2015.04.21

きのうからの春の嵐

気圧の上り下がりやら、気持ちが忙しなく、わけもなく切なくなる。

 

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さいきん疲れと、仕事ばかりの毎日で、特段ここに書くような雑感も浮かばず、ブログをさぼっていたけれど、忙しくはたらくまいにちはそう悪くはない。

 

とくにこの季節は、油断すると人といてもなにかを得て満足な状況にいても、おおきな喪失感やら焦りやら、ざわざわする気持ちになりがちだ。

忙しさはそれをつかの間忘れさせてくれるし、そうした気分を置いてけぼりにできるほど考えなければいけないことがあることはいいことだ。

 

きょうはおやすみで、きのうの夜から祖父母の家に遊びにいって、浴槽にゆっくり浸かりながらハーゲンダッツを食べたり、贅沢にからだを甘やかして、今朝も五度寝くらいして午前中遅くに起きた。

すっかり体が元気なぶん、きもちも元気よく暴れ回って、とにかくきょうはいちにち寂しくて仕方がなかった。

午後からは永い友人と鎌倉に海を見に行った。

白玉のおいしいお店に行って、ぶらぶらと遠回りをしながら、ようやく海に辿り着いて、日暮れどきまでぼけーとしていた。

浜辺では足許ばかり見ていた。

シーグラスをたくさん見つけた。

シーグラスを浜辺で見つけたことがないという友人は海の方ばかり見ていた。

みんな遠くばかり見る。

いつだったか、作ったお芝居を観てくれた誰かに言われた。

「あなたの作品を見ると、じっと後ろを振り返ったり、足許をみて立ちすくんだりしていて、そういう姿を見ると、そういうものを振り払って一生懸命前を向いて進んでいる自分は責められているような気持ちになる。」

だいたいそのようなことだったと思う。

うじうじ立ち止まったり、下ばかり向いて歩いていくのは、余裕がある証拠だと、僕自身でも気がついてはいた。

けれども、この1年、そうする余裕もなくなったくせに、いつまでもじっと立ちすくんで、下ばかり見て歩いている。そうすることでどんどん自分の苦しい状況に追い込まれていくさまを他人事のようにみていると、もう、これは性なのだと、しかたがないような気持ちになる。きっとこうして、じっと足許をみつめて、立ちすくんでいくのだろう。

いつか、そう遠くない未来、おおくのひとに置いていかれるかもしれない。

だめだ、やっぱりきょうはさみしくなる。

 

すっかり春ですね。

あたらしい環境にもようやく馴染んできて、どっと湧いた疲れも乗り越えて、ようやく1年が始まるような気持ちがする。

 

今晩は早く寝よう。