2018.03.13

きのうの夜は案の定引越しの疲れで動けなくなり、家に帰る前にマルイでご飯を食べ、それでも体がだるかったので店を変えて甘いものを食べた。
甘いものを食べるとてきめんに元気になった。

実家からのラインで結婚二周年であることに気がつく。
いや、忘れていたわけではない。
引越しをしながら「どうしてこう節目節目で激動なのか」というような話を散々していた。
たぶん散々話していたからこそ当日に思い出す余地がなくなってしまっていたのだと思う。
ともかく二年だそうだ。
お互い他人とこれだけ長い期間いっしょに過ごすという経験がないので、これはすごいことだねえと言い合った。しかも基本的にはゴキゲンなのだ。ともにゴキゲンであろうと工夫していく我々はえらい、かわいい、すばらしい、と互いを称えあった。
これまでのお互いの遍歴を思うと、自身はゴキゲン体質なのになぜだか不機嫌でいたい人たちに懐きがちで、そのせいで需要と供給のてんでちぐはぐな関係を築いてしまうことが多かった。
それを思い返すとお互いにゴキゲンを目指せるいまはなんてイージーモードなんだろう。

思うに僕らは持ち合わせたゴキゲンをおすそ分けしたくなりがちな体質だ。
これまでは一対一の関係で、しかも不機嫌でいたい人たち相手にゴキゲンを押し売ろうとして疲弊してしまっていた。結婚して、いまこうして共にゴキゲンを量産出来る体制が整ってきたことでこの「おすそ分けしたがり」がまたむくむくと頭をもたげてきたのではないかという話もした。
学生時代この「おすそ分けしたがり」は不機嫌でいたい人たちとの相乗効果で自らを「メンヘラ製造機」にするという結果を生んでいた。今思うとこのメンヘラという言葉の安易さも含めて「時代だ……」という気持ちになる。
どんな状態のことを「ゴキゲン」と定義するのかというところからなんとなく共有できそうな人たちに向けて、ひかえめにゴキゲンを差し出す。いまはそのくらいのやり方を模索できるんじゃないかなと思っている。
「ゴキゲンのおすそ分け」という独りよがりな押し売りビジネスの業態はそのままに、個人事業から共同経営へと移行していったわけだ。かなりたちが悪いぞこれは。

そろそろまたお芝居をやりたいとも思っていて、それも不機嫌に屈しないための実践というようなものになるだろう。
僕は実際にみたことはないのだけど国だとか社会みたいなものがあるらしく、そうしたものを語る言葉を目にすると、決してゴキゲンとは言い難い状況が確かにある。そんななか「既婚者正社員男性」という、あまりに「正しい」自分の属性に引け目を感じることがある。ぼくのこと「正しさ」は歪なシステムの不正な利益を享受していること、つまり現行のシステムを増長させることに加担しているのではないか。
答えは当面出そうにない。
何度も言うけれど奥さんと僕が最高なのは結婚が最高だからではなく奥さんと僕が最高だからだ。けれどもたまたま正社員であることやたまたま男性に生まれついたことに対して僕はまだ言葉を持ち合わせていない。たぶんこれは偶然を肯定するという安易な結論に落ち着いてはいけない。偶然自体は偶然でしかないのでその正否を問うのはナンセンスだろう。ただ、偶然によってあまりに大きな不便をこうむる制度はやっぱり改修したほうがいいと思うのだ。
「制度が最高なわけでなく自分たちが最高なだけ」と気持ちよく言い切るためにも、制度によって誰かの最高が邪魔されるようなことを黙認してはいけない。
そのためにも一度制度というものがべつに大したものではないということを可視化させたいような気がする、というかお芝居を通じてやってきたことはずっとそんなようなことなようにも思う。
反制度みたいな態度は、結局制度に軸足を置いている時点で制度の論理の外には出ていかれない。
制度というものの性質をメリットとデメリットの区別もなく一個一個いちいち点検していくことで、制度というものの外でのあり方も見えてくるかもしれない。
だいたいこっちかあっちかみたいな論争が始まっちゃった時点でどっちもどっちなのだ。
こっちとあっちを分けてしまった初期設定から再点検したほうがいい。
これはお芝居に限らずつねに気を付けていたい。

