2018.04.11

中学生のころ面陳された雑誌の表紙でかわいくしている水着の女の子が目に入るたび「こんなに沢山のかわいい女の子がこの世界にはいるのに、そのうち誰一人ともお知り合いになれないままに俺は死んでいくのだろう……」という途方もない気持ちになって苦しかった。

いまでも本屋や図書館に行くと「こんなに面白そうな本がたくさんあるのに、残りの一生を興味のある本を片っ端から読むことに費やせたとしてもとても読み切れないな……」という途方もない気持ちになる。
そのたびに冒頭にあげた気持ちを思い出す。
途方もない気持ちになるといまでも下腹部のあたりがふわふわするように感じるからだ。
けれどもそこに苦しさはない。
どれだけ欲望しようとも達成のできない欲望というものの捉え方が変わったのだと思う。
いまは成し遂げることなどはなから求めていないし、ただ一冊一冊読んでいくのが楽しい。
そのように本を追い求めていくことが、果てのない探求であることがうれしい。
もしほんとうにすべての本を満足に読み切ってしまったら、空しいだろうなと思う。
その空しさには興味がない。

目的地ではなく道行きを楽しみにするようになったのはいつからだろう。
思えば幼稚園の相撲大会で初戦敗退した時から、どうしたって成し遂げられない欲望があることを何度も思い知らされてきた。僕は生まれて初めて自分ごととして現れたあのトロフィーが、ものすごく欲しかったのだ。けれどもあっさりと押し出されてしまった。
中学そして高校と女の子に相手にされないまま過ごして、あんまり気にしていなかったつもりだけどもやっぱり何かをこじらせた。いや、こじらせていたから相手にされなかったのかもしれない。
ともかく貧相な体つきや、軽快なトークで場を盛り上げることができない無能に、大きなコンプレックスをもってすくすくと育ってきた。
トロフィーと女の子を同列に語るようなこの文章の運びは本当にダサいけれど、中学高校時代の認識はほんとうのところこんなものだったのだろうか。
たぶんそうでもない。
このころ僕にとって女性とは映画の主人公たちだった。
あらすじのうえで主人公でなかったとしても、母と観た数々の映画はいつだって女性がまぶしくみえて、自分が男であることがいやになるくらいだった。(これはいま思い返すと、観ていた映画そのものがどうだったという話ではなく、当時VHSに付属していた予告編のほとんどが「大人の女性」にむけて作られたものであったことが大きな原因だと思っている。)
ともかく当時のぼくにとって映画というのは女性のものだった。いや、違うな。映画というのはマイノリティのものだった。だからこそ、こじらせていた僕はそうした映画に何度も救われた。
体育の時間に代表されるマッチョで反知性的な世間にまったく馴染めなかった僕にとって、映画のなかのマイノリティたちのほうがうんと身近に思えた。
この当時、僕は数を数えることしかできなかったから、女性が社会から構造的に疎外されたマイノリティであるというはっきりとした認識はなかった気もするけれど、とにかく誰よりも身近に感じていた人たちのことをトロフィーと同列に語るような回路が自分にあったとは思えない。
そもそも人間と本とトロフィーとをごっちゃにしてここまで語ってきているこのやり方そのものがあまりにも乱暴なのではないかとも思う。
中学生の僕が女の子に感じていた欲望と、幼稚園の僕がトロフィーに抱いた欲望と、いま僕が本によって掻き立てられる欲望は、同じ欲望という言葉でくくりはするけれどすべて別々の内容を持ったものだ。
けれどもいまここではそれらを「欲望」という一面だけでひとくくりにして語る。僕は欲望の対象が人間であれ物であれ知識であれ、そうした欲望は必ずや満たされなくてはならないみたいな強迫観念から自由になれた今はとっても楽チンだなーという話がしたいからだ。

どうしたって欲しいものが手に入らないという経験から、達成よりもプロセスを偏愛するようになる人と、ルサンチマンを育んでいく人との違いはなんだろう。
インターネットにあふれる後者の人たちをみると、どうもヒトへの欲望とモノへの欲望がごっちゃになってしまっているように感じる。
そしてその混乱の原因は、「あらゆる欲望は満たされなければならないし、あらゆる目標は達成されなければならない」みたいな強迫観念なのではないかとふと思ったのだ。
そしてそうした強迫観念は、何かを手に入れるという成功体験が乏しいことから生まれるのかもしれない。
そうだとすると僕はなにもできないように思えてしまう。

