2018.03.26

保坂和志『試行錯誤に漂う』を読んでいて、とにかくすべての営為は日々行われるその行為そのものだという考え方がいつも以上に自分にセットされている感じがある。
読むというのはその行為それ自体のなかにしかないものだけれど、ここでいう行為というのは読んでいない時間も含まれる。一冊を読み通すまでにはさまれる中断のなかにもその本のことを反芻し、反芻するうちに本の内容自体からは次第に離れたことまでをも想起する、そうした行為もまた読むことの一部というか行為のしかたのひとつのように思える。
だから今日こうして書いている文章も『試行錯誤に漂う』を読むという行為の中にあるような気がして、野球の試合とは日々の素振りのなかにある、コンサートは日々の練習のなかにある、それらは行為が結実する地点ではなくただ日々の行為の延長線上にある一点にすぎないという、この本で繰り返し繰り返し言われるその感覚はすごくわかるというか当然のことのように感じられる。僕にとっての日々とは読むことで、読むことと書くことはだいたい同じことだ、このように句読点の打ち方なんていう見かけ上の方法論に過ぎないのようなところから『試行錯誤に漂う』の実践をなぞってみる、それだけで書けることの射程ががらりと変わる、その変わる様子はこれまでよりもよく書けるとかそういうことではなくてただがらりと変わる、そうやって異質なものが生起していくそのさまが面白くてこのように句読点の打ち方だけを意識してだらだらと書いてみる、そうするとさっきは句読点の打ち方なんて見かけ上の方法論に過ぎないというように書いたけれどそれはまったくそれだけのことではないことがわかる、たとえばいまも「、」で引き延ばすことだけを意識するあまり一文がだらしなく長くなってしまっている、この一文のただだらだらと長く続いていることから自分がこの方法をまだうまく扱えていないことに気がつくことになる、というのもだらだらと続く必然性というか書くという運動から自然に一文が引き伸ばされるという風にならないといけないのだと想像しているからで、僕は今こうして書くという運動、句読点の打ち方というフォームによって規定された運動に振り回されるようにだらだらと一文を長く続かせる自分のあり方を面白がっている。

影響を受けているのは確かだけれどやや大げさにいまの状態を書いてみた。
こうしてブログを描いたり読んだりしていると「一文は短いほうがいいな」であるとか、「構文が明快ですっきりしているな」であるとか、とにかく読みやすい、伝わりやすいことが価値であるような気持ちが強くなってくるけれど、保坂和志の文章を読むと書くというのはそれだけのことではないということを思い出し、文章の書き方や読み方のフォームが改まってくる。いかんいかん、また一文がだらだらと長い。
さいきんは哲学書や一般向けの科学の本、その多くは別の言語で書かれた文章の翻訳された文章を読み続けていたので、日本語にはない言語の運動、論理の積み重ね方というのが染みついてきていたけれど、いまこうして日本語で動かされた言葉を読むと思考のモードがはっきりと切り替わるのを感じられて面白い。「ここまでは間違いがなさそうだ」という厳密さを積み重ねていく愚直さというのはどの言語でも共有できるという前提のもと哲学も科学も書かれるし読まれる。けれどもその愚直な積み重ねの上で行われる飛躍は、その積み重ねを行った言語によって導かれることが多いように思う。積み重ねの方法がいくら共通であれども、言語というのは思考のフォーム、型であるからその道筋を多かれ少なかれ規定する。この型に誘発される跳躍を読み取れるのはやはり同じ言語で書かれた文章でないと僕はまだできない。

どうやったってきょうは不細工に一文が長くなる。
昨晩は布団に入ってから奥さんとだらだらおしゃべりをした。布団に入ってからしゃべりたくなってしまうのは仲のいい人とお泊まりに行ったときみたいで何回やっても楽しい。僕の日々とは読むことと書くことかもしれないけれど、奥さんとの日々はおしゃべりだ。
どうやったって言語から逃れられないようなじれったい気持ちもなくはないけれど、奥さんと言葉や論理を積み重ねていくのは楽しい。その積み重ねのなかには時間が伸び縮みして折りたたまれている。いまはなにを読み考えるにしても奥さんといることが前提となっている。思考の型のひとつとして奥さんがある。今日このように書いているのも、だらだらと長いのは保坂和志のおかげだろうけれど、昨日髪を切った奥さんがひいき目なしに冷静に客観的にみてみても世界一可愛いということも関係しているだろうと思う。結局このブログはいつも取ってつけたような惚気で終わる、というのはだから不当な言いがかりで、いまの自分にとって読んだり書いたりするという行為はどんなものだろうと考えるとき奥さんのことは避けては通れない要素としてある。けれども前の一文はたぶんこのブログを定期的に読んでいてくれる唯一の人である奥さんに向けて「取ってつけたように惚気ているわけではない」と弁明している意味もなくはない。弁明も済んだので今日はここまで。