そんなわけでお芝居の計画をもやもやと描いていて、今回は「たくましい寂しさ、ふてぶてしい切なさ」ということをずっと考えている。
制度から漏れ出てしまったものを、うまく言語化できないからといってないものにしてしまうのはなんだかおもしろくないのだ。
ひとは寂しくてもたくましくあれる。そのとき寂しさもたくましさもどちらもほんとうだ。
切ない気持ちに浸り切りながらもふてぶてしいというのもある。
なにかひとつの言葉ではっきりと名指せるような属性も状態も、ないのだ。
つねにいくつもの、ときには相反するような要素が糠床状に共存しているのが常だ。
ゴキゲンになるように僕らは糠床状のそれをかき混ぜるけれど、できあがったものを万人においしいと言ってもらう必要は感じない。
けれども糠床づくりを規制するような決まりや雰囲気ができあがってしまったとしたら、ぼくらはこっそり自分たちだけの糠床特区を立ち上げるだろう。
僕にとってお家やお芝居というのはそういう場所なのかもしれない。
いいものができたら、おすそ分けしたい。

2018.03.12

ついに引越しが終わった。
いや、終わったと言えるのだろうか。
カーテンも足りていないし、タオル掛けは大破したし、ゴミや段ボールもかなりの存在感がある。
片づけをして、ものの配置を落ち着けて、生活が正常に運用できるようになるのはいったいいつになるのだろうか。
しかしともかく、前の家をさっぱり引き払って新しい家にすべてを持って移ってこられたのだ。とにかくいったん引越しは終わったという達成感に浸りたい。
浸りたいのだけどやっぱり片付けが気になるし、生活のどんな局面もわかりやすくパリッとした場面転換というのはほんとうになく、だらだらと続いていくなかで緩急つけつつもろもろ移り変わっていくのだなあと思う。どんなに忙しなくても悲しくってもお腹はすくしふと退屈にもなるのだ。

なにはともあれきのうは楽しい一日だった。
この最繁忙期のべらぼうに価格の高騰する引っ越しシーズンに、それでも料金を抑えようと「二便目・時間指定不可」というプランでお願いしたのだけど、当日8時20分つまりは僕らの起きだす前から電話は鳴り、朝の作業が終わったから10時には搬出に伺います。
うれしい阿鼻叫喚のさなかお兄さんたちはキビキビと搬出を終え、オーナーさんの立ち合いも予想外にスムーズに終わって仕込んだ味噌やらパソコンやら貴重品やら手持ちの荷物を抱えてタクシーで追いかける。
あれよあれよと搬入される荷物を、お兄さんのキビキビにつられてあれよあれよと荷ほどきして、すっかり搬入まで終わるころにはまだ14時前。嬉しい誤算だ。

近所のお蕎麦屋さんにお昼を食べに行くとここもリーズナブルかつ豪華、店内もきれいでお兄さんもキビキビ気持ちがよく、きょうは気持ちのいいお兄さんが豊作だ。
肝心のお蕎麦も元お蕎麦屋さんアルバイトのうるさい舌を満足させる仕上がり。セットの天ぷらもおつゆと塩とを選べるのがうれしいしとっても美味しい。店内ではなぜかビートルズが流れ続けているのもよかった。

