2015.03.21
きょうは珍しくこんな時間(午後9時27分)にもう夕飯をつくって食べて、さらには皿洗いまで終わっていて、いま、のんびり机に向かえている。
いつもより2時間くらい帰りが早い。
それだけでこんなに余裕がある。
なんてことだ。
考えてみるとまだ駅前のスーパーも開いている。
きょうはランニングがてら買い物してこようかな。
だったらこうして書いている場合じゃない。
はやくしないとスーパーが閉まっちゃう。
最近あんまりツイッターを見ないのだけど、たまに覗くとルミネの話題で持ち切りで、なんというか、あれって話題の一話だけじゃなくて続きがあるのだよね。
続き物の一部だけ見てヒステリックになるのは、「批評」だとか「批判」を行うものとしてはあまりに稚拙で無責任なんじゃないか、とも思う。
ちなみに僕は話題のCMをみていない。
YouTubeから削除されていたし、みたらきっと腹が立つからだ。
叩かれたり炎上したから削除しました、みたいなのももやもやする。
削除されて空っぽになったルミネの動画ページにはたった二行くらいのお詫びの言葉があるだけだった。このことが結局、こうして見てもいないCMとその批判について、なんとなくだらだら考えてしまう原因で、わるいことをしたのなら、あんなふてくされたお詫びの言葉は不誠実に過ぎるし、なにか言い分があるのなら、それを黙らせてしまった「正義の人」たちへの嫌悪が募る。
CMもみていないし、どちらかに肩入れできるほどの興味もないので何とも言わないけれど、「自分は正しい側にいる」という意識ほどこわいものはないと常々思っている。
あるいは、「自分は正しくありたいし、そうであるつもりだけど、もしかしたらちがうのではないか」という小心が、いつヒステリックに「正しいのはわたしの方だ!」と醜く爆発かしれない。そのことにとてもぞっとする。
イスラム国も、川崎のリンチも、なんだかどんどん忘れてしまうそのほかの色々なニュースも、それらにいつまでも飽きずに同じような「批評」をくだす狭量も、要素は違えど構造はすべておんなじもので、とにかく、どっちもどっちで悲しいね。
しまった。
はやくおわらせようとそれっぽくて書きやすい話題に乗っかってみたら案の定どっかできいたようなつまんないことしか出てこない。
そうこうしているうちにこんな時間(午後9時44分)だ。
さっさと着替えて走りにいこ。
そんで帰りにインスタント珈琲と、菓子パンをいくつか、もしかしたらお菓子も買っちゃうかも。