2018.03.16

日曜に引っ越してなんとか金曜までやってきた。

日曜すでに人の住む家の体裁は整っていたとはいえ、まだ手の入れる余地というには大きすぎる余地が余りあるといった状況で、結局月曜から毎日帰宅後に手を入れてあまり気持ちの休まらないまま体はもっと休まらないという悪循環をようやく抜け出たのは水曜の夜、とうとう大物家具の設置もあらかた終わり、段ボールをはじめとしたゴミをすべて出し終わったころだった。
生活のリズムがようやく軌道に乗ったかな、と思ったとたんに緊張の糸がプッツリと切れどっと肉体疲労が押し寄せてきたのが木曜日。
長かった。
とにかくこの一週間は長かった。

けれどもどう考えても新居は最高。
しんどい思いをしただけの甲斐はある。
広いしきれいだし収納はちょっと物足りない。
広すぎて持てあますので来月からの同居人の到着が待ち遠しいけれども収納だけは心配。
きれいすぎて毎日ちょっとしたお泊まり気分だし、ほんのり背伸びしたような気分のまま自宅で過ごすというのは新鮮な体験でもあるけれど疲れるのでいいかげん慣れたい。
亀はようやくご飯を食べるようになった。
亀にとっては引越しなんて天変地異みたいなものだから、ほんとうにかわいそうなことをした。引越ししてから下手したら数週間はストレスと警戒でじっとして動かないでいる、なんてことをよその亀飼いが書いているブログも読んだから心配していたのだけれどうちの亀は思ったよりたくましい亀でよかった。

亀はご飯を食べるのが本当に下手だ。たぶん視野が狭いのだろう。水面に浮かぶ小エビになかなか気がつかないし、気がついてもなかなかうまく喉にまで持っていけない。当人としては必死なのかもしれないけれどその様子はあまりにのんきで眺めているこちらはのんきな心持ちになってくる。
亀はうちで生きているだけで、とくに面白いことはしない。
飼っていてここまで面白味も何もない動物もないだろう。
けれども人間以外の生き物が目に見える大きさでもってそこに存在しているというのはなんだかそれだけでいい感じがある。どんな感じだと言われてもまだうまく言葉にできないけれどともかくいいのだ。無理に言葉を探してみるならばそれは人間以外の生存を考えているという状態のよさなのかもしれない。自分や奥さんの死活問題はシャレにならないが亀のそれはひどいものでのんきな心持ちで挑むことができる。うちの亀にとっての生存の条件とは、水や餌を替えてやる人間が存在しているということで、結局うちにいる人間以外の存在の生存を考えることは人間の元気でいることを考えることに繋がっている。けれどもその繋がりは印象としてはぼんやりしており「この亀のためにも生きていかなくちゃ!」というような切実な気持ちというよりは「亀もいるしなあ」という程度の、生存に対するゆるいモチベーションをもたらしてくれる。
この遠回りして自分の健康を慮ることをうっすらと要請してくる。このくらいのゆるくてよわいモチベーションがいちばん具合がいいように感じられて、このゆるさやよわさが亀のいる暮らしのよさの一つなのだろうなといま書きながら思う。これが犬や猫だったらましてや人間の赤ん坊だったりしたら「この子のために生きていかなくちゃ!」という切実さがどうしたって出る。
犬や猫や赤ん坊もいま生活にお招きしたい気持ちはなくはないけれど、それはたぶん自身の生存のモチベーションのだしにするという不遜な思惑とはまた別のところに所在があるようにも思うので、やはり無責任に自身の健康や生存の「必要」を押し付ける相手として亀はちょうどいいのだ。
もちろん生存のモチベーションのだしに使えることだけが亀と暮らすことのよさではないし、ほかにもきっとあるのだろう。けれどもとりあえず無理にひねり出してみようとしたらこういうことになった。無理にひねり出す言葉というのは生きるだの死ぬだのはたまた世界や宇宙だのえてして壮大になりがちだ。なんなんだろうこれは。

