2018.08.15

この一週間くらい、奥さんと猛然とおしゃべりをすることが増えていて、話せば話すほど出すもん出して、聞けば聞くほどすっきりした視界からあたらしいものが染み入ってくるような感覚がある。

 


子どものころからなにか外で嫌なことや違和感と出くわすと、当時としてはものすごい夜更けの23時とかまで父や母と猛然とおしゃべりをし、自分なりに腑に落とすということをやってきた。おしゃべりは違和感の咀嚼であり消化であり排泄である。食事は好きな人としたほうがおいしい、というよりも、好きな人との食事は料理がどうあれ楽しい。奥さんはいまの僕にとってこの人と囲めばどんな食卓も最高になるというような最高の人だ。ここ最近の僕は便秘がちでありかつ常に空腹だった。奥さんとのおしゃべりは、みっしり詰め込んだ口の中のものを落ち着いて噛み砕いて、いまの自分に必要なものを取り入れて、いつのまにか取り込んでしまっていた「呪い」を外に出すところまで、いただきますからごちそうさままで伴走してもらうような気持ちになる。太古の昔からおしゃべり上手を助産師に喩えることがあるけれど、産めないからわからないけれど、奥さんとのおしゃべりは収穫だけでなく、種付けのところからトータルサポートしてもらった感じがあってすごい。耳かきをしていて思いがけずごっそり垢がとれた時のようなえもいわれぬ快感がいくつもあった。

 


あっちこっちに脱線と連想を散らかすのがおしゃべりであるので、それをまとめるというのは素敵なレストランに対して食べログで点数をつけるのと同じくらい野暮というものだけれど、食べログは便利なので、むりやりまとめると、「よい読み手でありたいこと」「ボトムアップリテラシー*を上げていく困難さ」「所属するところの価値観を否応なく内面化してしまう怖さについて」という互いに連関する三つのテーマについて猛然としゃべっている。

*ここでいうリテラシーとは読み手の力量としての「読み方の質」のような意味で使っている。

 


たとえば僕が雑誌編集者だとして、僕は第一の「読み手」として、優れたコンテンツに耽溺し、そのコンテンツから引き起されるさまざまな連想によってほかのコンテンツ同士を結び付けたりしながらひとつの「読み方」をつくるような仕事をしたいと思っているとしよう。自分の所属する雑誌にもそうやって、コンテンツの「読み方」をより深めたり、これまでにない視座を提示するといった「読み手」としての矜持を期待している。けれどもその雑誌は、数々のステークホルダーが作り上げる「実在しないダサい読者」、センスもリテラシーも最低レベルの読者のレベルに合わせてものを作ることが常態化している。いやいや、うちの雑誌の読者のセンスやリテラシーを舐めんなよ、と僕は思う。実際にどんどんダサくなっていく雑誌をどうにかしようとするけれど、平のままでできることなどたかが知れている。それならば偉くなってトップダウンで変えてやると意気込むけれど、長く勤めるうちに「いや、そうは言ってもあそこの広告主に逆らえないしな」みたいな事情にもあかるくなって、気がつけば自分のセンスやリテラシーがどんどん「実在しないダサい読者」に近づいていっていることに気がついてゾッとする。

もともとこの雑誌が好きで就職したはずなのに、その雑誌がダサくなっていくのを止められない。どころかその転落に自分は関与すらしている。どうにか食い止めたいが、そのために頑張れば頑張るほど、ダサくする側の倫理を内面化していっていることに気がつく。「よい読み手でありたい」と思って選んだ場所を「ボトムアップでよりよい場所しようとしても難しく」、かといってその場への影響力を持つためにはその場の倫理にかなった振る舞いが求められ、その振る舞いは遠からず「その場の倫理の内面化に繋がる」。

 


僕は出版社で務めたこともないし、だから上記はぜんぶ妄想なのだけれど、こういった内面化はどんなにいやいや通っている会社でも起こりうる。話しているとき、会社を擁護するような物言いになることがある。奥さんにそう指摘されたとき心底ゾッとした。職場で、仕事に打ち込むあまり離婚する人を飽きるほど見てきたと話したとき、そういう人たちの配偶者は、次第に会社の倫理を内面化するその人の変化が耐えられなかったんだと思う、と応えた奥さんは、自分では自分のことを感情と論理の二項対立に捉われがちでしかも論理にかなり偏っている人間だと考えているようだけれど、ここまで細やかな想像力が働く人の論理というのは感情と同じことだ。論理と感情というのは対立するものではなく、お互いに補い合ったり、分かちがたく混ざったりしているものだ。奥さんの情緒ある知性と理知的な感性が、僕はものすごく好きだ。

 


なにかをがまんして飲み込んだ時点でそこに「呪い」がある。違和を感じつつもがまんすることはその違和感の原因そのものを内面化することの第一歩だ。そうはいってもこれは生活のために仕方のないことだからと、知らず知らずのうちにがまんしてきたことが自分にもあったようだ。

