2015.04.24-25

ふと、思い立って、これまで両親とやり取りしたメールを見返してみた。
移動の電車の中で思わずじんわり涙をためて、我ながらしょうもない。
この人生はもう、返しきれないほどの愛で溢れている、そう思い知る。
なんともおセンチなことである。

「誰が言おうがよい言葉はそれ自体がよいものであり、最低の人間が最高の音楽を生み出しうるのと同じく、凡庸で低俗なおやじでも非常に的確で示唆に富んだ話を語り得ること、つまりよい話は語り手の人格とは無関係に良いものだ、ということくらいは、ときどき分かるようになってきた。」

この言葉にたどり着くために、ぼくはあと何年、自分のことばかりに必死であるのだろう。

誰かといても、なにをしても、自分が拡張されていくばかりで、ちっとも自分から離れられないような気持ちがする。
それがたまらなくもどかしい。

もう、自分のために生きていくことには飽きた。
誰かのために捧げたい。
何かのために捧げたい。
けれどもきっと、そのためには、誰よりも深く自分を愛さなくちゃいけないのだろうな。
嫌いな人の金言や、許せない人の善行を、その言葉や行動そのものに純粋に感服できるだけの、余裕のある強靭な自己が。
誰になにを言われようとも、ブレないで自分を持っていられる人こそが、柔軟なままであれる。
根拠のない自信だけはあった若造の僕は、柔軟さだけは誰にも負けていなかった。
いま、大人になって、いろいろな人の様々な正しさを理解できるようになって、そのせいで、もとからなかった根拠をさらになくしたような気になって、自信はどんどんなくなって、そのぶんうんと優しくもなったが優しくできなくなるくらい臆病になってもしまった。かたくなにならなくては、折れてしまいそうで。まったく情けない。いつだかは、ばかみたいにしなやかに、どれだけ曲がりくねっても、けっして折れそうになかったのに。あのころの傲慢さを取り戻したいと思う。誰よりも「正しく」しなやかにありたいと思う。いまからできるだろうか。いまは、もう、きっと根拠が必要だ。根拠のない自信を失ってしまって、自信を持つにたる根拠を必死に身につける季節に来ているのだろう。次に自信を取り戻したとき、自分史上これまで類を見ない、しなやかさとやさしさが、柔らかさと軽さが、そこにあることを祈る。
自分をあっさり手放せるほどに、強烈なナルシシズムを持ちたい。

柔軟に、軽薄に、こどものような大人になっていきたい。
こども以上に自信満々の、鼻持ちならない大人になりたい。

ちゃんと傷つき恥をかき、汗もちょっとはかきながらでないと、それはできないのだろうか。
いやだな、でもそうなら、やっても良いような気もしてきている。

母のいつかのブログには、こんな詩が引用されていた。

   あなたの子どもは あなたの子どもではない
 子どもは「生命」の渇望からの子どもである
 子どもは あなたを通ってくる
 子どもは あなたと共にある
 しかし 子どもは あなたのものではない

 あなたは 子どもに愛を与えることが出来る
 しかし 考えを与えることは出来ない
 子どもは 自分の考えをもっているのだから
 あなたは 子どもの体を 動かしてやれる
 しかし 子どもの心は 動かせない

 子どもは 明日の家に生きている
 あなたは それを訪ねることも 見ることもできない
 あなたは あなたの子どもを 
 思い通りにしようとしてはいけない
 人生は 後ろに退き 
 昨日にとどまるものではないのだから

 あなたは 弓である
 そして あなたの子どもらは 
 生きた矢としてあなたの手から放たれる

 弓をひくあなたの手にこそ 喜びあれと

中東の詩人カーリル・ギブランの『あなたの子供は』

霜田静志訳


これもまた、手放すためには自信が必要という歌なようにも思える。
手放すのは勇気のいることだ。
それでもいい、とつよがれるほどに、自負するものが、ほしい。
手放せるということは、つよい愛だぜ。たぶん。