そして縁日にうっかり掬ってきてしまったこの亀との暮らしももう一年半とかそれ以上になるのに、きょうこうしてはじめて亀にここまでの文字数を使って考えたのはやっぱり新居に移ったからなのだろう。
環境が変われば認識のやりようも変わる。
当たり前に面白くもなかった亀のことをわざわざ考えてみる気持ちにもさせられる。
ここ数日奥さんがやたらと美人に見えるのは、親知らずの抜歯でパンパンパンのパンに腫れあがったお顔がようやく元に戻ったからだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。
引越しという一大イベントを共にやり遂げたこと、部屋の照明が暖色に替わり全体がやさしい印象に映ること、新しい土地と部屋で少し心細いこと。
そうした変化が、もともとつくりのいい奥さんの顔をさらに魅力的に感じるのに影響を与えているのは確かだろう。

亀も奥さんも、当たり前にせずいつでも珍しがったらり面白がったりできるようでいたい。
こういう初心は、これまでのようにまた忘れるのだろうけど。


と、ここできれいにまとまったから終えようと思ったのだけど、亀はともかく奥さんは毎日いちいち新鮮に可愛くたのもしくほかにも見所がいっぱいの興味が尽きない存在であり続けているので、ここで終えるとちょっとそれっぽく体裁を整えるためにうそをつく格好になる。
奥さんのことをなんてすばらしい人なんだろうと新鮮に思い直し続ける日々はいつかさすがにくたびれるのだろうか。
それはたぶん僕が奥さんが他人であること、いつまでも謎であり続ける他人であることに盲目になったとき訪れるだろう。
亀だって他人だけれど、たぶん僕は亀のことを僕や僕らの部屋の延長にみている。
亀の環世界は人間の僕には解りえないし、わかるための努力もあんまりする気にならないから亀の存在は僕の環世界の中にだけ存在している。
亀への新鮮な気持ちは、亀の環世界を垣間見ることの不可能性によって薄れていく。
奥さんがみている世界、感じている世界、奥さんの環世界を僕が体験することもない。
けれども、亀のそれと違ってその近似値を体験することを夢想することはできる。
近いようで、まったく異なる、けれどもつよく親しみを覚える。
この絶妙な環世界の隔たり具合が、尽きせぬ奥さんへの興味関心を生むのだろう。
まだもうちょっと近づけるかな。もうちょっと似た景色をみられるかな。
その欲目が、決して解消できない隔たりにちょっかいをかけたくなる気持ちにさせるんだろう。それは届かなくていい。むしろその隔たり具合も含めて気持ちのいい人だから奥さんと僕は最高であるので、隔たりがほんとうに解消されてしまってはまた違った話になってくるだろう。それでもそれはそれとしてすっかり同化してしまうことを夢見てみる。二人の間の距離も含めて愛着を持っていながら、それでもなおより一層距離をゼロに近づけようと試み続けること。
ほら、よく考えないまま書いていくと壮大になっちゃった。

「あなたが好きなのはプロセスそのものだからねぇ」
先日奥さんに言われて首がもげるほど頷いた言葉だ。
いい関係というのはいいプロセスのことなのかもしれない。

 

2018.03.13

きのうの夜は案の定引越しの疲れで動けなくなり、家に帰る前にマルイでご飯を食べ、それでも体がだるかったので店を変えて甘いものを食べた。
甘いものを食べるとてきめんに元気になった。

実家からのラインで結婚二周年であることに気がつく。
いや、忘れていたわけではない。
引越しをしながら「どうしてこう節目節目で激動なのか」というような話を散々していた。
たぶん散々話していたからこそ当日に思い出す余地がなくなってしまっていたのだと思う。
ともかく二年だそうだ。
お互い他人とこれだけ長い期間いっしょに過ごすという経験がないので、これはすごいことだねえと言い合った。しかも基本的にはゴキゲンなのだ。ともにゴキゲンであろうと工夫していく我々はえらい、かわいい、すばらしい、と互いを称えあった。
これまでのお互いの遍歴を思うと、自身はゴキゲン体質なのになぜだか不機嫌でいたい人たちに懐きがちで、そのせいで需要と供給のてんでちぐはぐな関係を築いてしまうことが多かった。
それを思い返すとお互いにゴキゲンを目指せるいまはなんてイージーモードなんだろう。

