読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2015.03.24

きょう思ったこと。

ようやく自分に憤ることを許せる気がしてきた。
怒りはそれだけで反省なき自己肯定、みたいな考えにとらわれて強く忌避してきたけれど、適度な自信は生きていくうえで必須の栄養だし、許せないものごとに対してそれらを悲しみに転化することが常態化すると、どんどん暗くなっていく。

暗さはやさしさであり魅力にもなりうる。
けれどもそのやさしさを他人に対して発揮するだけの傲慢さがなければ、結局やさしくないのと同じことだ。行動が伴わなければ人を思いやれる優しい人は、ただの暗いやつになってしまう。
暗さを魅力に転化する傲慢は、行き過ぎなければ自信と呼んでもいいのかもしれない。
そう考えたほうがずっと健康的だ。

笑顔は最高の化粧であるし、その下地になるのは自信だ。
ありすぎては脂っぽくて不潔だし、なさすぎても乾燥して粉をふく。
ぎらぎらと自分を押し付けるように怒るのは下品だ。
でも、怒らずひたすら悲しみに転化して、どんどん溜め込んでいくのも清潔ではない。
それは気持ち悪い暗さとして滲み出てくる。

それは、なんというか、とても腹立たしいことではないか。
他人の域に土足で踏み込む鈍感が、優しさよりも誰かから褒められるだなんて。
納得がいかないではないか。

もちろん、優しくかつ気持ち悪くない人もたくさんいる。
彼らは褒められなくてもへっちゃらだ。
自分に対する価値判断を他人に委ねず、当たり前に、自分のために自分で自信を持てる人はやっぱり強い。その強さはとても魅力的だと思う。

僕も自信を持ちたいと思う。
そのために、癇癪を起こすこと。
許せないものごとに出くわしたとき、素早く憤って発散し、すぐに忘れること。
自分に照らし合わせて許せないときは、まず自分で癇癪を起こして完結させること。
怒りがおさまってからきちんと考えてみて、こちらが間違えていたときは反省すること。

これを心がけていきたい。
そう。やさしさとはちゃんと怒れる人。
そして怒ったことを恥じ入る人。
はにかみ屋の癇癪持ちになって、いまよりずっとつよく、やさしくなりたい。
そのためには怒る元気があること。


いつだかこんなツイートをみつけて、とても愉快な気持ちになった。。