料理の待ち時間が予想外に長かったため、待ち合わせにちょっと遅れながら人を迎えに行く。このときすでに来客は一人の予定が二人に増えており、その一人がもう一人連れてきてくれたので初日から三人もお客さんが来る。
想定外に荷ほどきの人員が増えて、みんなちゃきちゃきと動いてくれたおかげでまさか初日ですべての段ボールが開かれた。むろん開かれただけで中身は床に放っておかれた者もなくはないけれどそれにしたってものすごい進捗率。想定比200パーセントは堅い。
ティーポットとマグが解き放たれたとたんにお茶を淹れてお土産にもってきてくれたおやつで一息ついたりうまく一息つけずに最後の段ボールをやっつけたりした。
この日来てくれた人の全員がご近所さんになるということがわかり、これからの日々、あまりに楽しそうすぎやしないか、と一周回って不安な気持ちにすらなった。

荷ほどきも一段落して、お客さんは次の用事に出かけていき、まだ夕方だったので照明を買いにIKEAまで行くことにする。
正直これから一週間は日没とともにじっと暗闇に身をひそめる生活を覚悟していたのでこれはものすごくうれしい。
到着するころには日暮れで、薄闇のなか青々とそびえるIKEAはすごい悪の組織、ないし権力のラボといった風情で格好良かった。
疲れから判断力がゼロか突拍子もないかに振れがちな危うい状態のなか、過不足なくきちんと吟味してベストに近いお買い物ができたように思う。
テレビ線も長いのを新調してほぼすべての生活を引き継げた。

帰宅して照明の設置にてこずり、ようやく点灯したそれらはとっても良い感じで嬉しい。
蛍光灯の白々とした明かりは精神に悪いと思いつつ、上京してこのかた8年。ずっと蛍光灯のもとで暮らしてきた。いま、この部屋を照らすあたらしくほっこりした照明にかなり大きな感慨がある。いやあこれは嬉しい。嬉しいなあ。

こんどの家のお風呂は追い炊きもあるのだ。
湯船につかりながら意味もなく追い炊きをして「あったかくなる!」と感動した。
追い炊きだから当たり前なのだが当たり前に追い炊きがることの感動は計り知れない。
くたくただったのだけれどお風呂と夜食でうっかり元気回復し、片づけを簡単に済ましてどうにか人が棲んでいる部屋らしくするところまでやってしまう。
こうしてみるとこの部屋は広い。広いし追い炊きもあるし照明も可愛いし最高。なにより近くにたくさん友人知人がいるというのが良い。

こうしてあったことをなるべく端折って書くだけでもこの分量になる。
しかもこれが一日で起きたのだ。そりゃあ疲れる。
こんなにいいことばかりでどんなしっぺ返しが来てしまうのかと戦々恐々としていたのだけど、奥さんは花粉症でつらそうだし右目にはものもらいができた。もう十分かわいそうなので大丈夫そうだ。
なにより一週間が始まる。この肉体疲労を抱えての労働が始まるのだ。なんて恐ろしい。むしろもっと楽しいことや嬉しいことをよこせ!とだんだん強気になりながら今朝通勤電車に乗ったら前の家のときよりもずいぶん快適でまたゴキゲンになっちゃったな。

きょううっかり帰る家を間違えないように気を付けないといけない。
それだけが不安だ。

2018.03.09

きょうで今の家からの通勤は最後だねえ。
今朝の電車で奥さんがそう言って、確かにそうだったので確かにそうだなあと思った。
いま使っている路線は車両が古いため通路幅が絶妙に狭く、わりと嫌いだったので嬉しい。

奥さんの活躍で冷蔵庫も順調に空に近づき、各種手続きも優秀な僕がてきぱきと終わらせた。
こう書いておけば「あのころ俺はてきぱきしていたのだ」と読み返した僕は勘違いするだろうが、実際の僕はきのう冷たい雨が降りしきるなか左手にスーツケース、右手に亀、傘を持つ手はもうない。そんなかわいそうな状況のなか、泣きそうになりながらもけなげに新居や区役所やもろもろでやらなくてはいけないことをなんとか済ませて寝込んだ。