僕自身わりと非モテをこじらせているし、体は弱いし、お金も稼げないし、社会に対するルサンチマンはある。
しかし僕はなんだかんだで高学歴・正社員・既婚と現代ルサンチマンの標的となる三拍子をそろえているから天下一不幸自慢大会がったとしても書類選考で落とされるだろう。
僕がいまのように達成よりもプロセスを楽しみとする気質を持つにいたったのも、この高学歴・正社員・既婚という成功体験が無関係だとはとうてい言えない。
この成功体験はすべて、たまたま運よくいまの歪な社会構造のなかで恩恵を受けてしまっただけのことで、まったく僕の力で「勝ち取った」ものではない。
だからこそ「自己責任」なんて阿呆臭い言葉を持ち出しながら、いままさに欲求不満に喘ぎこじらせている人たちに対して「君たちの苦しみは達成への妄執が原因だ。成し遂げられないことは無理に成し遂げようとせず、ただぼちぼち成していくそのプロセスそのものを楽しむのがよい」なんてことをいけしゃあしゃあと言えるはずもない。

僕はプロセスそのものを楽しむことで達成に固執しないことでだいぶ楽チンになったから、何度でもそういう話をしてしまうけれど、それが万人を救う万能マインドセットではありえないのだということは忘れないでいたい。
けれども「なにもできない」を結論に落ち着けるのはどうも居心地が悪いので、こういうことはうだうだ考え続けるのだと思う。

2018.04.05

ふと「やっべえなあ今年でもう28か」という気持ちになったのだけど今年は27になるのだったか。
おぼつかなくて「91年生まれ 年齢」でググった。
今年は27になるのだそうです。
大学を卒業するのは24歳?
たしかそのへんで、あれ、そうだとすると僕はやっぱり今年28になるんじゃないのか。
ということは、ええと、23で卒業するのか。で、いまは26で、今年27になるのか。
とにかく卒業してから、というよりここまで書いて気づいたけれどたぶん大学にいたころから、自分の年齢がよくわかっていない。だいたいいつもうっかり一つや二つ歳を先どってしまっている。
20代のころは、いまもそうなんだけど、とにかく20台を意識していたころは、なんとなく30になるのはやばいなあという気持ちもなくはなかったけれど、就職とか結婚とかもしちゃうと年齢がなにかの節目になることってあとは死ぬときだけくらいの大雑把な気持ちになるし、ほんとうのところ30くらいでやばくなるようなことは何一つないなんてことは10代のころからわりと気がついていたようにも思う。

ふと「やっべえなあ」という気持ちが来たから書き始めたけれど、とくに年齢について思うことはないな。
もう若くはないとは10代でなくなったときに思った。
このときに感じた若くなさはそれはもう決定的だった。
「これ以降、早死にしたら本気でダサくなる」という確信めいたものがあった。
それが最後だった。
10代が終わり、もうここから先は賢くムスッとした顔でいることはできない。
なぜならダサいから。
若さが何かを許すとするならばそれは研がれたナイフみたいでいることのダサさだ。
若いころのダサさはたまにまぶしいこともある。
そのまぶしさは正しい。
この正しさを鼻で笑ったり、無視したり、憤慨するのはやりがちな過ちだけれど、そういうのはほんとうにやめたほうがいい。

何の話だっけ。
そうだ、年齢、なんかさいきんどっと歳をとった気がする。
なんでそう思うかって、周りがみんな年下、というような集まりのなかでその人たちとうっかり同じくらいの年齢のつもりで振舞っていたことに後から気がつくという事態が頻発したからだ。
自分のことをまだ若いと思ってることに自覚できないままにそう思っているのって、ほんとうに年長者ここに極まるといった感がある。
なんでこんなことになっちゃうかって、年をとればとるほどわからないことが増えていくからだ。
わからないことばかりだから、加齢につれてむしろ自分に対する信頼は減り、そのぶん外界に対する、なんだろうリスペクトみたいなものがうんと増える。もう老いも若きもみんな自分よりすごく見える。けれどもそれは、わからないことが見えるほどに、わかることが増えたからなのだ。
なんで増えたかって、歳を取ったからだ。
ただ歳をとったのじゃなしに、なにかしら経てきたからだ。
なにかしら経てきたいま、物心ついて以来いちばん新鮮な気持ちで毎日がある。
もしかしたらこれってすごいことなのかもしれないし、情けないことなのかもしれない。
まあ正直なんだっていいのだけど。