わたしは収入があるあなたではなく、理知的でチャーミングなあなたがよくて結婚した。離婚したあなたの上司の配偶者も、最初は似たような気持ちだったんじゃないか。もちろん収入があるに越したことはないしお金はすごく大事、それがなによりも大事だというわけではない。というようなことを、もっと格好よく言ってもらえた時、たしかに「呪い」の解かれる音が聞こえた。僕はいつの間にか、より良い生活のためにより稼がなくちゃいけないし、そのためにはがまんしてでも働くほうがいいと思い込まされていた。はやめに気がつけてよかった。ぼくはなによりも奥さんを、家にいるときの気分の良さを大切にしたい。それを損ねるようなものは、なるべく少なくしていこうと思った。

 


こうしたおしゃべりの猛然さのきっかけは、保坂和志のABCの対談に行ったことだったかもしれない。保坂和志はそこで「安定に不安を感じる人がいるように、僕は帰属することに恐怖を感じる」というようなことを機嫌がよさそうにしゃべっていて、納得しかねたような質問者に「いや、たとえば自分が高校生で、同級の友達といてこいつら最高だなっていうのとさ、この高校最高だなっていうのは全然ちがうわけじゃん」というようなことを応えていて、とてもよかった。

帰属という言葉はなにかに従うこと、なにかの所有下にあることというような印象を受けるし、調べてみたらやはりそのような意味だからこの印象は個人の勝手な印象ではなくて、だいたい共有されているものだろう。僕もそうしたことにかなりの拒絶や嫌悪の気持ちを持っている。いまのところこれはまだ生理的に無理などという安易な言い方でしか説明ができない。

別のタイミングでこの日の対談相手が「保坂さんのご家庭はホカホカしてますもんね」みたいなことを言っていたのも相まって、「帰属への恐怖」と「好きな人たちを大切にすること」は、全く矛盾しないというか別の話なのだと腑に落ちたのがうれしかった。大好きな家族や友達や猫に対して尽くすのは帰属ではない。家族も会社もおなじように制度ではあるけれど、その人にとって家の人が友達や猫と同じようなものであればべつにはたから見て制度であろうとなかろうとそんなことはどうでもいい。家族にせよ会社にせよそれが帰属しなければいけないものになったとき、恐怖の対象に転ずる。怖いのは制度の帰属を強いる側面であって、制度のぜんぶではない。猫や友達のように尽くせる奥さんが実在するのだから、猫や友達の様に付き合える会社もあるのだろうか。

 


ここまでの話は、「辺境にいたい ←→ 参加したい」という二極のあいだでのバランスのとり方の話のようにも思えてくる。この前電車で久しぶりに開いた松岡正剛の「千夜千冊」のなかで、『世界の中にありながら世界に属さない』という本が紹介されていた。いいタイトルだと思った。そういうバランスがいい具合なのかもしれない。最新の投稿を三つくらい読んで、「意識は自分のものではない。とはいえ意識が自分以外のなにかに属しているわけでもない」というようなことを考えて、これもここまでの話にかなり繋がっていくように思うのだけどこれについてはまだ言葉になってこない。この感じを忘れないほうがいいように思って、メモ代わりにツイッターに支離滅裂な投稿を残しておいた。

 


昨晩遅くに最新話がアップされた『ビルドの説』にもここまでのおしゃべりに繋がっていく気配を感じている。気圧の高低など、他人から見たら些細な与件であっさり幸せにマイナス補正がかかる僕たちは、そうしたマイナス補正の原因を特定し、分析し、受ける影響をなるべく少なくするためのシステムをビルドする。そうやって、温存したリソースをなるべくたくさんお家に割きたい。ビルドとは、環境のどこまでを自分のコントロール下に置くかという試行錯誤の実践なのかもしれない。ビルドは楽しい。自分の気分のよさは、自分で作ったり守れたりできると思えるから。

2018.07.25

口の中のあらゆる場所に口内炎がある。
朝まったく起きられないばかりか夜帰宅すると人語があまり理解できない。人語であることはわかるのだけれどそれを処理することを言語野が拒むようなのだ。


人工甘味料はまじでやばい。
「みんなやってるよ」「おいしくて楽しいよ」という誘いにほいほいついていったら身も心もボロボロになる。一度はまると最後。菓子パンが食べたくて食べたくて仕方がなくなる。肌は荒れ髪の毛は抜け疲れやすくなる。イライラもする。菓子パン断ちはまたこれがしんどい。かわりにドライフルーツやナッツをおやつにするとまず財布がおおきな打撃を受ける。財布の余裕のなさが心の余裕を奪い、「ちょとくらいなら……」とふたたび菓子パンに手を伸ばすようになる。そして肌は荒れ髪の毛は抜け疲れやすくなる。イライラもする。


それでも僕は困難を乗り切った。この一週間すっかり菓子パンに手を付けていない。
しかし、それなのに、口の中のあらゆる場所に口内炎がある。朝まったく起きられないばかりか夜帰宅すると人語があまり理解できない。人語であることはわかるのだけれどそれを処理することを言語野が拒むようなのだ。
菓子パンをやめたのにこの仕打ちはなんだ。


