのSNSも、そんなに熱心に更新はしないもののだらだらと流し読むようになっている。あんまり楽しい時間の使い方じゃないなあと思いながらも、一人でアウウウムウウウとうなっているよりは不意に面白そうなイベントや感心するような考え方や確かにいま立ち止まって考えるほうがよさそうな記事だったりに出会えるからまったくの無駄というわけでもないような気がしてしまうからタチが悪い。

 

SNSを眺め偶発的な面白いこととの出会いを漫然と待つことは、「気晴らし」という意味では貧乏ゆすりや奇声とそう大差はない。

ラース・スヴェンセンの『働くことの哲学』を読んで、仕事や社会福祉に対する呑気なポジティブさに、俺が読みたいのはこういうことじゃないなあと思いながら、それよりも、ほんの数年前のある時代や、かの国と日本の状況の落差にがくぜんとする。

スヴェンセンの名前を知ったのは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で、これはとても好きな本で、増補版が出ていて買い直したいのだけどひとまず手元にあるものを読み直しながら、これを補助線として『退屈の小さな哲学』も手に取ってみる。

 

いったん話は横道にそれるけれど、國分功一郎の『中動態の世界』もとんでもなく良い本だった。この人のように難しそうな人たちが取り組んできた大切な事柄について易しく広くひらいてくれる著述というのはほんとうにありがたい知性であると思う。難しそうな人たちが当然とするコンテクストをいちいち参照して追っていくのはとても骨の折れる作業で、そこまでする体力はもう僕には残っていないように思うからこそ、日常の言葉のレベルから、順を追って話をしてくれる本に出会うとあたらしい友達ができたように嬉しい。その嬉しさに励まされて難しい人たちの著述もかじってみる活力も得られる。

ものを書くときはなるべく誰にだって自明のことなんてなにひとつない、という立場であるほうがいい。

このことの重大さは、会社勤めを初めていっそうつよく実感するようになった。

あるひとつの言葉をとっても、その言葉の背景に思い描く像はひとりひとり笑っちゃうくらいバラバラなのだ。そういったバラバラに散らばった背景を丁寧に整理しながら話のできる人をみると知的というのはこういうことをいうのだなと素直に思う。

 

脱線が過ぎた。

「気晴らし」の話だ。ここでいう「気晴らし」とはスヴェンセンや國分の退屈論で使用される意味での「退屈から目を背けるための行い」としてのものだ。

毎日は大体なんとなく退屈だ。眠るまでの時間はのろのろと進み、なにか時間を忘れて熱中できることがしたいと願う。けれども実際のところなにか行動を起こそうという気持ちにもなれないでいる。テレビは嫌いだからつけない。もう習慣づいてしまっているからiPadに手を伸ばし、twitterをひらく。きょうも誰かが何かを書いている。twitterのいいところはなにかあたらしい活字が読めるということだ。幼少期から活字中毒者で、テーブルの上のチラシや新聞なぞのインテリアに印刷された意味をなさない英単語の羅列に至るまで片っ端から読んでいた。そういう人にとってtwitterはとめどなく読むものを供給してくれるおそろしい装置だ。そうしてとうとうタイムラインを遡りきって、ふといまやっていることはなんて退屈なんだと思う。俺はtwitterに耽りながら、その「気晴らし」のただなかで退屈している。自分の中に起こった退屈をまぎらわそうと空虚な時間つぶしに耽っていると、いつしか自分がその空虚で満たされている。退屈に対処していたはずの自分が、いつのまにか退屈な存在になっている。

スヴェンセンも國分も、ハイデッガーを引きながらこういう退屈について論じている。ハイデッガーにとってtwitterはパーティだった。一人暮らしの僕にとってそれは貧乏ゆすりであり奇声であった。これらの「気晴らし」は、『暇と退屈の倫理学』の立場をとると、あまり褒められたものではない。楽しくないからだ。

退屈を論じた両者は共通して人は退屈というものから逃れることはできないと言う。

國分はさらにここから一歩踏み込んで、人は退屈に際して「気晴らし」という楽しみが創造できるのだと言う。だからこそ、暇という余剰から生み出されるものを楽しむ技術や作法を身につけようというようなことを提言している。僕はこれがとても素敵だと思う。帯文にも引かれているように「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」のだ。