2018.04.04

春で気がくるっているからおなかのあたりがふわふわとしている。
なるべくなら地に足をつけてふわふわしていたいのだけど、この季節はうっかりするとすぐに未来のことを考えてしまう。

Wiredの元編集長の人が「未来を語るな、必要なのは希望だ」といろんなところで言っている。
そのなかでもクラシコムジャーナルの対談記事がめっぽうよかった。
僕は最近このクラシコムジャーナルが面白い、かつて小学生くらいの頃夢中で読んだほぼ日の持っていた雰囲気というか気配があって、その気配はそれこそ未来ではなくて希望を予感させるものだからいい。そういえば保坂和志だって木村俊介の手によるインタビュー記事で知ったのだったっけと思い出してみると、ミシマ社から出た『インタビュー』の何がよかったかってそれこそ「インタビューとは、ただ日々だ」とでもいえる、『試行錯誤に漂う』の実践そのものの気分があることだといま気がついた。

未来に向かって行為を投資するのではなく、ただ日々の試行錯誤の豊かさを享受する。
そのようでいたい。
真木悠介『気流の鳴る音』はおそらく上京してから最も読み返している本で、僕はこの本に出てくる「心ある道を歩む」という一節に何度でも強烈に打たれる。
上のような、結果ではなくプロセスそのものを享受するという気分はこの一冊の経験によって決定的に自分のなかにセットされた。
ゴールや目的を設定せずとも人は歩みを進めることができる。
ゴールや目的を設定すること、つまり未来にあるべき自分の姿を思い描いてそこに向かって努力するというのは一見すばらしいことだけれど、一面では自分の現在を未来のコントロール下に置いているということともいえる。
目的地に到着することだけを考えて行われる歩行は空疎だ。心はいつもここではなく仮構された未来に疎外されてしまうから。このとき歩行という行為は課せられた労働にしかならない。
いま歩いている道に心をこめること、その道をただ歩くというのはどういうことかというと、行為そのものに集中し、行為そのものから何かを受け取るってことだ。そのように歩くとき道はおおくの発見や喜びをもたらしてくれる。

僕はいま春だからどうしても未来を考えてしまうけど、それは「心ある道」をこれからも歩み続けるにはどうしたらいいだろうというようなことだ。
プロセスそのものを目的とするとき、「プロセスが継続していること」というゴールが未来に仮構されてしまうというナンセンスにおちいる。それがいま、春だ。

僕にとってのかけがえのないプロセス、「心ある道」とは奥さんとの日々だ。
奥さんといつまでも楽しく暮らす。
これだけが道であって、そのほかのこと、会社に居続けるのかどうかとか、お金を稼げるようになりたいのかどうかとか、子供はいたほうが楽しいとはいえどうなのかとか、そういうことは本質ではない。
けれどもそうしたディティールが道のあり方を決定づけるのだから、どうしたらなるべく長く楽しく歩き続けられるかというようなことを春は考える。

たとえば子供。子供は一緒に育てたい、もしくは僕が育てたい、主夫をやりたい、と考えてみるといまのお金の稼ぎ方では無理が出てきそうだ。
奥さんとの共同経営、自営業なんていうのもいいかもしれない。とはいえ何をやるのだろうか。
自分の手でつくるビジネス、いまは小商いといったほうがいいだろうか、を考えてみたくなって、ポール・ホーケンの『ビジネスを育てる』を読んだ。この本を選んだのはクラシコムジャーナルにかぶれたからだ。『ビジネスを育てる』やクラシコムジャーナルを読んでいると、ビジネスというのもただプロセスであることがわかる。
お金は困らなければ健全に流れ続けているほうがいい、仕事だって実は結果ではなくプロセスをいかに豊かにするかなのだということに気がつくと、いまの会社に居ながらにしてでもやれることがいくらでも見えてくる。
どこではたらくかは大したことではない。
いまの会社にいてでもはたらくことの「心ある道」は試行錯誤できるはずだ。
会社に対してプリセットされた愛はなくとも、愛着は育ってくる。愛着はただ時間だ。
僕はしばらくこの会社でふまじめに誠実を貫く。ふざけながら真剣にやる。
自分たちの力で生計を立てていくというのは、会社のなかでの試行錯誤がほかならぬ会社の持つ構造によって不毛にならざるをえないという状況がやってきた時に始めればいい。
春はこのようになぜだか前向きな気持ちに収まることが多いから困る。
われながらうっとうしい。

