2015.02.21
朝は8時半だったか、とにかく家を出るまで20分くらいしかないような時間に起きた。
10時から仕事をして、きょうはいろいろと勉強になった。
会社の人というのはすごい!と思った。ものの考え方が非常にスマートで英語みたいだ。
人のものの考え方を教わるのは楽しい。それは価値観の更新や変更ではない。
それは語学を習得することに似ている。
自分にはない文法や語彙やリズムを身につけること。
帰りの電車で久しぶりにツイッターのタイムラインを眺めて目にとまった保坂和志のボットを遡ると、やっぱりこの人のものの考え方には救われる。それは「こういう考えを持っているのは自分だけではなかった。よかった」という救いだ。
人は頭の中だけで考えるが、字にして書きながら考えるのは頭の中だけで考えるのとは違う。まず思うのは自分が書いた字によって自分の考えが書く前には考えていなかったずっと先の方に引っぱられる。が、これは本当のところ書く効用のようなものの中心ではないのではないか。
— 保坂和志bot (@k_hosaka_bot) 2015, 2月 18
たとえばこれなんか、今こうして書いている理由をもし探すとするならばその気分に限りなく近い。書くことの物質性。文字という異物に呼応して身体で考えること、その意識的な実践、みたいなことに最近は興味がある。
カフカは小さい声で書いた。トルストイにとって小説はそれを読んだ人が生きるためのものだったが、カフカにとって小説は書く自分が生きるためのものだった。楽器の演奏やダンスと同じで、その夜、その夜からはじまる何日間何ヶ月間を生きるためのものだった。
— 保坂和志bot (@k_hosaka_bot) 2015, 2月 21
これはさすがに格好良すぎるかもしれない。けれども生き延びなくてはいけないという切実さは、誰しもきっと持っている。延命の言い訳や手段は人それぞれ様々だろうけれど、通じるのはそれらは巧拙を問うべきものではないし、誰もバカにしてはいけないということだ。
きょうも生き延びていること。
それは不可侵の誇りだ。
今夜はそんな気分。
明日は雨らしいからもう少し元気がないだろう。
中立というのは何ごとにおいてもありうるのか。中立であろうが偏向であろうが、事態を断定する伝え方であれば、受け手に及ぼす心理的な結果は同じになるんじゃないか。必要なことは、〈中立〉でなく〈優柔不断〉〈煮えきらない態度〉なんじゃないか。
— 保坂和志bot (@k_hosaka_bot) 2015, 2月 21
ついつい文字に起こすと、言い切ってしまう。
その言い切りは言葉の側から要請されるものでもある。
だからこそ書き続けなくては意味がない。
書いて書いて書きまくって、起こせ、自己矛盾。陥れ、自家撞着。
優柔不断を許さない言葉という道具の濫用は、言葉の「なにごとも言い切ってしまう」性質をわやにする。
矛盾は一貫する道理よりも真実だ。
饒舌は沈黙よりも虚しい。
騒がしく喋りっぱなして、踊りあかして、笑いほうけて、そうしてむしろ浮かび上がってくる虚無を楽しもうじゃないか。
だいたいそんな感じです。
わかることの中心はわからないことなんじゃないか、とも思うんですね。それはフロイトも言っているらしいんだけど、夢を解釈していったときに解釈できないところがその夢の中心になるんだ、というんです。
— 保坂和志bot (@k_hosaka_bot) 2015, 2月 19