疲れがとれない。
もういやだ。
夏か。
これが夏というものなのか。
それならば夏、僕はやっぱりお前が嫌いだ。


お前、といったが、たかだか季節に「お前」と呼びかけることで人格を仮構するようなそんなのも癪だ。夏はなんというか、人じゃないし、ただ、暑い。なんかそういう、不快な、気候変動の産物というか、季節。いや、なんか季節って言葉に情緒があるじゃないですか。そういう情緒も夏にはもはやないと思うのね。なんかもっといやな呼び方はないものか。夏という字を見ただけでうええって怖気だつような、そういう汚らしい表現を夏に対してしたい。


同居人がおいしい夏メニューをよく作ってくれて、夏野菜カレーや冷やし中華やそういうのを食べると「夏も悪くないじゃん、むしろ好きかも」と僕は言った。確かに言った。けれどもあれはなんというか撤回はしないまでも間違いだったとここにお詫びして訂正します。僕は夏が好きじゃない。ぐったりするから。口の中のあらゆる場所に口内炎ができて朝起きれず夜ブローカ野がオーバーヒートし肌は荒れ髪は抜け気持ちは荒み気力は抜けおちる。こんな季節をだれが好きになれるというのか。もういやだ。夏も菓子パンもこれきりにしたい。すこしつらいが仕方がない。楽しいこともあったけど、これらといると僕はどんどん僕を嫌いになっていく。そんなのお互いつらいでしょう。もう終わりにしましょう。お願いだから、終わらせてくれ、頼む。

2018.07.18

奥さんでないころの、奥さんになろうかというタイミングの奥さんにこんなことを言われたことがある。「わたしは色々と綿密に計画立てて、あまりに綿密にシミュレーションするあまり、大事なことほど計画倒れに終わることがままある。あなたはそのへんテキトーそうだから、私が考えすぎているときへらへらと大丈夫大丈夫と言ってくれそうで頼もしい」そう思っていたが、これはもう奥さんは奥さんだっただろうか、ともかく後になって「そう思っていたが案外あなたも考えすぎるきらいがあるから二人でウンウン悩みがちよねー」と苦笑された。


さいきんはslackで日々の帰宅連絡やデートの相談をしているのだけど、行きたいところと行きたいところを繋ぐのお散歩コースをグーグルマップでシミュレーションしてみせてくれたとき、ふとそんなことを思い出した。
そういえば新婚旅行のシミュレーションもグーグルマップで準備してくれていて、そのころ僕は職場のストレスが半端なくてあまりちゃんと把握できていなかった。冒頭の苦笑はそのころのものだったろうか。いや、そのころは結構怒られたような記憶がある。ともかく今となってはあのころのすべてはストレスフルな職場と、あまりに自分本位な上司たちへの怒りしか湧かない。それに屈してしまった自分への怒りもあるが、怒りよりもかわいそうだという気持ちが強い。出発前はけっこう苦しかったが新婚旅行は最高だった。いまでもバルセロナのからっとした、いつまでも続く昼を思い出す。ここは暑すぎる。


ああいうストレスフルな環境はもうごめんだと思う。いまはそういう状況に対してへらへらとかわす図々しさが多少は身に付いた気でいるが、実際にまたストレスフルな環境に身を置いたとき、この図々しさがあっという間に委縮するということはいいかげん身に沁みてわかっているからだ。へらへら図太くいられる環境に、なるべくいられるようにしたい。環境を自分で選びとり、あるいは作っていくというのは、とてもたいへんなことだが、サラリーマン的な「なすがまま」的な不安定もまた精神衛生上よくない。「なすがまま」っつっても、その流れめちゃ人為的じゃないですか。だったらこちらも人為で抗いますよ。抗わせろよ。


未来のシミュレーションというのは不安しか呼ばない。
そもそもシミュレーションとは「あるシステムの挙動を別のシステムで模擬すること」だとググったら出てきたが、ついでに「シュミュレーション」なのか「シミュレーション」なのか「シュミレーション」なのか不安になってきたが、ともかく未来というのはいまだ何もない。模擬するべきおおもとのシステムが未着であり、定まってもいないのだから、模擬のしようがない。未来の模擬とは、似せるべきものが何かもわからないままに行うモノマネなのだから、不安になって当然だろう。


来るかもわからないものにああだこうだ不安になっても仕方がない。けれども、それらはたぶんだいたいちゃんと来るとわかっているからこそ、来ることだけはなんとなく信じているからこそ、不安になるのだから仕方がないとか言われても仕方がない。


なんというか、来るかもわからないものを不安に待っていることしかできないという状況が気に食わない。こっちから行くべき。しかし、どこへ?