とにかくプロセスそのものを最優先したいというのともう一つ、自分の行動原理には「なるべく楽をしてちゃんとしてみせる」というのがあるなと思う。
むりなく、むだなく、ちゃんとする。
そのときそのとき人に判断される「成果物」は、僕からしてみればプロセスの一点に過ぎないのでそんなところに全身全霊は注がない。とはいえ「成果物」っぽくみえるようにそれらしくはする。そのための労力は最小限にとどめたい。
最小の労力で最大の報酬を得たい。
そしてそれは可能なはずだ。
だってゴールに到達したらチャラになるやり方よりも、プロセスを愚直に積み上げるやり方のほうがなんか強そうじゃん。もちろんこんな比較そのものがナンセンスだ。

ナンセンスと言いつつもいつかこの愚直な日々の積み重ねがとても高いところまでとどくことを期待してしまっているのも認めないといけない。認めます。なんかそういうの求道者っぽくて格好いいと思ってます。
求道者というか、マニアックになることはしかしやっぱり危険だ。
なにしろマニアックになると飽きる。これはマニアックとはなにかを極めたいという欲求であって、この欲求は「何かを極めた自分」という未来に向かって行動することを要求するからだ。こうなるといま自分が楽しいと思うことを素直に楽しめなくなる。せっかく喜びをもたらしてくれる対象が目的でなく手段に取り違えられてしまう。
「心ある道」を自分の手で損なってしまうのは悲しい。
僕は常に素人感覚を研ぎ澄ましていたい。
素人であればつねにプロセスの最中で驚いていられる。
素人くさく、なにごとにもいちいち新鮮に感じること。
そういうまぬけに徹して、これからも楽しく生きたい。

2018.03.27

iPadのメモに残っていたいわゆる自己分析みたいなやつがいま読んでもしっくりくるものだったので忘れないようにここにも残しておこうと思った。

「ふつう」の感覚がものすごく内面化されているし、めちゃくちゃ人目を気にする。
そのくせ実際の言動は「ふつう」に依拠するというわけではない。

かといって軸があるわけでもない。
感覚だけで生きてきてしまった。
客観的にみて「面白そう」で主観的にも「楽しそう」なことがなによりも優先される、
こう言うことはできるかもしれない。

移り気で飽き性、そのくせやりたがることは持続が必要なものが多い。
ほとんどのものは半端にやりかけのまま放置される。

非モテをわりとこじらせている。
特に貧相な肉体という面で。次に乏しい社交性という面で。

自分で思い込むことにしたことはそれを思いこんでいるあいだ譲歩できない。
飽き性なのでわりとすぐに思い込むエネルギーは切れる。

内弁慶。
家のなかでの自分が大好き。

うっかりヒロイズムに嵌りがち。
急いで客観視を導入しないとちょっと怖い。
別に誰とも戦っていない。

めんどくさいことはやらない。
楽しいことだけしていたい。
そのためだったら世の道理を外れてもいいくらいに思っている。

というよりも、人に努力を要請する世の道理への納得のいかなさがある。

なるべく楽していい思いをしたいし、それはできるはずだ。

理屈よりも感情を優先するが、当の感情が理屈を通さないと動かない。

具体的な誰かのためにいたい。
「会社」や「家族」など顔のないものへの操は立てられそうにない。
制度ではなく情で動く。
だからこそその危うさを抑制するためにあるはずの杓子定規な制度への信頼もある。
制度に流動性を、なんていう素人考えはほんとうに怖い。
しちめんどくさい手続きを踏む、そのプロセスにこそ制度の意義はある。