このときばかりは「俺にばかり引越しの面倒なことを任せっきりにしちゃってさ!」とやさぐれそうにもなったけれど、そもそも半分は好きで引き受けたことだし、冷蔵庫事情に関しては奥さんに任せきりだし、こういうのは持ちつ持たれつなのだ。
奥さんはぐったりした僕を見かねて足をもんでくれたりお風呂に湯水を溜めてくれた。
これでは僕たちの持ちつ持たれつの関係のバランスは、むしろ奥さんからしてもらったことのほうが多くなってしまったようにも思う。

 

話は少し変わるような変わらないようななのだけれど、人間関係というのはお互いにお互いをちょっとバカにしているくらいが健康なのかもしれない。そのうえで自分のバカさにも気がついているとなおいい。
今回の引越しになぞらえていくと、奥さんは僕が考えもなしに直前まで必要そうなものを段ボールに詰め込んでしまうことに呆れているし、僕は引越しに関わる対外交渉を全部やらされている気持ちになって不服に思うところがある。
このようにお互いに「この人、ちょっとダメだな」と思っているほうが、「この人よりはマシにやれる」という自信につながり、「この人の分もやってあげよう」と行動になってあらわれる。
うっかり相手のほうが得意なことまでやってしまうと「なんでそんなやり方するの」とバカにされてムッとするけれど、ムッとするとき同じようにこちらもまた相手をバカにしているのだと気がつけるとどうでもよくなってくる。

そもそも人をバカにするのは、自分は自分の手持ちのものさしにそってものごとを理解しているに過ぎないという事実に盲目になっているからなのだ。
人それぞれものごとを判断し行動するやり方は異なる。
このことに気がつかないまま、自分のものさしからみて無能な人を無能と判断するのは、自分もまた相手のものさしからみたら無能である可能性を考えていない。
こういうのは言うのは簡単だが実際に自分の物差しを相対化して暮らしていくのは難しい。
そこで人にバカにされる効用というのが出てくる。
人にバカにされてムッとするとき「てめえのものさしで俺を測りやがって」という思いが湧きあがっている。そしてそのつど「それはこちらも同じであったな」と寛大な気づきが訪れる。
ここで気がつけないやつのことを本当の馬鹿と呼ぶのだと僕は思う。

お互いに「バカだなあ」と思いながらもそれを断罪するのではなくフォローしていくというあり方は、相手のものさしの足りていないところも含め肯定することだと言えないだろうか。
一つのものさしを共有する関係は一見すると強固かもしれないけれど、なんというかしなやかではない。価値観の地殻変動がひんぱんに起きるいまの時代そういうのはちょっと危なっかしいんじゃなかろうか。
僕には相手のバカに呆れ、自らのバカにずっこけられるような関係がいちばん居心地がいい。

誰だってふだんは自分が一番賢いような気持ちで生きているんじゃないかと思う。
そしてそれはそれで構わないんじゃないか。周りをバカにしていた自分が一番バカであったと懲りずに何度も恥じ入ることができればそれで充分じゃないか。そんなことを思いながらきょうもどこか誰かのことを見下しながら楽しく生きています。

2018.03.06

このブログのように思ったままを整理しないままに書き流すというのは、デトックス効果はあれども書く訓練にはならない。
そういう実感があるから、ここ数日は「どうにもうまく言葉にならないのだけどなんとなくこんなことが書きたい」というものを無理に書いてみることを試している。
そのうえでいちど一気に書いてしまってからは見直しも整理もしないものだから、いつも以上に読みにくい文章になっている自覚はある。
自覚はあったのだけど今年に入ってからのブログを読み返してみると思ったよりも読める。
多少の破綻こそあれちゃんと読める気がするから、語だとか文法だとかそうしたフォーマットの力というのはものすごい。どんなに適当に書きっぱなしたとしてもこうして日本語で書く限り日本語という言葉がもともと持っている型の外に出ていくことはできない。こうして野放図に書いているようでもそれはちゃんと言語体系の型によってある程度さまになるようにガイドされている。