 

twitterは「気晴らし」ではあるけれど、それで生活を飾りたいとは思わない。

スナック菓子にはなりえてもバラではないのだ。

これは「twitterなんか意味のないものに耽ってないで、もっとこう生産的なことをしようよ」という主張では断じてない。

スヴェンセンの『退屈な小さな哲学』と『働くことの哲学』に共通して言われることは、意味を求めるロマン主義的な考えに囚われていることこそが諸悪の根源だということだ。

確固たる意味のあるものなぞなんにもないのに、意味を求めるから人は退屈する。

「自分の人生にとってtwitterを眺めるだけのこの時間とはなんだろう」などというむなしい気持ちは、自分の人生に意味があるという考えを捨て去れないからこそ起こってくるものなのだ。

「自分はこのまま、モチベーションも愛着もないこの仕事にだらだら就いたままでいいのだろうか」と悩むのは、自分には社会にとって意味のある仕事を成し得るという思い上がりや、仕事を通じて追求する意味や実現する自己などというものがあるという信仰が見せる幻想に過ぎない。

とはいえ僕らがどっぷり浸かってきたロマン主義を捨て去ることはできないだろう。

だから、いまある悩みのだいたいはロマン主義という信仰による認知の歪みであることを自覚しつつ、ぼちぼちやっていこうよ、とスヴェンセンは言っているようだ。

僕はこの考えにもほっとさせられる。

意味なんかなくてもいいのだと思うと、会社にいるあいだなにひとつ面白いことのないことに対して、へんな罪悪感や物足りなさを感じずに済むかもしれない。

 

twitterは「気晴らし」にはなるが楽しくはない。

仕事に関しては「気晴らし」にすらならない。

さて、僕が創造すべきバラとはどんなものかしらん。

最近はそんなことをぼんやりと考えていて、なるべくtwitterを控えて本を読むようにしている。そうするとこれがまた楽しいんだ。読みそして書くという一連の行為はそれ自体大きな喜びであって、生活を飾るバラだ。

もう思い切ってtwitterをやめて、空き時間にはどんどこ本を読もう!

 

そう思ってtwitterをひらくとぐっとくる文章に出会ってしまった。

 

 

"Keyif"なんていい言葉だろう。

暇はそれ自体で退屈なものではない。

暇そのものを愛でること。

暇そのものがバラであること。

そう、「何もしない」というのは「至福の行為」なんだ!

 

ここで僕は小学生の頃からのバイブル、ベンジャミン・ホフの『タオのプーさん』を本棚から引っ張り出す。

僕はいつも興味関心がころころと移り変わりひところ熱中しては飽きてしまう自分は、そうやってめまぐるしく変化しているのだと思っているのだけど、気がつくといつもこの本に立ち戻ってしまう。

きょうはこの本を引用しておしまいにする。

「それにしても、プー、きみはどうしていそがしくないの?」と、ぼくはいった。

「だって、いいお天気なんだもの」と、プー。

「それはそうだけどーー」

「だったら、ぶちこわすことないでしょ?」

「でも、なにか大事なことしたっていいじゃないか」

「してる」と、プーがいった。

「え?なにしてるの?」

「聞いてる」

「なに聞いてるの?」

「鳥とねえ。あっちにいるあのリス」

「なんていってる?」

「いいお天気だね、って」

「それだったら、もうわかってるじゃないか」

「でも、だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」と、プーは答えた。

「でも、時間の使い方としては、ラジオを聴いて勉強するっていうのもあるんだぜ」

「そこのやつ?」

「そう。それ以外、どうやって世の中で起こってることを知るのさ」

「外へ出れば」と、プーがいった。

「う……そりゃ……」(カチッ)。「まあ、これを聞いてごらんよ、プー」

「本日、ロサンゼルスのダウンタウン上空で、ジャンボ旅客機五機が衝突、三万人の死者が出ました……」と、ラジオからアナウンサーの声が流れた。

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」と、プーがきいた。

「フム。それもそうだ」(カチッ)

「鳥はいま、なんていってる?」と、ぼくはきいた。

「いいお天気だね、って」と、プーがいった。

やっぱりまったくこれはいい本だ。

こうやっていろいろなことを思い出させてくれるからtwitterはやめられないよね。

 

「それで世の中のなにがわかるっていうの?」

 

なにもわからないよ、でも、「だれかほかのひともおなじ考えだってこと聞くの、いつだってうれしいもの」