スピとリアリズムのどちらにも寄りかからないバランス感覚。
しっかり見えることと胡散臭いものは両方疑ってかかって面白がる。

寝ないとダメ。
漢方もさぼっちゃダメ。
肉体の不調由来の気分の荒みに鈍感なので気を付けている。

心の安定のためにはお金が必要。
月末に残高が三ケタになることを心配しなくていい程度には。

ずぶずぶの関係は家族であっても怖い。
そのくせ関係に永続性を求めてしまいがち。

没頭することへの憧れがありつつも、すぐ覚める熱中くらいがちょうどいいとも思っている。
極端であるのも格好がいいけれど、自分はこわいくらいに中庸でありたい。

最近ほんのちょっとだけ社会への参入というものに興味を持ち始めたように思う。
けれどもそれは単にウチを拡張したいというだけかもしれない。

2018.03.26

保坂和志『試行錯誤に漂う』を読んでいて、とにかくすべての営為は日々行われるその行為そのものだという考え方がいつも以上に自分にセットされている感じがある。
読むというのはその行為それ自体のなかにしかないものだけれど、ここでいう行為というのは読んでいない時間も含まれる。一冊を読み通すまでにはさまれる中断のなかにもその本のことを反芻し、反芻するうちに本の内容自体からは次第に離れたことまでをも想起する、そうした行為もまた読むことの一部というか行為のしかたのひとつのように思える。
だから今日こうして書いている文章も『試行錯誤に漂う』を読むという行為の中にあるような気がして、野球の試合とは日々の素振りのなかにある、コンサートは日々の練習のなかにある、それらは行為が結実する地点ではなくただ日々の行為の延長線上にある一点にすぎないという、この本で繰り返し繰り返し言われるその感覚はすごくわかるというか当然のことのように感じられる。僕にとっての日々とは読むことで、読むことと書くことはだいたい同じことだ、このように句読点の打ち方なんていう見かけ上の方法論に過ぎないのようなところから『試行錯誤に漂う』の実践をなぞってみる、それだけで書けることの射程ががらりと変わる、その変わる様子はこれまでよりもよく書けるとかそういうことではなくてただがらりと変わる、そうやって異質なものが生起していくそのさまが面白くてこのように句読点の打ち方だけを意識してだらだらと書いてみる、そうするとさっきは句読点の打ち方なんて見かけ上の方法論に過ぎないというように書いたけれどそれはまったくそれだけのことではないことがわかる、たとえばいまも「、」で引き延ばすことだけを意識するあまり一文がだらしなく長くなってしまっている、この一文のただだらだらと長く続いていることから自分がこの方法をまだうまく扱えていないことに気がつくことになる、というのもだらだらと続く必然性というか書くという運動から自然に一文が引き伸ばされるという風にならないといけないのだと想像しているからで、僕は今こうして書くという運動、句読点の打ち方というフォームによって規定された運動に振り回されるようにだらだらと一文を長く続かせる自分のあり方を面白がっている。

影響を受けているのは確かだけれどやや大げさにいまの状態を書いてみた。
こうしてブログを描いたり読んだりしていると「一文は短いほうがいいな」であるとか、「構文が明快ですっきりしているな」であるとか、とにかく読みやすい、伝わりやすいことが価値であるような気持ちが強くなってくるけれど、保坂和志の文章を読むと書くというのはそれだけのことではないということを思い出し、文章の書き方や読み方のフォームが改まってくる。いかんいかん、また一文がだらだらと長い。
さいきんは哲学書や一般向けの科学の本、その多くは別の言語で書かれた文章の翻訳された文章を読み続けていたので、日本語にはない言語の運動、論理の積み重ね方というのが染みついてきていたけれど、いまこうして日本語で動かされた言葉を読むと思考のモードがはっきりと切り替わるのを感じられて面白い。「ここまでは間違いがなさそうだ」という厳密さを積み重ねていく愚直さというのはどの言語でも共有できるという前提のもと哲学も科学も書かれるし読まれる。けれどもその愚直な積み重ねの上で行われる飛躍は、その積み重ねを行った言語によって導かれることが多いように思う。積み重ねの方法がいくら共通であれども、言語というのは思考のフォーム、型であるからその道筋を多かれ少なかれ規定する。この型に誘発される跳躍を読み取れるのはやはり同じ言語で書かれた文章でないと僕はまだできない。