デートの行先はこんなこと考えないで済むからいい。
行きたいところへ行くのだ。
それがより楽しくなるように、出発時刻やコースや予算をシミュレーションする。
行きたいところへよりよく行くために準備するのであって、準備がどうなろうとも行く気持ちは変わらないというのが大事だ。
いまここにありもしない未来のために頭を働かせるよりも、いまここから手足を動かしてみるのが先にあるべきで、さいきんの僕らはすぐ手や足が出るからすごくいいと思う。

 

2018.07.09

先週だかいつだったか、同居人が「自分の書いた文章や作品が好き?」と聞いて、そこにいた人たちが首をかしげたので「好きでもないのになぜ書くの……?」と、ほんとうにさっぱりわからないという顔で言うので面白かった。

そのとき自分が何と答えたか覚えていないけれど、「好きでも嫌いでもないな」というのがいま思うことで、それは「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」という有名な台詞があるけれどそれに近い感覚だ。僕は今まで食ったパンの味をいちいち覚えてはいない。

同居人は作品を作る人への問いかけのつもりで、自分の作ったものが好きでもないのにわざわざ自分で何かを作る人の気持ちがわからないと言ったようだった。だからこういう日記代わりにだらだら書いているブログなんかは彼女の想定するいわゆる作品ではないかもしれない。ちがうかもしれないなと思いつつ、考え始めてしまったのでこのブログに対する感じを考えてみると、僕はここに書いたものに対して好悪の判断をしようという発想はないみたいだった。

お芝居を作るときや友達のメディアに記事を書くときも、多少気持ちのモードというかそういうものが異なりはするけれど、出来上がったものへの判断はわりあいどうでもいいなという感覚は変わらないようにも思える。なんというか、書くものによって変わるモードというのは、自転車のギアの切り替えのようなもので辿りつきたいところから要請される遠さや速さなんかによって切り替わるのだけど、自転車に乗るという行為自体は変わらないというような感じで、なぜ自転車で喩えはじめてしまったのか分からないけれど、こういう普段使いの書き物と、よそ行きの書き物とでは、書き方の違いは確かにあるが書くということそれ自体は変わらないというようなことが言いたい。

僕は書くという行為それ自体が好きで、書き終わったもののことはどうでもいいとまでは言わないけれど、どうでもいい。パンの味がどうというよりも、食べるという行為自体がたのしいから食べるのだ。
読み返したときにまた何かを書きたくなるようなものであれば、自分で書いたものも悪くはないなと思う。お芝居の場合、自分で書いたものが他人によって発話されてはじめて意味のあるものだし、その意味というのも書いた本人の想定とはまったく関係のない方向に連想が繋がっていくこともしばしばで、そういう意味ではいつまでたっても完成しない。いつまでたっても完成しないというのはいつまでも書き直し続けていてもいいような気持ちになって楽しい。だからこういうブログに書くものよりもお芝居のために書いたものの方が好きなような気もするけれどそれは書く楽しさが長く続くからであって、完成された作品への愛着ではなさそうだ。

自分の書いたものが人に読まれるのも面白いけれど、人の書いたものを読むのはもっと面白い。本を読むと、その本に触発されて書き出されるものがある。書き出されるものはまた別の本を読むことを要請し、その読書の経験はまたべつの書くことを呼び寄せる。読むことと書くことはほとんど同じことだ。よりよく書くためにはよく読まなければと思うし、よりよく読むためにこそ自分でも書いてみる。読みながら触発されたものを自分でも書いてみたときの「なるほど、こんな書き方もあるのか!」という発見が気持ちいい。僕は野球をみないけれど、それはたぶん僕に野球をやった経験がないからだ。子供のころ野球で遊んだひとたちにとって、テレビで誰かがヒットを打つことは、自分の身体経験となにかしら響きあっている。テレビの誰かのヒットの喜びはそのまま見ている人の身体の喜びとして経験されうる。「なるほど、こんな体の使い方があったのか!」

野球で話してしまうとどうしてもただの妄想になってしまうが、演劇を見るときの僕はやっぱり自分の演技や演出の経験から演劇を見ている。「なるほどそんな空間の考え方があったのか!」「あの俳優はいま気持ちがいいだろうなあ!」と、いつしか自分の経験のように演劇を経験する。学生時代にちょっと演劇をやって今はほぼたまに見にいくだけというような僕でも、演劇を見るとき見るというよりもやっているという感覚で演劇を経験する。このことを考えるとき僕の演劇を見るやりかたは、ただ週末に草野球のコーチをたまに手伝うくらいの人たちが、テレビの野球をまるで自分の人生のように、なんなら自分の人生以上に熱狂して語るときの感じと似ているのではないかと思う。

本を読むのも似ていて、よく読めていると感じられるとき、読みながら書くこともしているような感じがある。自分でただ書くよりも、読むという行為に触発されて書く経験のほうがずっと豊かに感じるのは、自分の人生以上にテレビの野球に熱狂するのとたぶんほぼ同じことだと思う。自分のことよりも自分のことのように熱狂できるものがあるというのはそれだけで豊かだ。僕は野球は解らないけれど、本を読むことや、演劇を見ることを通してその感じを知っている。野球の身体感覚はぼくにはわからないし、他人のプレーを見ても響きあうものはあまりない。けれども書くという身体感覚であれば響くことがあるかもしれない。その響く感じがもっと欲しい、よりよく読みたい。よりよく読むために書く。素振りのようなもの。ただその素振りそのものもけっこう楽しい。だからこうやってだらだら書いてみる。書き終わった後に「いいもの書いたなあ」とは思わない。たぶん野球をやる人も「いい球投げたなあ」とは思わないんじゃないか。終わった後に思うのは「あー楽しかった」ということだけじゃないか。