この前このブログで能の話をしたようだけれど、能も観ていると型というものの重要さをつよく感じさせられる。
個人のありようなんて些末なことはどうでもよくて、いかに型を血肉として取り込めているか。そういうことが問われるような世界に今は興味がある。個人なんてものはどれもおなじようなもので退屈だ。型というのはメディアだ。自分が身に付けた型を媒介としてなにを表現するのか。そこでようやく個人の特性というのが問題となるのであって、自分が寄りかかる型もないままに何かを表現しようとしてもそれは表現しようとしたその対象自体の持つ型通りに拙い再現を試みることにしかならないだろう。対象になにかしらの変換や変容をもたらそうとするならば、自身の側に異質の型がなければいけない。

いま僕はいっぱしの型を身に付けたいと思っている。
それは何年もかけてようやく血肉となるようなものでなくてはいけない。
そのようなものとして期待しているのが発酵、中医学、そしてプログラミングなのだがどうにもその勉強に身が入らないので困る。
なんだかんだ言って僕はまだ一夜漬けでどうにかなるような技術や知識で間に合わせたがっているようなのだ。

退屈で地道に積み重ねていくことの必要と憧れを感じているのに、実際に地道にやるのはものすごく億劫なのだ。
どんな分野もちょっと勉強したときに広がる妄想というのがいちばん抽象度が高く、広がりもあって豊かに思えてしまうものだ。
そこから先の勉強というのはそんな抽象的なイメージを具体化していく作業なのだから、いつしか狭くなってくるし、広がりも考えつきにくくなってくる。
そのどん詰まりを経てようやく、型として血肉化できるのだと思うのだけれど、僕はこの一度狭く小さくなっていくプロセスが我慢ならない。
最初から最後までずっとブレイクスルーだけしていたい。
こんなだから地道に積み重ねていくということがさっぱりできない。
けれども僕ももう何年だか社会人を経験してしまった大人だから具体的であることの力強さというのは嫌というほど身に染みている。具体的であればあるほど、それは遠くまで届くし、届けることのできる範囲が広がればそれだけ大きくも深くもできるのだ。
わかっちゃいる。
けれどもものすごく億劫だ。

ひとかどの人物になるためには型の体得は不可欠だが、人には性分というものがある。
僕の性分とはめんどうくさがりで飽き性であり、信じられないほどこらえ性がないというものだ。おまけに記憶力は無に等しい。体力も生きているのに最低限必要な分がやっとという程度しかない。
そんな僕でも楽しく無理なく研鑽をつんでいけるものがないものかなあ。
自分で書きながら自分の甘ったれぶりに張り倒してやりたくもなるけれど、けれどもこれが現実なのだから仕方がない。
とにかくこうしてだらだら書くことは気がつけばやっているから、書くときに書けそうにないことを無理くり書いてみることで、書くことの技術や方法論みたいなものがぼんやりとでもみえてきたら儲けものだなという貧乏根性からまたこの数日ひんぱんにブログを更新している。

ほんとうはブログにはブログにふさわしい文体というのがあって、僕の文章は一文がたらたらと長く改行するにしてもカタマリ感がはんぱに大きく、さらっと読み通すには引っ掛かりが多すぎる。けれども人気のあるブログをやりたいわけではないから、くだけた文体で一文を短く刈り込んで適宜図や写真を挿入するということは多分これからもしない。そもそも人に読んでほしいならタイトルも日付だけなんて素っ気ないものでなく「奥さんと毎日楽しく過ごすライフハック10選」みたいなキャッチーなものにするべきなのだ。そのように研究を重ねて万人にリーチするブログを追求してみるというのもひとつの型の取得ではあると思うけれど、僕はただたらたら書きたいだけなのだからべつに多くの人に読んでもらわなくてもいい。
いつか「多くの人に読んでもらいたい!」という気持ちや必要が出てきたらそのとき頑張ればいいのではないか。
こうして書いていて思いついたのだけど僕が型を血肉としたいと言いながらもその勉強や訓練に身が入らないのは、当面のところさしせまった気持ちや必要が見当たらないからなのだろう。
だとしたらいまはだらしのない型なしのまま、ぼんやりとそのときを待っているしかないのかもしれない。

