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2015.04.11 あるいは『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の感想

『バードマン』は「映画」だった。永い鬱に塞いだアメリカ映画は、21世紀を10数年すぎて、ようやく新世紀の魔法をお披露目した。それも、ほぼ完璧な出来栄えで。

久しく僕らは映画が魔法だということを忘れていた。撮影と編集と呼ばれる、魔法の杖と呪文は、これまでいくども僕らに魔法をかけてくれた。エンドロールが流れきり、客席のライトがつくまでのつかの間のあいだ、人生という幻覚を信じ込ませてくれた。けれどもその魔法のタネは野暮なことにほぼ明らかにされて、しかももう長らくタネは尽きたものと思われていた。

しかし、しらけるにはまだはやかった。カメラと鋏による恣意的な魔術は、その可能性を尽くしてはいなかった。
あたらしい魔法使の名前はエマニュエル・ルベツキ。一昨年だか、重力をも手懐けたかのような手つきで宇宙を撮って新しい映画の兆しを見せた彼は、今度はニューヨークのたった数ブロックを切り取るだけで最高に謎めいた秘密の魔術を生み出してしまった。
その秘密を僕らは「人間」と呼ぶ。それは映画そのものだ。
お話の内容としては、21世紀のアメリカ映画としてはおなじみの、鬱病患者のリハビリそのものみたいな自分語りにすぎない。
けれども『バードマン』のように、作品それ自体が「自分」という他者そのもの、混乱や分裂そのものである、という事例はあまりお目にかからない。

観るものは分裂症患者として2時間徘徊することを余儀なくされる。
酔い潰れることなしにろくに寝付くこともできず、切れ目のないだらしない緊張の中で、じりじりと腐っていくような、官能的な死の予感につきまとわれて、驚くべきことにその緊張のただなかで退屈さえするだろう。

この映画が凄いのは手法じゃない。
手法というのは内容そのものなんだということ。
描かれるものと道具の選択そして描く手つきとのあいだになんの矛盾もないことにこそ凄みがある。
自らの症状をも適切な方法で描き尽くしてしまうショウビジネスの狂気的プロ意識。下品すれすれに過剰な自意識の誇示。
これは病んでなお『アメリカン・スナイパー』のようなまったく正当な西部劇の現代版ーーイラクをインディアン=蛮族として次々に撃ち殺していくさまの痛快な英雄物語ーーに血湧きにく踊らせちゃう阿呆なアメリカ白人にしか撮れない「映画」なのだ。
表現者が自らのエゴを隠そうともせず、観客なんて一顧だにせずに内省にふける作品こそが「芸術」たりえるのであって、だから優れた作品は基本的に憎々しいし腹が立つ。
客席に特権などありはしない。
身勝手なエゴイストめ、と毒好きながらすでに降伏している。
行き過ぎたエゴはとっくに所有者を失っているからだ。
撮影と編集という、画面の外のものを無視して、バラバラに切り刻んで、都合のいいように美しく配置する、このうえなく野蛮で暴力的でエレガンスに満ちたその行為は、誰ひとりその正体を理解できたためしのない「人間」というものを、理解できない歪なもののまま、あっさりと現前させてしまうことがある。

だからこそ、映画はおもしろい。

『バードマン』はまったき「映画」だった。
スクリーンには人間が、人生が、たしかに映し出されていたのだから。

なんつってね。