どうやったってきょうは不細工に一文が長くなる。
昨晩は布団に入ってから奥さんとだらだらおしゃべりをした。布団に入ってからしゃべりたくなってしまうのは仲のいい人とお泊まりに行ったときみたいで何回やっても楽しい。僕の日々とは読むことと書くことかもしれないけれど、奥さんとの日々はおしゃべりだ。
どうやったって言語から逃れられないようなじれったい気持ちもなくはないけれど、奥さんと言葉や論理を積み重ねていくのは楽しい。その積み重ねのなかには時間が伸び縮みして折りたたまれている。いまはなにを読み考えるにしても奥さんといることが前提となっている。思考の型のひとつとして奥さんがある。今日このように書いているのも、だらだらと長いのは保坂和志のおかげだろうけれど、昨日髪を切った奥さんがひいき目なしに冷静に客観的にみてみても世界一可愛いということも関係しているだろうと思う。結局このブログはいつも取ってつけたような惚気で終わる、というのはだから不当な言いがかりで、いまの自分にとって読んだり書いたりするという行為はどんなものだろうと考えるとき奥さんのことは避けては通れない要素としてある。けれども前の一文はたぶんこのブログを定期的に読んでいてくれる唯一の人である奥さんに向けて「取ってつけたように惚気ているわけではない」と弁明している意味もなくはない。弁明も済んだので今日はここまで。

2018.03.16

日曜に引っ越してなんとか金曜までやってきた。

日曜すでに人の住む家の体裁は整っていたとはいえ、まだ手の入れる余地というには大きすぎる余地が余りあるといった状況で、結局月曜から毎日帰宅後に手を入れてあまり気持ちの休まらないまま体はもっと休まらないという悪循環をようやく抜け出たのは水曜の夜、とうとう大物家具の設置もあらかた終わり、段ボールをはじめとしたゴミをすべて出し終わったころだった。
生活のリズムがようやく軌道に乗ったかな、と思ったとたんに緊張の糸がプッツリと切れどっと肉体疲労が押し寄せてきたのが木曜日。
長かった。
とにかくこの一週間は長かった。

けれどもどう考えても新居は最高。
しんどい思いをしただけの甲斐はある。
広いしきれいだし収納はちょっと物足りない。
広すぎて持てあますので来月からの同居人の到着が待ち遠しいけれども収納だけは心配。
きれいすぎて毎日ちょっとしたお泊まり気分だし、ほんのり背伸びしたような気分のまま自宅で過ごすというのは新鮮な体験でもあるけれど疲れるのでいいかげん慣れたい。
亀はようやくご飯を食べるようになった。
亀にとっては引越しなんて天変地異みたいなものだから、ほんとうにかわいそうなことをした。引越ししてから下手したら数週間はストレスと警戒でじっとして動かないでいる、なんてことをよその亀飼いが書いているブログも読んだから心配していたのだけれどうちの亀は思ったよりたくましい亀でよかった。

亀はご飯を食べるのが本当に下手だ。たぶん視野が狭いのだろう。水面に浮かぶ小エビになかなか気がつかないし、気がついてもなかなかうまく喉にまで持っていけない。当人としては必死なのかもしれないけれどその様子はあまりにのんきで眺めているこちらはのんきな心持ちになってくる。
亀はうちで生きているだけで、とくに面白いことはしない。
飼っていてここまで面白味も何もない動物もないだろう。
けれども人間以外の生き物が目に見える大きさでもってそこに存在しているというのはなんだかそれだけでいい感じがある。どんな感じだと言われてもまだうまく言葉にできないけれどともかくいいのだ。無理に言葉を探してみるならばそれは人間以外の生存を考えているという状態のよさなのかもしれない。自分や奥さんの死活問題はシャレにならないが亀のそれはひどいものでのんきな心持ちで挑むことができる。うちの亀にとっての生存の条件とは、水や餌を替えてやる人間が存在しているということで、結局うちにいる人間以外の存在の生存を考えることは人間の元気でいることを考えることに繋がっている。けれどもその繋がりは印象としてはぼんやりしており「この亀のためにも生きていかなくちゃ!」というような切実な気持ちというよりは「亀もいるしなあ」という程度の、生存に対するゆるいモチベーションをもたらしてくれる。
この遠回りして自分の健康を慮ることをうっすらと要請してくる。このくらいのゆるくてよわいモチベーションがいちばん具合がいいように感じられて、このゆるさやよわさが亀のいる暮らしのよさの一つなのだろうなといま書きながら思う。これが犬や猫だったらましてや人間の赤ん坊だったりしたら「この子のために生きていかなくちゃ!」という切実さがどうしたって出る。
犬や猫や赤ん坊もいま生活にお招きしたい気持ちはなくはないけれど、それはたぶん自身の生存のモチベーションのだしにするという不遜な思惑とはまた別のところに所在があるようにも思うので、やはり無責任に自身の健康や生存の「必要」を押し付ける相手として亀はちょうどいいのだ。
もちろん生存のモチベーションのだしに使えることだけが亀と暮らすことのよさではないし、ほかにもきっとあるのだろう。けれどもとりあえず無理にひねり出してみようとしたらこういうことになった。無理にひねり出す言葉というのは生きるだの死ぬだのはたまた世界や宇宙だのえてして壮大になりがちだ。なんなんだろうこれは。

