2015.04.18

大事なことでもそうでなくても覚えているということができない。

きのうもお出かけしていて、駅から地上に出たところで道の向こうに見つけた本屋さんについて「あそこはいいところだよ。帰りに寄ろう」と自分で言っておいて、いざ用事を済ませてふらふらと入ったお店でコーヒーを飲みながら「さてはて、次はどこへ行こうかね」と平気で言いのけた。さっき見かけた本屋のことはきれいさっぱり忘れていて、「いやいや、本屋」と言われても、「その話どこでしたっけ。電車のなか、それとも降りてから?」なんて尋ねるほどだった。われながら、怖い。病気なのだと思う。

父親も同じように健忘家で、おそらく受け継いでしまったのだと思う。
父もつい昼に話したことを夜には忘れていたりする。
むかし母と旅行した思い出をほとんど共有できない。
母が笑って「あんたたちはほんとうに自分のことにしか興味がないから」なんて言ったけれど、そうなのだろう。
あのとき、あそこで、自分はこのようなことを考えて、こんな気持ちになった。
そういうことはやけにはっきりと覚えている。
小学生くらいまでの記憶はきのうのことのように鮮明だ。
けれども最近のこととなると、3年前も半日前も同じくらい霞んでぼんやりとしている。
内に閉じこもっているから外のことを覚えられない。
そもそも興味がないから覚える気もない。
おそらくそれはほんとうだろう。
けれども、ひとつ言いたいのは、興味の持てないことは必ずしも本人の意志の問題ではないということだ。本人の意志に関わらず、興味が起こらないときにはどうしたって起こらないし、忘れてしまうものは忘れてしまう。それは、相手のことを軽んじているとか、どうでもいいとかそういうことではない。自分にとってどれだけ大切な人のことだって、なぜだか覚えていられないのだ。それは、とてもさみしいし、苦しいことだ。
忘れられてしまうほうからしたら僕ら健忘家のことを「冷たい人間だ」と言いたくもなるだろう。僕だって忘れられたら傷つく。
けれども、どうしたって覚えられない、という心細さや情けなさや申し訳なさすらも、「覚えてくれないやつは他人に興味の持てないさみしいやつだ」という言説になかったことにされるのは、いやだ。そう健忘家は思うのです。そうです、わがままです。言い訳がましいことこのうえない。けれども、仕事をしていていちばんの障壁になるのも、この性質が原因であって、どうやったらみんなの顔と名前を覚えられるだろう。どうやったら興味を持てるのだろう。どうやったら彼らの人間関係を相関図を描くように把握できるのだろう。当たり前に求められるそうしたことが、なによりも難しく思える。もっと素直に言おう。不可能なことに思える。
僕らだって、覚えていたいとは思う。けれども悲しいまでに、他人事のようになってしまうことの多いこと。他人じゃいやなのに、自分のこととして覚えておきたいのに、どうしてだかそれができない。そのもどかしさが、いつだってついてまわります。

健忘家だって苦悩している。
誰もが当たり前にできていることができないことはハンデだ。
たとえば普段から本を読む僕にとって、本を読むことはなんでもない。けれども読書の習慣のない人からしたら「そんな分厚くて時の細かいものをどうして読み通せるのかわからない」という。
たとえば僕はいい加減ながらも勉強が好きで、特に苦にすることなく勉強ができる。けれども勉強ができない子は「そもそも何がわからないかわからない」と思考することすらそもそもしない。
たとえば僕は絵が描けない。絵がかける人のことをすごいというと、その人は「ひまがあると落書きしてるし、絵を描くことがとくにとくべつなことだとか感じたこともないなあ」といったようなことを言った。
人は、おそらく、当たり前にできることしかできない。
それでいいのだ。
できないことは自分でない誰かができる。
むつかしいことは頭のいい人が考えてくれる。
青いことは若い人がやってくれる。
老いることは老人たちがやってくれている。
走ることは足の速い人がやってくれる。
自分でぜんぶできる必要なんてないのだ。
そうはいっても、「おおくの人にとって不可能なことが、なぜだか当たり前にできてしまう」という幸運はめったにない。その幸運を人は才能と呼ぶ。才能は、努力では補えない。補えるはずがない。「なぜだか当たり前にできてしまう」ことは、まったく自然なことで、人の意志なんかとはなんの相関もないからだ。努力で伸びるのはもともと「ある程度できてしまう」ことだけだ。「なぜだかさっぱりできない」ことは、きっといつまで経っても何をしたって絶対にできない。
だから僕はこんなに細く長くきれいな指をしているのに、小2の時点でピアノの先生に「よっぽど向いていないのね」と言われてしまうしそもそも楽譜すら読めるようにならなかった。だから僕はどれだけ覚えるぞ覚えないとやばいぞと思っていても、あなたの顔も名前も所属もさっぱり覚えられないのです。

以上、あまりに遠回しでむだに壮大な言い訳でした。