『『百年の孤独』を代わりに読む』という本を読んで、ものすごく楽しかった。野球を知らなくても野球に熱狂する人の語ることを聞くのは楽しい。そういう楽しさだった。読むことが書くことと直結しているさまを、なるべく生っぽく記録しようというドキュメンタリーのように感じた。「この人はこう読んだのかあ!」という喜びがある。僕は野球を見ないけれど、誰かが代わりに野球を愛している。僕にはその愛は直接体験はできないし理解もできないけれど、誰かのそういう愛を目の当たりにするのはけっこう嬉しいものだ。僕にはない愛を誰かはたしかに経験している。
僕は足が遅いけれど、足の速い誰かが僕の代わりに走ってくれる。たしか山下澄人がどこかでそんなことを書いていたような気がするのだけど、そこで書かれていたような感じで、僕はたしかに「代わりに読まれた」ように思えた。僕にはできないやり方で、誰かが『百年の孤独』を読んだ。読んでいる。
僕も、誰かにはできないやり方で『百年の孤独』を読みたいと思った。
僕にできないことは誰かが代わりにやってくれる。同じように、誰かにはできないことを、僕は代わりやっているのかもしれない。なぜ読み、なぜ書くのかというと、ぼくはもしかしたら誰かの代わりに読みそして書いているのだという、へんな感覚を持っているからなのかもしれない。読んだり書いたりすることは、なんでだか、ひとりでの行為だという感じがしないのだ。一冊の本は、球場と同じように、複数の読者/観客の身体感覚の響き合う場なのだというと、なんだか格好良すぎるだろうか。

ぼくにとって『『百年の孤独』を代わりに読む』は、知らない誰かが確かに熱狂している、熱狂できない僕の代わりに熱狂してくれている、その感覚がびりびりと響いてくるように感じられる、球場のような場所だった。

2018.07.06

生活に推しを増やしていく。

こっそり気になっていたプロダクトやお店には幻滅を恐れずにどんどん触れてみようと思った。

 

Deeper's Wearの服を買った。

fuzkueで本を読んだ。

どちらも想像していた以上に気持ちがよかった。


この世に感じのいいものを実際に作りだす人たちはすごい。
僕もそのようになりたいような気もするし、僕は何か特定の感じのいいものを追求するだけの根気も情熱もあまりないので、たださまざまないい感じのものをふらふら面白がっていたいような気もする。


二つに一つという考え方はばかなのだと、いまは誰もが言う。
とはいえ、どっちもどっちという、どっちつかずの考え方は、足元がふわふわと定まらず落ち着かない。おおくの人は落ち着きたいと願っているのだと思う。少なくとも僕は落ち着きたい。ふわふわと定まらないまま落ち着きたい。これしかないという、たった一つの落ち着きどころなどもはや信じてはならないのだから、「ここは落ち着けるな」という判断をくだす自分の、これまで育ててきた美意識みたいなものはお金や手間を惜しみ過ぎない程度に貫いていくようにしたい。いつだってお金や手間をかける余裕があるわけではないので、いつでも完璧に美意識を貫くぞという気持ちはそれはそれでしんどい。そんなストイックさは僕の美意識に反する。なんというか、美意識というのが大事な気がする。思想やプライドはいらない。それはたぶん今あまり役に立たないし、頼りにもならない。大切なのは、「これはなんだかいい感じ」という肌感覚、「これはなんだかよくなさそう」という直観のようなもの、そしてそれらをその都度きちんと言語化できること。僕はそういうことを美意識という言葉を使って考えていきたいようだ。


ここでちょっと自信がなくなってググってみる。
美意識、「美に関する意識。美に対する感覚・態度」
うん、そこまで遠くはなさそうだった。


自分が何を美しいと感じるのか。敏感でいたい。
なるべくそれをわかりやすく言葉にするように努めたい。
平易な言葉で表すことができたら、あとは実践あるのみ。
そうやって美のよい実践者として、よく読みよく見てよく食べよく着てよく住み、とにかくそうやって美しいものへの献身のように生活を送りたい。たまに、しばしば、よくサボりながら。


ここでよく働くというのが自然に出てこなかったことが少しさみしいような気もする。仕事において貫くにたる美意識を僕が持つ日は来るのだろうか。いまのところ、そもそも持とうという気持ちすら起こらない。でもせっかくだったら、持てたらいいなあ。だってそのほうが格好いいじゃん。


できるなら格好いいかんじに生きたい。
好きな人に、なにより自分に「いい感じだね」って言われたい。

 

 

 

 

2018.07.05

引き続きごきげんについて考える日々だ。

こうして考えていけばいくほど奥さんはえらい。
とてもえらい人だという気持ちが強くなってくる。
というのもこの人はとても言葉の人であり、なおかつなかなか言語化できない生活の機微をも決して見落とすことをしない。言語化オタク・オア・感情モンスターの二極を行ったり来たりしがちな僕は、こうやって奥さんのえらさを思うにつけ奥さんを見習うべきことだなあとしみじみと思い知る。