そして縁日にうっかり掬ってきてしまったこの亀との暮らしももう一年半とかそれ以上になるのに、きょうこうしてはじめて亀にここまでの文字数を使って考えたのはやっぱり新居に移ったからなのだろう。
環境が変われば認識のやりようも変わる。
当たり前に面白くもなかった亀のことをわざわざ考えてみる気持ちにもさせられる。
ここ数日奥さんがやたらと美人に見えるのは、親知らずの抜歯でパンパンパンのパンに腫れあがったお顔がようやく元に戻ったからだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。
引越しという一大イベントを共にやり遂げたこと、部屋の照明が暖色に替わり全体がやさしい印象に映ること、新しい土地と部屋で少し心細いこと。
そうした変化が、もともとつくりのいい奥さんの顔をさらに魅力的に感じるのに影響を与えているのは確かだろう。

亀も奥さんも、当たり前にせずいつでも珍しがったらり面白がったりできるようでいたい。
こういう初心は、これまでのようにまた忘れるのだろうけど。


と、ここできれいにまとまったから終えようと思ったのだけど、亀はともかく奥さんは毎日いちいち新鮮に可愛くたのもしくほかにも見所がいっぱいの興味が尽きない存在であり続けているので、ここで終えるとちょっとそれっぽく体裁を整えるためにうそをつく格好になる。
奥さんのことをなんてすばらしい人なんだろうと新鮮に思い直し続ける日々はいつかさすがにくたびれるのだろうか。
それはたぶん僕が奥さんが他人であること、いつまでも謎であり続ける他人であることに盲目になったとき訪れるだろう。
亀だって他人だけれど、たぶん僕は亀のことを僕や僕らの部屋の延長にみている。
亀の環世界は人間の僕には解りえないし、わかるための努力もあんまりする気にならないから亀の存在は僕の環世界の中にだけ存在している。
亀への新鮮な気持ちは、亀の環世界を垣間見ることの不可能性によって薄れていく。
奥さんがみている世界、感じている世界、奥さんの環世界を僕が体験することもない。
けれども、亀のそれと違ってその近似値を体験することを夢想することはできる。
近いようで、まったく異なる、けれどもつよく親しみを覚える。
この絶妙な環世界の隔たり具合が、尽きせぬ奥さんへの興味関心を生むのだろう。
まだもうちょっと近づけるかな。もうちょっと似た景色をみられるかな。
その欲目が、決して解消できない隔たりにちょっかいをかけたくなる気持ちにさせるんだろう。それは届かなくていい。むしろその隔たり具合も含めて気持ちのいい人だから奥さんと僕は最高であるので、隔たりがほんとうに解消されてしまってはまた違った話になってくるだろう。それでもそれはそれとしてすっかり同化してしまうことを夢見てみる。二人の間の距離も含めて愛着を持っていながら、それでもなおより一層距離をゼロに近づけようと試み続けること。
ほら、よく考えないまま書いていくと壮大になっちゃった。

「あなたが好きなのはプロセスそのものだからねぇ」
先日奥さんに言われて首がもげるほど頷いた言葉だ。
いい関係というのはいいプロセスのことなのかもしれない。

 

2018.03.13

きのうの夜は案の定引越しの疲れで動けなくなり、家に帰る前にマルイでご飯を食べ、それでも体がだるかったので店を変えて甘いものを食べた。
甘いものを食べるとてきめんに元気になった。

実家からのラインで結婚二周年であることに気がつく。
いや、忘れていたわけではない。
引越しをしながら「どうしてこう節目節目で激動なのか」というような話を散々していた。
たぶん散々話していたからこそ当日に思い出す余地がなくなってしまっていたのだと思う。
ともかく二年だそうだ。
お互い他人とこれだけ長い期間いっしょに過ごすという経験がないので、これはすごいことだねえと言い合った。しかも基本的にはゴキゲンなのだ。ともにゴキゲンであろうと工夫していく我々はえらい、かわいい、すばらしい、と互いを称えあった。
これまでのお互いの遍歴を思うと、自身はゴキゲン体質なのになぜだか不機嫌でいたい人たちに懐きがちで、そのせいで需要と供給のてんでちぐはぐな関係を築いてしまうことが多かった。
それを思い返すとお互いにゴキゲンを目指せるいまはなんてイージーモードなんだろう。

