2015.04.17

シェアハウスに引っ越して半年ちょっと。
だいたいのことが好転した半年間だった。
会社でさんざん「お前は他人の気持ちがわからない」「感情がない」と罵られてきてーーいま思うと、あれはまったくDVみたいなものだった。たしかにイラつかせてしまうくらい仕事のできない部下だった。けれどもこちらにそれを誘発する原因があることは、それの暴力性を肯定するものでもないはずだ。他人事として振り返るとこう嘯けるもののいまでも本音の部分では「ダメな自分が悪い」と思っている。しかしその意識こそ暴力を振るわれる側の盲目だーー本当にそのとおり、ほとんど感情のないものにまで消耗していたのだと思う。
さみしさも苦しさも嬉しさも切なさも、ほとんどなにも感じられなくなっていた。
なにも考えられなくなっていた。

ここ数日体調を崩して、ブログもランニングもサボりがちになって、自分がいまいかになにも感じずなにも考えずにただくたびれていけるのか、ということを強烈に自覚したのだった。

くたびれて電車に乗り、人ひとりの生活に必要最低限のスペースに帰っていく。
誰と話すこともなく、本や音楽をひらく気力もなく、冷蔵庫の稼動音を聴きながらベッドに潜り込み、耐えきれなくなって深夜のラジオをつけて、気がつけば開けっ放しのカーテンから日が差し込んで、また会社に出かけていく。
なんど便器に流しても、翌日には必ず風呂場の壁をはっているナメクジだけが、自分と生活を共にする唯一の他者で、自分で稼いだお金は自分とそのナメクジのためだけに使われた。
入社して半年間、そうした一人暮らしにおそらくいま思うよりはるかに神経はまいっていた。
さみしいとも苦しいとも感じなかった。
たぶん、ほんとうに、まったくなにも感じなかった。

いま引っ越して、家に帰ると基本的に居心地のいい人たちがいて、たまにこちらの思惑通りにならないことに苛立ち、誰とも話したくないときはむすっとベッドに直行する。人と暮らすことは健康だ。
行きたいときにトイレに行けなかったり、洗濯しようと思ってもだれかが洗濯機を回していたりするほうが、健康だ。
感情だって相対的なものだから、照らし合わせる他人がいなくては存在しない。

好きな人がたくさんできて、さみしくてたまらなくなった。
会いたい人や、会ってくれる人がいなければ、さみしくもならない。
いま泣きたくなるくらい寂しくてせつないけれど、そのほうがよっぽどさみしくない。
今日は気圧がおそらく急降下した。夕方から夜にかけて具合が悪くなって、胸のあたりにびゅうびゅうと冷たい風の通るような息苦しさを感じた。それはさみしさだと思う。さみしさは具体的身体の苦痛だ。もしくはただの風邪だともいえるかもしれない。

だいたいの苦しさのだいたいは自分のせいで、だから誰も責められない。
そもそも誰か攻め立てる相手がいればそれで安心ができるかというとそういうものでもない。このことに気がつけないまま声だけ大きくなっていく醜い大人が多すぎる、と思うけれどこれはまた別の話。とにかくさみしさの波がわっとおしよせてくるようなときはじっと耐えているしかない。いつかはひいていく。そういうものだ。

きょうはお出かけの予定を一つふいにしてしまった。
けれども結局出かけていって、かわいいスウェットを一枚手に入れてごきげん。
おいしいご飯を食べて、たまたま出くわしたブルーボトルコーヒーに入ってみたりした。
ブルーボトルコーヒーはいまいちなにが良いのかわからなかった。

とにかく一日さみしかった。
ただ疲れているのかもしれない。おそらくは、ただそれだけのことだ。
誰かと暮らすことが再び当たり前になってきて、さみしくなる体力を取り戻したともいえる。
さみしさでたぶん人は平気で死ぬ。
一人暮らしの最後のほう、感情だとか、こころみたいなものはもしかしたら死にかけていた。
いま、生き直している。
いろいろな感情が押し寄せてきて、苦しくなる。
でもたぶん大丈夫。
いまなら持ちこたえられるから、波はやってきた。
ほんとうに、このままもうなにも感じられなくなるのかと思っていた。
いま、低気圧に誘われて、感じすぎるほどだ。
じっとこらえる。
この波は時期に引いていく。