思うに僕らは持ち合わせたゴキゲンをおすそ分けしたくなりがちな体質だ。
これまでは一対一の関係で、しかも不機嫌でいたい人たち相手にゴキゲンを押し売ろうとして疲弊してしまっていた。結婚して、いまこうして共にゴキゲンを量産出来る体制が整ってきたことでこの「おすそ分けしたがり」がまたむくむくと頭をもたげてきたのではないかという話もした。
学生時代この「おすそ分けしたがり」は不機嫌でいたい人たちとの相乗効果で自らを「メンヘラ製造機」にするという結果を生んでいた。今思うとこのメンヘラという言葉の安易さも含めて「時代だ……」という気持ちになる。
どんな状態のことを「ゴキゲン」と定義するのかというところからなんとなく共有できそうな人たちに向けて、ひかえめにゴキゲンを差し出す。いまはそのくらいのやり方を模索できるんじゃないかなと思っている。
「ゴキゲンのおすそ分け」という独りよがりな押し売りビジネスの業態はそのままに、個人事業から共同経営へと移行していったわけだ。かなりたちが悪いぞこれは。

そろそろまたお芝居をやりたいとも思っていて、それも不機嫌に屈しないための実践というようなものになるだろう。
僕は実際にみたことはないのだけど国だとか社会みたいなものがあるらしく、そうしたものを語る言葉を目にすると、決してゴキゲンとは言い難い状況が確かにある。そんななか「既婚者正社員男性」という、あまりに「正しい」自分の属性に引け目を感じることがある。ぼくのこと「正しさ」は歪なシステムの不正な利益を享受していること、つまり現行のシステムを増長させることに加担しているのではないか。
答えは当面出そうにない。
何度も言うけれど奥さんと僕が最高なのは結婚が最高だからではなく奥さんと僕が最高だからだ。けれどもたまたま正社員であることやたまたま男性に生まれついたことに対して僕はまだ言葉を持ち合わせていない。たぶんこれは偶然を肯定するという安易な結論に落ち着いてはいけない。偶然自体は偶然でしかないのでその正否を問うのはナンセンスだろう。ただ、偶然によってあまりに大きな不便をこうむる制度はやっぱり改修したほうがいいと思うのだ。
「制度が最高なわけでなく自分たちが最高なだけ」と気持ちよく言い切るためにも、制度によって誰かの最高が邪魔されるようなことを黙認してはいけない。
そのためにも一度制度というものがべつに大したものではないということを可視化させたいような気がする、というかお芝居を通じてやってきたことはずっとそんなようなことなようにも思う。
反制度みたいな態度は、結局制度に軸足を置いている時点で制度の論理の外には出ていかれない。
制度というものの性質をメリットとデメリットの区別もなく一個一個いちいち点検していくことで、制度というものの外でのあり方も見えてくるかもしれない。
だいたいこっちかあっちかみたいな論争が始まっちゃった時点でどっちもどっちなのだ。
こっちとあっちを分けてしまった初期設定から再点検したほうがいい。
これはお芝居に限らずつねに気を付けていたい。

そんなわけでお芝居の計画をもやもやと描いていて、今回は「たくましい寂しさ、ふてぶてしい切なさ」ということをずっと考えている。
制度から漏れ出てしまったものを、うまく言語化できないからといってないものにしてしまうのはなんだかおもしろくないのだ。
ひとは寂しくてもたくましくあれる。そのとき寂しさもたくましさもどちらもほんとうだ。
切ない気持ちに浸り切りながらもふてぶてしいというのもある。
なにかひとつの言葉ではっきりと名指せるような属性も状態も、ないのだ。
つねにいくつもの、ときには相反するような要素が糠床状に共存しているのが常だ。
ゴキゲンになるように僕らは糠床状のそれをかき混ぜるけれど、できあがったものを万人においしいと言ってもらう必要は感じない。
けれども糠床づくりを規制するような決まりや雰囲気ができあがってしまったとしたら、ぼくらはこっそり自分たちだけの糠床特区を立ち上げるだろう。
僕にとってお家やお芝居というのはそういう場所なのかもしれない。
いいものができたら、おすそ分けしたい。

2018.03.12

ついに引越しが終わった。
いや、終わったと言えるのだろうか。
カーテンも足りていないし、タオル掛けは大破したし、ゴミや段ボールもかなりの存在感がある。
片づけをして、ものの配置を落ち着けて、生活が正常に運用できるようになるのはいったいいつになるのだろうか。
しかしともかく、前の家をさっぱり引き払って新しい家にすべてを持って移ってこられたのだ。とにかくいったん引越しは終わったという達成感に浸りたい。
浸りたいのだけどやっぱり片付けが気になるし、生活のどんな局面もわかりやすくパリッとした場面転換というのはほんとうになく、だらだらと続いていくなかで緩急つけつつもろもろ移り変わっていくのだなあと思う。どんなに忙しなくても悲しくってもお腹はすくしふと退屈にもなるのだ。