2018.03.02~03.05

来週には引越し。
引越しというのはもっと大変なものかと思ったけれど、物件の審査が通ったのかどうなのか、その結果をやきもき待つしかないという時期がなによりも心労が大きく、そのあとはやることは明確だしやれば終わるのでずいぶんと気楽だ。

ぼんやりと決まりきっていないこともあるにはあり、それは少し落ち着かないけれどそれは楽しいことがもっと楽しくなるかならないかという話なのでそわそわこそすれぐったりはしない。

まだ奥さんが奥さんになる前から、2年と半年ほど一緒に暮らした部屋はいま段ボールの占めるところが多くなってきて、だんだんと生活感が失われていく。
かつてセンチメンタル大魔神とおそれられた僕であるが、ふしぎと感慨もなにもない。
奥さんと離ればなれになるのであれば泣いてさみしがるけれどもそうではないし。
奥さんと考え決めたことであればたいていのことはケロリとしていられるんだろうなと思う。
変な言い方だけれども、意思決定を自分でしたという実感がまるでない。
かといって奥さんの意志に任せたかというとそうでもない。
これはもう二人の意志の総合というようなものが決めていたとしか言えない。
結婚も含めて「僕はこう思うのですがどうでしょうか」「よいのではないでしょうか」「それではぜひやりましょう!」「やりましょう!」みたいな合意形成をした覚えがない。
いや、これはさすがに僕の記憶力の問題の気も大いにするけれど、とにかくどちらか一人の意志みたいなものがもう一方の意志にはたらきかけるというようなことをしてきた感覚が全くない。
いつだって意志と呼べるようなものはお互いのあいだにあるように感じている。
これはすごく面白いことだ。
そして僕らが最高であることをものすごく直球で伝える、最大級ののろけであるとも思う。
けれどもこればかりは、僕の実感だけで言い切れるものでもない。
これを読んだ奥さんは「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」なんて言われてしまうかもしれない。
そうだとしたら僕はわりと自己というものを奥さんの側に拡散させすぎているということなので、自立した大人としてけっこうやばいんじゃないか。

ある面でなにかを共有しているとはっきり断言できる間柄であれ、いつまでたっても奥さんは他人であるのだからほんとうのところはわかりっこないしわからないからこそこうやって好き勝手書けてしまう。書けてしまうからといって書いてしまうのはほんとうに失礼なことなのかもしれない。それでも喜んでくれるかもしれない、面白がってくれるかもしれない、そうでなくても顔をしかめられるのだって面白い。そんな気持ちで書いてしまう。
僕は奥さんを信頼しすぎているのかもしれない。
たぶんこれを公開するのは週明けで、これは金曜の夜に書いている。
金曜の分をもう書いてしまったのにまだおさまらなくてこれを書いているので、このへんでいったんやめにして、実際のところを奥さんに聞いてみようと思う。

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やっぱり奥さんには「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」と言われてしまった。
けれども考えてみればそれは当たり前のことで、お互いの合意形成のプロセスをきちんと踏んでいるからこそ振り返った時に「まるでふたりの意志としか言いようのない意思」の決定がなされるわけだ。
たぶん僕は先週言いたかったことは、合意に至るプロセスが「ない」ということではなく、そのプロセスの透明度が高いということだったのだと思う。
つまり先週の僕は合意形成という言葉を「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」関係性を指し示す言葉のようにつかっていたけれど、奥さんはちゃんと相互に考えを出し合い一緒に練り上げていく行為を指す言葉として使った。そして合意形成という言葉の使い方は奥さんのやり方のほうがしっくりくる。
僕はコミュニケーションを考えるとき、一緒に何かを形成していくというイメージをなにより大事にしたいと思っているのだけど、それはそうはいってもコミュニケーションというのは「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」ものだと諦めているからこそ生まれてくる注意なのではないか。
だからこそ先週の僕は一緒に何かを形成していくというコミュニケーションを褒めそやすために、その形成に欠かせない合意形成のプロセスを「ない」ものとして書くという取り違えを起こしたのではないか。