思うに僕らは持ち合わせたゴキゲンをおすそ分けしたくなりがちな体質だ。
これまでは一対一の関係で、しかも不機嫌でいたい人たち相手にゴキゲンを押し売ろうとして疲弊してしまっていた。結婚して、いまこうして共にゴキゲンを量産出来る体制が整ってきたことでこの「おすそ分けしたがり」がまたむくむくと頭をもたげてきたのではないかという話もした。
学生時代この「おすそ分けしたがり」は不機嫌でいたい人たちとの相乗効果で自らを「メンヘラ製造機」にするという結果を生んでいた。今思うとこのメンヘラという言葉の安易さも含めて「時代だ……」という気持ちになる。
どんな状態のことを「ゴキゲン」と定義するのかというところからなんとなく共有できそうな人たちに向けて、ひかえめにゴキゲンを差し出す。いまはそのくらいのやり方を模索できるんじゃないかなと思っている。
「ゴキゲンのおすそ分け」という独りよがりな押し売りビジネスの業態はそのままに、個人事業から共同経営へと移行していったわけだ。かなりたちが悪いぞこれは。

そろそろまたお芝居をやりたいとも思っていて、それも不機嫌に屈しないための実践というようなものになるだろう。
僕は実際にみたことはないのだけど国だとか社会みたいなものがあるらしく、そうしたものを語る言葉を目にすると、決してゴキゲンとは言い難い状況が確かにある。そんななか「既婚者正社員男性」という、あまりに「正しい」自分の属性に引け目を感じることがある。ぼくのこと「正しさ」は歪なシステムの不正な利益を享受していること、つまり現行のシステムを増長させることに加担しているのではないか。
答えは当面出そうにない。
何度も言うけれど奥さんと僕が最高なのは結婚が最高だからではなく奥さんと僕が最高だからだ。けれどもたまたま正社員であることやたまたま男性に生まれついたことに対して僕はまだ言葉を持ち合わせていない。たぶんこれは偶然を肯定するという安易な結論に落ち着いてはいけない。偶然自体は偶然でしかないのでその正否を問うのはナンセンスだろう。ただ、偶然によってあまりに大きな不便をこうむる制度はやっぱり改修したほうがいいと思うのだ。
「制度が最高なわけでなく自分たちが最高なだけ」と気持ちよく言い切るためにも、制度によって誰かの最高が邪魔されるようなことを黙認してはいけない。
そのためにも一度制度というものがべつに大したものではないということを可視化させたいような気がする、というかお芝居を通じてやってきたことはずっとそんなようなことなようにも思う。
反制度みたいな態度は、結局制度に軸足を置いている時点で制度の論理の外には出ていかれない。
制度というものの性質をメリットとデメリットの区別もなく一個一個いちいち点検していくことで、制度というものの外でのあり方も見えてくるかもしれない。
だいたいこっちかあっちかみたいな論争が始まっちゃった時点でどっちもどっちなのだ。
こっちとあっちを分けてしまった初期設定から再点検したほうがいい。
これはお芝居に限らずつねに気を付けていたい。

そんなわけでお芝居の計画をもやもやと描いていて、今回は「たくましい寂しさ、ふてぶてしい切なさ」ということをずっと考えている。
制度から漏れ出てしまったものを、うまく言語化できないからといってないものにしてしまうのはなんだかおもしろくないのだ。
ひとは寂しくてもたくましくあれる。そのとき寂しさもたくましさもどちらもほんとうだ。
切ない気持ちに浸り切りながらもふてぶてしいというのもある。
なにかひとつの言葉ではっきりと名指せるような属性も状態も、ないのだ。
つねにいくつもの、ときには相反するような要素が糠床状に共存しているのが常だ。
ゴキゲンになるように僕らは糠床状のそれをかき混ぜるけれど、できあがったものを万人においしいと言ってもらう必要は感じない。
けれども糠床づくりを規制するような決まりや雰囲気ができあがってしまったとしたら、ぼくらはこっそり自分たちだけの糠床特区を立ち上げるだろう。
僕にとってお家やお芝居というのはそういう場所なのかもしれない。
いいものができたら、おすそ分けしたい。