なにはともあれきのうは楽しい一日だった。
この最繁忙期のべらぼうに価格の高騰する引っ越しシーズンに、それでも料金を抑えようと「二便目・時間指定不可」というプランでお願いしたのだけど、当日8時20分つまりは僕らの起きだす前から電話は鳴り、朝の作業が終わったから10時には搬出に伺います。
うれしい阿鼻叫喚のさなかお兄さんたちはキビキビと搬出を終え、オーナーさんの立ち合いも予想外にスムーズに終わって仕込んだ味噌やらパソコンやら貴重品やら手持ちの荷物を抱えてタクシーで追いかける。
あれよあれよと搬入される荷物を、お兄さんのキビキビにつられてあれよあれよと荷ほどきして、すっかり搬入まで終わるころにはまだ14時前。嬉しい誤算だ。

近所のお蕎麦屋さんにお昼を食べに行くとここもリーズナブルかつ豪華、店内もきれいでお兄さんもキビキビ気持ちがよく、きょうは気持ちのいいお兄さんが豊作だ。
肝心のお蕎麦も元お蕎麦屋さんアルバイトのうるさい舌を満足させる仕上がり。セットの天ぷらもおつゆと塩とを選べるのがうれしいしとっても美味しい。店内ではなぜかビートルズが流れ続けているのもよかった。

料理の待ち時間が予想外に長かったため、待ち合わせにちょっと遅れながら人を迎えに行く。このときすでに来客は一人の予定が二人に増えており、その一人がもう一人連れてきてくれたので初日から三人もお客さんが来る。
想定外に荷ほどきの人員が増えて、みんなちゃきちゃきと動いてくれたおかげでまさか初日ですべての段ボールが開かれた。むろん開かれただけで中身は床に放っておかれた者もなくはないけれどそれにしたってものすごい進捗率。想定比200パーセントは堅い。
ティーポットとマグが解き放たれたとたんにお茶を淹れてお土産にもってきてくれたおやつで一息ついたりうまく一息つけずに最後の段ボールをやっつけたりした。
この日来てくれた人の全員がご近所さんになるということがわかり、これからの日々、あまりに楽しそうすぎやしないか、と一周回って不安な気持ちにすらなった。

荷ほどきも一段落して、お客さんは次の用事に出かけていき、まだ夕方だったので照明を買いにIKEAまで行くことにする。
正直これから一週間は日没とともにじっと暗闇に身をひそめる生活を覚悟していたのでこれはものすごくうれしい。
到着するころには日暮れで、薄闇のなか青々とそびえるIKEAはすごい悪の組織、ないし権力のラボといった風情で格好良かった。
疲れから判断力がゼロか突拍子もないかに振れがちな危うい状態のなか、過不足なくきちんと吟味してベストに近いお買い物ができたように思う。
テレビ線も長いのを新調してほぼすべての生活を引き継げた。

帰宅して照明の設置にてこずり、ようやく点灯したそれらはとっても良い感じで嬉しい。
蛍光灯の白々とした明かりは精神に悪いと思いつつ、上京してこのかた8年。ずっと蛍光灯のもとで暮らしてきた。いま、この部屋を照らすあたらしくほっこりした照明にかなり大きな感慨がある。いやあこれは嬉しい。嬉しいなあ。

こんどの家のお風呂は追い炊きもあるのだ。
湯船につかりながら意味もなく追い炊きをして「あったかくなる!」と感動した。
追い炊きだから当たり前なのだが当たり前に追い炊きがることの感動は計り知れない。
くたくただったのだけれどお風呂と夜食でうっかり元気回復し、片づけを簡単に済ましてどうにか人が棲んでいる部屋らしくするところまでやってしまう。
こうしてみるとこの部屋は広い。広いし追い炊きもあるし照明も可愛いし最高。なにより近くにたくさん友人知人がいるというのが良い。

こうしてあったことをなるべく端折って書くだけでもこの分量になる。
しかもこれが一日で起きたのだ。そりゃあ疲れる。
こんなにいいことばかりでどんなしっぺ返しが来てしまうのかと戦々恐々としていたのだけど、奥さんは花粉症でつらそうだし右目にはものもらいができた。もう十分かわいそうなので大丈夫そうだ。
なにより一週間が始まる。この肉体疲労を抱えての労働が始まるのだ。なんて恐ろしい。むしろもっと楽しいことや嬉しいことをよこせ!とだんだん強気になりながら今朝通勤電車に乗ったら前の家のときよりもずいぶん快適でまたゴキゲンになっちゃったな。

