2015.03.28

きのうきょうと朝起きるのがいつもよりもギリギリで、朝が慌ただしい。
ぼんやりしていることだけはわかる。駅まで早足で向かいながら缶コーヒーを流し込む。
ぼんやりしているので忘れものをいくつかして電車に乗る。

きのうは上司に呼び出されてこの一年の総括をお話しいただいた。
お前が心配だ、と上司は言った。
社会人として最低限のマナーだったり礼儀だったりがなってない。
人に何かを伝えることが不器用にすぎる。
誤解されっぱなしで必要以上に評価を下げている。
気が付いているのに行動しないのか、そもそも気が付いていないのか。
挨拶と笑顔くらいはちゃんとしなさい。
どうでもいいことだと思っているかも知れないけれど、そういうことに敏感な人ばかりの職場なんだから。

まったくその通りだと思う。
とても恥ずかしい。
けれども、わかっていても、明るくはきはき働くのって、なんでこんなむつかしいんだろう。
あまりに些細な、しょうもなくあたりまえな、「どうでもいいこと」に、俺は、ここまで躓くのか。それに戸惑い、開き直ろうとし、やっぱり困って、考えあぐねて暮らす一年だった。
伝わらないものだし、伝わんなくてもいい。
わざわざ言わないけれど、ここが好き。
そういうふうに生きてきた。
いま、すべてをはっきり伝えなければないのと同じな、会社という場所で、そのスタンスはただの空っぽで、なにも産み出さない。生み出すとしたら困ったことだけ。
これまで気にしていなかったことばかり、気にしなくては何もできない。
ああ、これまで、なんていい加減で優しい人たちとばかり出会ってきたのだろう。

仕事は、対人関係はゲームだ。
上司は言った。
ゲームだから失敗しても死なない。
なんども勝つまでトライする。
攻略法がわかると快哉を叫びたくなるくらい楽しい。
とてもよくわかる。
仕事もテレビゲームもさして変わりはない。
僕はテレビゲームが苦手だ。
地道なレベル上げだとか、コンボのためのボタン操作を特訓したりだとか、そんな根気強さは僕にはない。失敗したときリセットボタンを押してやり直すことすら億劫だ。
そもそも上司と話していて、彼が前提としている「勝ちたい」という気持ちが自分の中にほとんどないことに気がついた。
僕は僕に満足している。
闘争心や向上心が、ない。
負けたくないという気持ちがなければ、どんなゲームも面白くないだろう。
気がつけば負け癖がつきすぎて、そもそも勝負の舞台に登ることを放棄している。
勝ち負けなんて元々ゲームのルール内にしか存在しない概念で、他人の設定したゲームに乗っかるよりも、自分のルールに従って生きていくほうが、ずっと満足に暮らしていける。
それはその通りで、そうして生きてきた。それでいいと、心底信じている。

けれども、毎日、朝駅までの道のりを歩くとき、僕はきのうの僕が恥ずかしくてたまらない。
きのうの上司の言葉を受けて、ようやく腑に落ちた。
会社に通うこと自体、もうゲームへの参加を表明してしまっているのだから、勝ちにいってみなくてはやっぱり面白くないんだろう。
勝つことに、興味を持ってみようと思う。
どうやればいいのか、ほんとうに、途方にくれるけれど。

ここまで書いて、自分で自分のプライドの高さに驚く。
お前はそこまで負けるのが怖いのか。
自分を変えていくことが怖いのか。
結局、勝負の舞台に乗らないのは、誰よりも負けず嫌いなだけなんじゃないか。
べつにやっぱりやる気はないし、ばりばり勝ち上がっていこうという気には今もなれない。
けれども、しょうもないいまの自分を甘やかし、誰と会っても自分を変えられないような気持ちの悪い自己愛は、もういらない。捨てたい、とは、思う。

そんなことを考えながら仕事をして、いつものようにあんまり出来は良くなくて、でもそれを悔しいと思う練習をした。
失敗のたび悔しい悔しいと念じてみたら、不思議なもので本気で悔しくなってきた。
情けなくて恥ずかしくてたまらないけれど、どうにかひとつひとつ、できるようになっていけたらいいと思い込んでみた。

そうしてみるとわかるのは、自分がいかに出来の悪いやつかということ。

己のありのままの姿を客観的に捉え直すことは禅の基本でもある。

バイアスをとっぱらった、ありのままの在り方に気づくこと。そしてそれを良き方向へ認識を変えていくこと。

自分がいかに出来の悪いやつかは見えてきた。
ゆっくりでいいから直していこう。
直していきたいと思い込んでみよう。

そんなことを考えていました。
いま、とても眠いです。