僕が感情モンスターのとき、奥さんはつとめて論理的に僕のモンスターっぷりを指摘し、徹底的に懲らしめる。そのあまりの徹底っぷりにむしろ感情のモンスター化の引っ込みがつかなくなることもしばしばだけれど、どこからどうかんがえても論理的誤謬は僕にあるのだし、おとなしくさっさと自分の非を認めないと恥を重ねることになる。わかっていてもついつい重ねがちな僕に対して、ますます奥さんの言葉は冴えわたり、感情のエラーはいつしか不合理として見事に処理がなされる。

ここで重要なのは僕を懲らしめる奥さんの言葉は論理偏重のオタク化しているわけではなく、奥さんはあくまで僕らのごきげんのために論理をこらす。言葉はあくまで手段であるということを外すことなく、論理的整合性ではなくあくまで「お互いににもっともごきげんであれる落としどころ」へと着地させていく。言語化自体が自己目的化して本来の落としどころを見失いがちな僕とはこの点でも数枚上手のごきげん巧者なのだ。
すごい。

僕はつい上の様に「論理/感情」という二項対立を前提としたような書き方をしてしまったけれど、もちろん感情は論理によって駆動するし、論理は感情から生まれてくる。この世に対立する二項などというものはないし、二つに一つだという気持ちになったとき、だいたいにおいてどっちもどっちなのだ。僕だってこの「どっちもどっち」というバランスには気を付けているつもりだけれど、わりとよくどちらかに傾く。奥さんは僕がどちらに偏ろうとも冷静に調整を入れてくれる。
すごい。

ちなみにこれは「だめな僕とすごい奥さん」という他人が読んでも胸くそ悪いだけの話がしたいのでもない。上に書いたことは主語を入れ替えても成り立ちうるからだ。奥さんの調子が悪い時は僕がさっそうと調整する側なのだ。なにがいいたいかというと、論理的整合性の追求をヒートアップさせるでも、感情のこじれをバーンナップさせるでもなく、ちょうどいい感じをめざして日々話し合い気遣いあう僕らは最高だなあという、よりしょうもない話だったのだこれは。
すごい……

けれどもさいきんは僕の余裕があまり確保できず、奥さんにばかりえらさを担当させがちである自覚があり、それはとってもムカつくのでもっとえらい人間に僕はなりたい。前の週末、奥さんと買い物に出かけたとき、それはちょっとじーんときちゃうほどいい買い物で、僕はたぶん生まれて初めて楽しいだけで買い物を終えたのだけど、そんな興奮もあって服のことや仕事のことを先日のブログに関連させてわくわくと話していたらその中で奥さんは「なんか正しくアラサーって感じ」と言った。

たしかに僕は正しくアラサーな考えを進めている自覚がある。つまり大人であることを受け入れようとしている。それはよりよく生きることを本気で考えているということだ。そのためにできそうなことは色々と思いついてきたけれど、まずしなくちゃいけないのは奥さんとの時間をもっとごきげんにすることだ。体調の悪さを言い訳にして言語化オタク・オア・感情モンスターに甘んじる時間は心底いらないのだ。そういうのが必要な場合もある。けれどもそれは必要最低限でいい。ほんとうに、余裕を持ちたい。おもに体力面での余裕のなさを本気でどうにかしたい。奥さんに会いたい。帰ったら会えるのだけど帰った時ちゃんと元気でいられるだろうか。帰りの電車でぐったりしちゃうんじゃないか。俺はいつでも元気いっぱいで奥さんに会いたいし奥さんの元気がなければ静かにごきげんに至る道を一緒に探す。そういう風でいたい。いよう。さいきん朝はなるべくラジオ体操のねじる運動のところだけでも抜粋して行うようにしている。背中の血行が促進されるとそれだけで気分爽快。朝から人並みにおしゃべりや判断ができるようになることについこのあいだ気がついたからだ。しかもその爽快さはだいたい夜まで続く。すごい。これはすごい発見ですので皆さんもぜひ朝起きたら体をねじったり反らせたりしてみてください。

もう一つわかってきたこととしてごきげんのためにはひとりで本を読む時間が僕には不可欠だということだ。奥さんといることは無上のごきげんだけれど、奥さんといるだけでは回復しないステータス異常があるようで、それはひとりで本を読んだり映画を観たりすることで回復するのだ。奥さんといることは無上なのでどうしてもおろそかにしてしまいがちであるし、けれどもおろそかにしすぎてしまうと奥さんに提供できるごきげんがイマイチなものになりかねない。いじきたない僕は一挙両得を狙って奥さんのいるところで本を読みふけってみたりもするのだけどやはり二兎を追うと何も得られないのだ。

こうしてブログを書くこともひとつのひとりの実践だろう。
ひとりでいると、自然と奥さんのことや生活のことを考えだす。
人と会うためには、ひとりであることが絶対に必要なのだ。
そのことを何度も忘れかけ、何度もしみじみと思い出す。