きょううっかり帰る家を間違えないように気を付けないといけない。
それだけが不安だ。

2018.03.09

きょうで今の家からの通勤は最後だねえ。
今朝の電車で奥さんがそう言って、確かにそうだったので確かにそうだなあと思った。
いま使っている路線は車両が古いため通路幅が絶妙に狭く、わりと嫌いだったので嬉しい。

奥さんの活躍で冷蔵庫も順調に空に近づき、各種手続きも優秀な僕がてきぱきと終わらせた。
こう書いておけば「あのころ俺はてきぱきしていたのだ」と読み返した僕は勘違いするだろうが、実際の僕はきのう冷たい雨が降りしきるなか左手にスーツケース、右手に亀、傘を持つ手はもうない。そんなかわいそうな状況のなか、泣きそうになりながらもけなげに新居や区役所やもろもろでやらなくてはいけないことをなんとか済ませて寝込んだ。

このときばかりは「俺にばかり引越しの面倒なことを任せっきりにしちゃってさ!」とやさぐれそうにもなったけれど、そもそも半分は好きで引き受けたことだし、冷蔵庫事情に関しては奥さんに任せきりだし、こういうのは持ちつ持たれつなのだ。
奥さんはぐったりした僕を見かねて足をもんでくれたりお風呂に湯水を溜めてくれた。
これでは僕たちの持ちつ持たれつの関係のバランスは、むしろ奥さんからしてもらったことのほうが多くなってしまったようにも思う。

 

話は少し変わるような変わらないようななのだけれど、人間関係というのはお互いにお互いをちょっとバカにしているくらいが健康なのかもしれない。そのうえで自分のバカさにも気がついているとなおいい。
今回の引越しになぞらえていくと、奥さんは僕が考えもなしに直前まで必要そうなものを段ボールに詰め込んでしまうことに呆れているし、僕は引越しに関わる対外交渉を全部やらされている気持ちになって不服に思うところがある。
このようにお互いに「この人、ちょっとダメだな」と思っているほうが、「この人よりはマシにやれる」という自信につながり、「この人の分もやってあげよう」と行動になってあらわれる。
うっかり相手のほうが得意なことまでやってしまうと「なんでそんなやり方するの」とバカにされてムッとするけれど、ムッとするとき同じようにこちらもまた相手をバカにしているのだと気がつけるとどうでもよくなってくる。

そもそも人をバカにするのは、自分は自分の手持ちのものさしにそってものごとを理解しているに過ぎないという事実に盲目になっているからなのだ。
人それぞれものごとを判断し行動するやり方は異なる。
このことに気がつかないまま、自分のものさしからみて無能な人を無能と判断するのは、自分もまた相手のものさしからみたら無能である可能性を考えていない。
こういうのは言うのは簡単だが実際に自分の物差しを相対化して暮らしていくのは難しい。
そこで人にバカにされる効用というのが出てくる。
人にバカにされてムッとするとき「てめえのものさしで俺を測りやがって」という思いが湧きあがっている。そしてそのつど「それはこちらも同じであったな」と寛大な気づきが訪れる。
ここで気がつけないやつのことを本当の馬鹿と呼ぶのだと僕は思う。

お互いに「バカだなあ」と思いながらもそれを断罪するのではなくフォローしていくというあり方は、相手のものさしの足りていないところも含め肯定することだと言えないだろうか。
一つのものさしを共有する関係は一見すると強固かもしれないけれど、なんというかしなやかではない。価値観の地殻変動がひんぱんに起きるいまの時代そういうのはちょっと危なっかしいんじゃなかろうか。
僕には相手のバカに呆れ、自らのバカにずっこけられるような関係がいちばん居心地がいい。

誰だってふだんは自分が一番賢いような気持ちで生きているんじゃないかと思う。
そしてそれはそれで構わないんじゃないか。周りをバカにしていた自分が一番バカであったと懲りずに何度も恥じ入ることができればそれで充分じゃないか。そんなことを思いながらきょうもどこか誰かのことを見下しながら楽しく生きています。

2018.03.06

このブログのように思ったままを整理しないままに書き流すというのは、デトックス効果はあれども書く訓練にはならない。
そういう実感があるから、ここ数日は「どうにもうまく言葉にならないのだけどなんとなくこんなことが書きたい」というものを無理に書いてみることを試している。
そのうえでいちど一気に書いてしまってからは見直しも整理もしないものだから、いつも以上に読みにくい文章になっている自覚はある。
自覚はあったのだけど今年に入ってからのブログを読み返してみると思ったよりも読める。
多少の破綻こそあれちゃんと読める気がするから、語だとか文法だとかそうしたフォーマットの力というのはものすごい。どんなに適当に書きっぱなしたとしてもこうして日本語で書く限り日本語という言葉がもともと持っている型の外に出ていくことはできない。こうして野放図に書いているようでもそれはちゃんと言語体系の型によってある程度さまになるようにガイドされている。

