2015.02.24 『アメリカン・スナイパー』の感想

きょうはおやすみだから簡単に済ますつもり。

今朝は10時前に起きて慌てて支度をした。10時20分開映の『アメリカン・スナイパー』を観に駅前の映画館に行くつもりだったから。
もちろん昨日のアカデミー賞に触発されたのだ。
昨日は仕事の休憩中にTwitterYouTubeにかじりついていた。

髪もすっぴんのまま帽子をかぶって、夕方から雨が降るかもしれないというから昨晩から庭に干していた洗濯ものを慌てて部屋干しに切り替えて、小走りで映画館に向かう。

昨日のアカデミー賞でニールもネタにしていたけれど向こうでは相当なヒットを飛ばしているらしく、この映画がアメリカで賛否ともども熱狂を引き起こしているというのは、日本で『アナと雪の女王』の「ありのままで」がなかばヒステリックなまでに受け入れられたことと通ずるものがあるような気がしてそら寒いような、もの悲しいような気持ちになる。
日本に暮らす僕らは自分と社会との間にあるジレンマにいっぱいいっぱいだ。
アメリカの僕らは真の愛国とは何か、答えのない問いのなかもがいている。
自由なはずの個人と、それを抑圧する構造との対立。ディズニーが従来のプロット作りのメソッドを相対化することで、その対立の脱構築を図った『アナ雪』の明快さに較べて、『アメリカン・スナイパー』の重層さというか、複雑さというか、ともかくその腹に据えかねる感じは9.11以降おおきな神経症患者と化したアメリカの気分そのものだ。それは自由の国、愛すべき祖国という神経症患者を静かに見守るまなざしだ。
おい、兄弟。しっかりしろよ。さもなきゃ俺もどうにかなっちまいそうだ。
そっと呟くことしかできない。
かつて西部劇の「伝説的」英雄であったイーストウッドが本作を撮ったということの意味も大きい。
イーストウッドは『許されざる者』ではやくも自らの出自である西部劇の『アナ雪』的脱構築を果たしている。『グラン・トリノ』ではついに英雄的俳優・イーストウッドという「伝説」にまで見事な決着をつけてしまった。
そんなイーストウッドが新作『アメリカン・スナイパー』の射程にあるのはすべての病んでしまったアメリカ国民だ。
すべての価値観が相対化されて神経症に罹ってしまった現在、愛国とはなんだ?
うちの阿呆な総理がバカをやらかし続けているいま、左右に分かれてこの映画を論じるよりも、まず話さなくちゃいけないのはこのアメリカの鬱だ。国を愛する前に、国家とは何かを問わなければいけない。それをわからないまま進んできてしまったから、アメリカは塞ぎこんだ。僕はそう思っている。
エンドロールとか、直前までの流れから見ても不自然だったし、その静寂はハネケの『ピアニスト』やソーダバーグの『チェ』の持つほどの雄弁さも持たず、はっきり言ってダサいだけだったけれど、あのしまらなさこそ、アメリカの気分を表していると思うし、きっと海の向こうの彼らはあの沈黙に救われたことだろう。アメリカなんて知ったこっちゃないれりごーな僕には、彼らの胸中に去来した思いは計り知れない。
だいたいそんな感じでした。

きょうはそのあと電車で祖父母の家まで行ってのんびり過ごした。ごろごろ寝転がって本を読んだり、そのまま寝落ちたり、メールやもろもろの作業を済ませたりした。

夜には妹も来て、お腹いっぱい夕飯をいただいて、楽しかった。

明日は早番なのでそろそろ自宅に帰る。


(メモ)
○読んだ本
バロウズ 清水アリカ訳『トルネイド・アレイ』(思潮社)読了
最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)拾い読み
大森荘蔵坂本龍一『音を視る、時を聴く』(ちくま学芸文庫)斜め読み