一緒に作り上げたものは、制作にかかわった特定の一人に帰属するものではない。
それにはその形成に関わったすべてのひとの名前が記されている。
皆でつくったものはみんなのものなのだ。
これは僕がお芝居を作るのが好きな理由とつながっていくんじゃないか。
そんなことからまたいろいろと考えたのだけど、それは奥さんに直接しゃべってしまったので今あらためてここに書くことはよしておく。

2018.03.02

生活は割とあわただしく、季節の変わり目で気もちがいぎみで、まったく気持ちは忙しい。忙しいのだけどいかんせん仕事が暇なのだ。
気持ちが忙しいために会社にいるあいだじゅう考えなくてもいいようなことまで考えだして落ち込む。
落ち込みがネガティブな思い付きを呼び寄せ、再び落ち込む。
このように負のスパイラルに陥るのもすべて仕事が暇なのが悪い。
どうしてもどうしても暇なとき、退屈しのぎの最終手段として人間は何をするか。
落ち込むのである。
わざわざ考えなくてもいいようなことまで考えだして、不安になったり悲しくなったりするのである。
せっかく生活は忙しいのに、会社に来ているあいだじゅう退屈していては、一日の三分の一の時間を落ち込んで過ごさなくちゃならなくなる。そしてその落ち込みは残りの三分の一の生活にも影響をおよぼす。そうなると僕は一日のうち最後の三分の一、寝ているとき以外はずっと落ち込むハメになる。どんなに落ち込んでいてもあっさり寝れるのは自分のいいところだと思う。

こうして書いていて改めて思うのだけど、自分は仕事と生活をぱっきりと分けていて、それが苦しみのもとでもあることだ。
仕事も生活の内だと言えるようになれるだろうか。
なれるといいなとは思うけれどならなきゃならない道理もないはずで、なんでもいいから楽しく生ききりたい。
生活、睡眠、ずっと下に労働。この優先順位はたぶん一生変わらないだろう。
なんなら僕の天分とは「なるべく楽しく過ごすこと」なのだと本気で考えもする。
それなら仕事も楽しくやればいいじゃないかって、そう言われると困っちゃうな。

僕の文章は読みにくい。悪文だ。
書いている本人が読みにくいのだからそうとうだろう。
このブログに書くものは思いつくまま上から順番に書いていって、そのまま見直しもしないまま公開してしまうという、もうなんのためにわざわざ公開しているのかもわからないやり方で続けてきている。
だから、内容もそれぞれ接続しているようで接続していないようなものが多い。
「しかし」なんて一文を始めておきながら受けた前段をそのまま反復しているようなものまである。
なんでそんなことをするのか。

それは僕自身が読み返したときに面白いからだ。
僕がふと思い出したときに、このブログを検索すればいつでもいつかの僕の文章にアクセスできるようにしておきたかったのだ。
体裁を気にせずそのときそのとき書いたままに書くというのは、自分のコンディションがはっきりと表れるからいい。
人称や文体までブレブレで読み返しながら他人の書いたもののように感じることも多い。
この面白さは、きたない話で申し訳ないのだけどじぶんのうんちを見返すときの気持ちに似ている。
前日に食べたものや読んだもの、天気や心配事などのストレスの具合でその様子ははっきりと変わる。
自分から出てきたものなのに、それはすでにかつて自分を通り過ぎた者たちのなごりであって、出ていったとたんにもう自分ではないように思える。
ああ、確かにきのうはこんなかんじだったなあ、近頃ちょっと荒れ放題だからもうちょっと養生しなくちゃなあ、自分から出てきたものを見返してそんなことを考えてみたりする。
そんなかつて自分であり、いまは自分から分離されきった赤の他人のありようは、いまの自分を映し出すようでもありやっぱりまったく関係ないようでもあり、その距離感が面白い。こんな他人が自分から出てきたという事実は、そのまま自分というものがいかに自分以外のものでできているかを思い出させてくれる。