この前このブログで能の話をしたようだけれど、能も観ていると型というものの重要さをつよく感じさせられる。
個人のありようなんて些末なことはどうでもよくて、いかに型を血肉として取り込めているか。そういうことが問われるような世界に今は興味がある。個人なんてものはどれもおなじようなもので退屈だ。型というのはメディアだ。自分が身に付けた型を媒介としてなにを表現するのか。そこでようやく個人の特性というのが問題となるのであって、自分が寄りかかる型もないままに何かを表現しようとしてもそれは表現しようとしたその対象自体の持つ型通りに拙い再現を試みることにしかならないだろう。対象になにかしらの変換や変容をもたらそうとするならば、自身の側に異質の型がなければいけない。

いま僕はいっぱしの型を身に付けたいと思っている。
それは何年もかけてようやく血肉となるようなものでなくてはいけない。
そのようなものとして期待しているのが発酵、中医学、そしてプログラミングなのだがどうにもその勉強に身が入らないので困る。
なんだかんだ言って僕はまだ一夜漬けでどうにかなるような技術や知識で間に合わせたがっているようなのだ。

退屈で地道に積み重ねていくことの必要と憧れを感じているのに、実際に地道にやるのはものすごく億劫なのだ。
どんな分野もちょっと勉強したときに広がる妄想というのがいちばん抽象度が高く、広がりもあって豊かに思えてしまうものだ。
そこから先の勉強というのはそんな抽象的なイメージを具体化していく作業なのだから、いつしか狭くなってくるし、広がりも考えつきにくくなってくる。
そのどん詰まりを経てようやく、型として血肉化できるのだと思うのだけれど、僕はこの一度狭く小さくなっていくプロセスが我慢ならない。
最初から最後までずっとブレイクスルーだけしていたい。
こんなだから地道に積み重ねていくということがさっぱりできない。
けれども僕ももう何年だか社会人を経験してしまった大人だから具体的であることの力強さというのは嫌というほど身に染みている。具体的であればあるほど、それは遠くまで届くし、届けることのできる範囲が広がればそれだけ大きくも深くもできるのだ。
わかっちゃいる。
けれどもものすごく億劫だ。

ひとかどの人物になるためには型の体得は不可欠だが、人には性分というものがある。
僕の性分とはめんどうくさがりで飽き性であり、信じられないほどこらえ性がないというものだ。おまけに記憶力は無に等しい。体力も生きているのに最低限必要な分がやっとという程度しかない。
そんな僕でも楽しく無理なく研鑽をつんでいけるものがないものかなあ。
自分で書きながら自分の甘ったれぶりに張り倒してやりたくもなるけれど、けれどもこれが現実なのだから仕方がない。
とにかくこうしてだらだら書くことは気がつけばやっているから、書くときに書けそうにないことを無理くり書いてみることで、書くことの技術や方法論みたいなものがぼんやりとでもみえてきたら儲けものだなという貧乏根性からまたこの数日ひんぱんにブログを更新している。

ほんとうはブログにはブログにふさわしい文体というのがあって、僕の文章は一文がたらたらと長く改行するにしてもカタマリ感がはんぱに大きく、さらっと読み通すには引っ掛かりが多すぎる。けれども人気のあるブログをやりたいわけではないから、くだけた文体で一文を短く刈り込んで適宜図や写真を挿入するということは多分これからもしない。そもそも人に読んでほしいならタイトルも日付だけなんて素っ気ないものでなく「奥さんと毎日楽しく過ごすライフハック10選」みたいなキャッチーなものにするべきなのだ。そのように研究を重ねて万人にリーチするブログを追求してみるというのもひとつの型の取得ではあると思うけれど、僕はただたらたら書きたいだけなのだからべつに多くの人に読んでもらわなくてもいい。
いつか「多くの人に読んでもらいたい!」という気持ちや必要が出てきたらそのとき頑張ればいいのではないか。
こうして書いていて思いついたのだけど僕が型を血肉としたいと言いながらもその勉強や訓練に身が入らないのは、当面のところさしせまった気持ちや必要が見当たらないからなのだろう。
だとしたらいまはだらしのない型なしのまま、ぼんやりとそのときを待っているしかないのかもしれない。