2018.06.28

さいきんは諸事情によりごきげんに生きる方法論を探しては実際に試してみるというように暮らしている。
すると同居人から「これはごきげんについて考えるための課題図書なので」と地曳いく子の『服を買うなら、捨てなさい』という本を手渡された。「はあ、著者はバブリーな世界で生きてきたのね~」みたいなちょっと白けた気分にもなりつつも、面白く読んでいる。

「増やしたり大きくするのはいいこと」という価値観に踊らされる機会もなく、ないならないなりに小さく快適に生きていこうみたいな環境でここまで生きてきたので、著者がしつこく破壊しようとする「モノがたくさんあることはいいこと」みたいな価値観じたい持ち合わせておらず、だから自分が持ってもいない価値観への破壊工作のしつこさには「はあ、著者はバブリーな世界で生きてきたのね~」と辟易するしかないのだけれど、そうまでしないと自分が当たり前に持っている価値観にたどり着けない人もいるということが面白い。

そういう「ぜんぶ自分のものにしたい!」みたいにガツガツやっていた人たちから見れば、あまりものを持たずにシンプルに暮らすということに積極的な価値すら見出されるのだというのが体感的にわかってきた。僕はミニマリズムに対して共感しつつも、それはバブル的価値観の反動というよりは、むしろ斜陽の国の住民のやせ我慢というか諦めの美意識なのだと思っていた。「たくさんは買えないし、じゃんじゃん買い替えることもできないのだから、せめてしっかり吟味して買うことで長く楽しもう」というような気高い貧乏性なのだと思っていた。いまだ飽食の時代感覚を捨てきれない金持ちにとっても「持ちものを減らす」という選択は、あたらしいトレンドないしは道楽としてありうるのだなあというのがやっと腑に落ちた。

「2千円の適当なTシャツを10枚買ってすぐに雑巾にしてしまうよりも、一着1万8千円のTシャツを大事に着るほうが気分もいいしむしろ経済的じゃね?」というのがミニマリズムだと思っていた。そこで一着3万円のTシャツを買うほうがクールだという価値観にもなりうるというのは、薄々わかってはいたけれどなんだかびっくりした。なんでびっくりしてしまったのかといと、たぶん僕は金持ちに対して相当なルサンチマンを持っていて、ミニマリズムが金持ちの道楽でもありうることに気がついていたとしても簡単には認められなかったのだと思う。ミニマリズムというのは僕ら持たざる側の厳しい状況をなんとか楽しくサバイブするための最適解のひとつであると感じていた。だからこそ金持ちにとっては「たくさん持つ」も「すこしだけ持つ」も両方選択肢にありうるということが許せなかったのだろう。それは俺たちの遊び方だぞ、と。俺はたくさん持ちたくても持てなかったんだぞ、と。

今回『服を買うなら、捨てなさい』という、おそらく金持ちが書いた本を読みながら、そんなわだかまりがほぐれてきている。というのも、金持ちの感じるミニマリズムのよさと、僕らの感じるよさとのあいだにギャップがほぼないということが感じられたからだ。ミニマリズムは金持ちにとっても僕らにとっても、似たような解像度で道楽になりうるというのがわかって、それはすごくいいなと思った。引き算の美学が優勢となることは、スケールメリットが必ずしも有利に働かないどころかむしろ足枷となることを意味している。手持ちのお金の多寡よりも、個々人のセンスで判断されるゲームは、ある程度経済的な格差を無効化したところで繰り広げられる。これってけっこう痛快なことじゃないだろうか。もちろんセンスだって、お金も大いに含めた生活の余裕があってはじめて磨かれていくのだけど。『万引き家族』は観ていないけれど、ツイッターで「貧困一家の家がもので溢れているのがリアル」という感想をみかけた。ものを減らすにも余裕がいるのだ。とはいえ、いま流行のゲームに手持ちがないから乗ることすらできないみたいな気分にはならずに済む。というか、「しみったれた現状から這い上がるためにはとにかく稼げ」と運が良かっただけのひとたちから無責任に抽象的な講釈を垂れられるより、「より楽しく暮らすためにとにかく捨てろ」という言説のほうがうんと建設的だし具体的なぶんすぐに実践できてずっといい気分になる。

あんまり気に入ってはいないけれど経済的な理由で妥協して買ったものは全部捨ててしまおうと思った。気に入らないもので済ませるくらいならなしで済ませたほうがましだし、結果的に多少高くついたとしても、少ない数のお気に入りだけを持ち物にして暮らしたい。
上記の本は読み切らないかもしれないけれども、こういう思いが強くなるきっかけにはなったのだから読んでよかった。