なぜ急にこうしてまた連日のように書き始めているのかというと、好きなブログがさいきん活発に、ほぼ毎日更新されているのに触発されたのだ。
なぜそれを知っているかというと、ここ最近仕事が暇なので職場で毎日のようにそのブログを検索しては新着の文章を楽しみに読んでいるからだ。
生活の実感をおもしろおかしく書けること、それでいて当人は至極おおまじめであること。
ほんとうにどれもものすごくいい文章なのだ。その実感が情けないものであればあるほどおもしろに磨きがかかっていくさまは、読んでいておもわず「どうやっても自分にはこうは書けない!」と羨ましさに転げまわりたくなるほどだ。

うんちの話なんかしてないで、僕も日々感じていることを素直に、それでいてユーモラスに書くことができたらいいな。
それはどんなに格好いいことだろう。

2018.03.01

このまえ会った友人のしてくれた話について、いまだに考えている。

ヨガの教室に通っているというその友人は教室の先生がこんなことを言っていたと話す。
人が人と対峙するとき、緊張や警戒心があると、胸の真ん中のあたりがこわばって閉じてしまう。そこを開くことが出来さえすればぽかぽかとしてきて、その温かさは相手にも伝わり、ほぐれていく。人を疑うことを覚える前の赤ん坊のまわりがぽかぽかとしているのは、赤ん坊の胸は常に開かれているからなのかもしれない。こんなようなわけで、仲良くなりたい人とはご飯を食べに行くのだ。ご飯を通すことで胸のところが開いていくから。それでもなお仲良くなれない人とは、だからよっぽど気が合わないということだろう。

だいたいこのような話だった。
いや、僕の記憶はいつだって信じがたいほど信用ならないので、いまではそんなような話として思い返している。

この話を感心しながら聞いていた僕が考えていたのは「はたして僕は今から赤ん坊のようにぽかぽかと他人の前に出ていけるだろうか」ということだった。
僕はご飯を食べて物理的に胸のところを広げようとしたところで、かたくなにこわばってしまうことが多い。これはたぶん僕の身体が信じがたいほど固いことも関係があるだろう。僕は前屈するとその指先から地面まで15センチは距離がある。これは誇張ではない。笑っている場合でもない。
では毎朝毎晩柔軟体操をして、体を柔らかくすれば、僕もぽかぽかと他人に心を、いやみずからを明け渡すことができるだろうか。
誰もかれも分け隔てなく、温かいところへと招き入れることに頓着しない。
そういう風になれるだろうか。

赤ん坊のようにポカンと世界に投げ出される。
そのイメージの鮮烈さに思わず心を奪われてしまった。
けれども、はたして僕は本当にそのようなことを欲しているだろうか。
正直よくわからない。

ともかくこの話を聞いて以来、気がつくと胸のあたりに意識が向いている。
たしかにこの人と話すときは胸のところが窮屈だな、とか。
意識的に胸を開いて歩くと、確かに気持ちはぽかぽかとしてくるな、とか。
胸を開くたびに肩甲骨のところがポキッだとかバキッだとか楽しい音を立てているけど大丈夫なのかな、とか。
奥さんといるときにどれだけ自分が開かれているかみてみなくちゃと思うのだけど、リラックスしきってしまうからか、奥さんといて胸のところを意識することを思い出せないままでいる。

 


町場のおばちゃんの、素朴なおせっかい。
そんなイデアとしての「おばちゃん」にヒントがあるような気がしている。
自分を自分の縁りかかるものへと投げ出しながらも、守りたいものはちゃんと守る。
赤ん坊に戻るのはちょっと色々と大人としてあれだけども、おばちゃんなら目指せそうだ。
それは芯が一本通っているということなのかもしれない。

ちんけな自意識やプライドを気にかける必要がないくらいの、丈夫で頼もしい芯。