2018.03.02~03.05

来週には引越し。
引越しというのはもっと大変なものかと思ったけれど、物件の審査が通ったのかどうなのか、その結果をやきもき待つしかないという時期がなによりも心労が大きく、そのあとはやることは明確だしやれば終わるのでずいぶんと気楽だ。

ぼんやりと決まりきっていないこともあるにはあり、それは少し落ち着かないけれどそれは楽しいことがもっと楽しくなるかならないかという話なのでそわそわこそすれぐったりはしない。

まだ奥さんが奥さんになる前から、2年と半年ほど一緒に暮らした部屋はいま段ボールの占めるところが多くなってきて、だんだんと生活感が失われていく。
かつてセンチメンタル大魔神とおそれられた僕であるが、ふしぎと感慨もなにもない。
奥さんと離ればなれになるのであれば泣いてさみしがるけれどもそうではないし。
奥さんと考え決めたことであればたいていのことはケロリとしていられるんだろうなと思う。
変な言い方だけれども、意思決定を自分でしたという実感がまるでない。
かといって奥さんの意志に任せたかというとそうでもない。
これはもう二人の意志の総合というようなものが決めていたとしか言えない。
結婚も含めて「僕はこう思うのですがどうでしょうか」「よいのではないでしょうか」「それではぜひやりましょう!」「やりましょう!」みたいな合意形成をした覚えがない。
いや、これはさすがに僕の記憶力の問題の気も大いにするけれど、とにかくどちらか一人の意志みたいなものがもう一方の意志にはたらきかけるというようなことをしてきた感覚が全くない。
いつだって意志と呼べるようなものはお互いのあいだにあるように感じている。
これはすごく面白いことだ。
そして僕らが最高であることをものすごく直球で伝える、最大級ののろけであるとも思う。
けれどもこればかりは、僕の実感だけで言い切れるものでもない。
これを読んだ奥さんは「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」なんて言われてしまうかもしれない。
そうだとしたら僕はわりと自己というものを奥さんの側に拡散させすぎているということなので、自立した大人としてけっこうやばいんじゃないか。

ある面でなにかを共有しているとはっきり断言できる間柄であれ、いつまでたっても奥さんは他人であるのだからほんとうのところはわかりっこないしわからないからこそこうやって好き勝手書けてしまう。書けてしまうからといって書いてしまうのはほんとうに失礼なことなのかもしれない。それでも喜んでくれるかもしれない、面白がってくれるかもしれない、そうでなくても顔をしかめられるのだって面白い。そんな気持ちで書いてしまう。
僕は奥さんを信頼しすぎているのかもしれない。
たぶんこれを公開するのは週明けで、これは金曜の夜に書いている。
金曜の分をもう書いてしまったのにまだおさまらなくてこれを書いているので、このへんでいったんやめにして、実際のところを奥さんに聞いてみようと思う。

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やっぱり奥さんには「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」と言われてしまった。
けれども考えてみればそれは当たり前のことで、お互いの合意形成のプロセスをきちんと踏んでいるからこそ振り返った時に「まるでふたりの意志としか言いようのない意思」の決定がなされるわけだ。
たぶん僕は先週言いたかったことは、合意に至るプロセスが「ない」ということではなく、そのプロセスの透明度が高いということだったのだと思う。
つまり先週の僕は合意形成という言葉を「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」関係性を指し示す言葉のようにつかっていたけれど、奥さんはちゃんと相互に考えを出し合い一緒に練り上げていく行為を指す言葉として使った。そして合意形成という言葉の使い方は奥さんのやり方のほうがしっくりくる。
僕はコミュニケーションを考えるとき、一緒に何かを形成していくというイメージをなにより大事にしたいと思っているのだけど、それはそうはいってもコミュニケーションというのは「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」ものだと諦めているからこそ生まれてくる注意なのではないか。
だからこそ先週の僕は一緒に何かを形成していくというコミュニケーションを褒めそやすために、その形成に欠かせない合意形成のプロセスを「ない」ものとして書くという取り違えを起こしたのではないか。

一緒に作り上げたものは、制作にかかわった特定の一人に帰属するものではない。
それにはその形成に関わったすべてのひとの名前が記されている。
皆でつくったものはみんなのものなのだ。
これは僕がお芝居を作るのが好きな理由とつながっていくんじゃないか。
そんなことからまたいろいろと考えたのだけど、それは奥さんに直接しゃべってしまったので今あらためてここに書くことはよしておく。