これまではなんだかんだ「たくさん持つ」ことへの憧れやその裏返しを捨てきれていなかったから、安くてそこそこのものを適当に買い込んでは後悔していた。そこそこのものが増え、「お金があったらもっといいものが買えたのに」とこじらせていく。そういう負のループに、特に僕は服において陥っていた。お金をかけずにものを持とうとすると、結果的にどうでもいいもので溢れた部屋でいらいらと暮らすようになるというのは学生時代を思い出してもひりひりとわかる。
「必要最低限のものに最大限のコストを投入し、必要でないものは徹底的に捨てる」
「お金はなるべくかけず、けれどもかけるときはケチらずちゃんとかける」
そういう気持ちになるためには、一度持ってみないとなれないのかもしれない。10代の非モテをこじらせて、ただがむしゃらにモテを追求した大学デビューの熱情は実際にモテてみたらあっさりと萎んでいった。いま自分がこういう考えになっているのも、たくさんの女の子からモテたいという気持ちがすっかりなくなり、奥さんといつまでもごきげんにくらしたいという気持ちが日に日に強くなっているというのも関係しているだろう。本を貸してくれた同居人は「これは服の本だけど、わたしは人生の本だと思ってる」と言っていたように、ものとの付き合い方を考えることは人との付き合い方にも接続していく。

ついさっき今度の本は読み切らないかもしれないけれども読んでよかったと書いたけれど、就職前の僕はおそらくタイトルや表紙だけ見て「こんな軽薄そうな本は俺は読まない!資本主義め!」と読まずに放置したと思う。
つい先日の弟のブログには「自分に関係がないものに興味や感情移入を持ちつづけることは困難だ」というようなことを書いてあって、おっさんになって生活が安定すればするほど自分に関係ないものがどんどん増えて、興味もどんどんなくしていって、いずれ興味を持てない事柄があることにすら気がつかなくなるんじゃないか。就職したら自分もビジネス書やハウツー本ばっかり読むようになるのかな。まだそういうおっさんへのシフトはきっついなあ。そう弟は書いていたのだけど、先におっさんに片足突っ込んだ兄として、就職するとビジネス書やハウツー本”も”素直に読めるようになるのだと伝えたい。

これは僕の話であって一般論では決してない。けれども一般論っぽい書き方になってしまうことを許してほしい。大人になってくると、社会だとか会社だとか全く気の合わないひとだとか、自分には関係ないようなものと関係っぽいものを持つことになる。関係も興味もないものと関係しないといけないという無理のなかで湧き出てくる興味というのは、しぜん抽象的なものではなく個別具体的なものへのそれになっていく。なにせ目の前の具体的な無理にどう対処すればいいのかが切迫した興味になってくるのだから。
経験の乏しい学生のあいだは抽象と具体では、抽象のほうがしっくりくるから優先度も具体的な事柄よりもずっと高かった。具体的なことを考えるにしても、自分からは遠いというか、自分の生活と地続きであるという感覚が希薄なところで起きる不条理に対して、本気で、けれどもやっぱり抽象的な方法で憤ったりしていたように思う。

けれども就職して、経験がある程度積みあがって、さらにはこれからもっと面倒なことを経験しなければいけなそうだとなったとき、具体の優先度が自分のなかでぐっと上がってきた。具体的なことが、自分事として一気に畳みかけてくるように感じたのだ。ここまでの書きぶりをみて気がつくと思うのだけど、僕の文章はちっとも具体的ではない。いつまでたっても抽象的なことばを遊ばせているだけのように見える。自分の具体的に困った状況をサバイブするためには、具体的な実践が勿論不可欠であるのだけど、抽象的に俯瞰することを忘れてしまっては息苦しくなってしまう。抽象的な文章を書き散らすことが、自分にとってあたらしい風を取り込むための実践であることは学生のころから変わっていないみたいだ。

なにが言いたいのかというと、たしかに僕は就職してビジネス書やハウツー本を手に取るようになったかもしれない。けれどもそれは価値観の転換ではなく拡張だったなというのが個人の実感なのだということだ。
いまの僕の実感からすれば、弟の言う「若者からおっさんへのシフト」というのは、抽象に偏り過ぎたこどもが具体的な経験を得て具体への関心をも得るというだけのことに思える。

上のようなビジネス書感覚と人文感覚をあざやかに架橋する一冊として、若林恵の『さよなら未来』は名著だと思う。具体は抽象を推し進めるし、抽象は具体を支える。両者は対立するものではなく、相補的な関係にあるのだという考えてみれば当然とも思えるようなことがしごく真っ当に書かれている。

だから僕はティム・インゴルドの『メイキング』を読みながらポール・ホーケンの『ビジネスを育てる』を想起するし、『服を買うなら、捨てなさい』を読みながら並行して『優雅な生活が最高の復讐である』と『秘儀と習俗』を読み終えた。関心が具体的な生活とその抽象的な昇華というところにあるから、なにを読んでも自分事として面白い。おっさんになることは、面白がれることが増えることだ。先におっさんになるものの務めとして、こっちもけっこう楽しいぞというアピールをこっそりとしてみたが、どうだろうか。高校生のころ大ハマりしていた怒髪天は「人生を背負って大ハシャギ」と歌ったが、僕からしてみれば人生を背負うことそれ自体が大ハシャギに匹敵する楽しいことだ。具体的な経験を背負っておこなう概念操作はたまらなくスリリングで癖になるぞ。急がなくてもいいけど、一度こっちにも来てみるといいよ。

つまんない大人なんてものはいない。
つまんないひとがいるだけだ。
絶対にそういうことにするから、万が一俺がつまらなくなったらそのときは止めてくれよな。