2015.04.30

休みの日に祖父母の家の二階で窓の桟にクッションを強いて腰を掛けて、3年ぶりくらいに『タオのプーさん』を読み返す。
 
小学校の頃、三周りくらい年上の好きな友達に「…ちゃんはタオイズムだからね」と愉快そうに言われたその時から、この本は伴侶のような本で、そういう生活の支えとなるような本がいつつあるかということは、親友と呼ぶのも陳腐に思えるくらい大事だと思える友達が何人いるかということと、同じくらい、もしくはそれ以上に大切なことだ。
友人はいつか、もしかしたら僕よりも先に死ぬけれど、本はうっかりすれば僕の孫よりも長生きをする。
 
風を浴びて、だんだんと雲が流れて陽が出てくるのを感じながら、この大切な本を読み終えた。
階下からは昼ご飯ができた、食べに降りてこいと呼ぶ祖母の声がする。
この呼びかけはもうこのころには三度目に達する。
 
さてはて、あるがまま、がんばりすぎず、なるようになっていくさまに身をゆだねる。
そういう風に生きてきたし、去年一年試してみて、やっぱりそういう風にしか生きていけないと痛感した。
「それでも、このまま向いていない会社生活を続けていくべきかしら」、そんなことを、また考えてみる。
 
「人生をやり直せるなら」だとか「タイムマシンがあるなら戻りたい地点」みたいな、ありふれている思考実験のたびに、「とても面倒くさくて、どんなときにも戻りたくない」と思うのだけど、それは現状に不満こそあれそこそこ満足しているからで、しかもいまいるここが、あまりにも多くの偶然や気まぐれによって、たまたま無事に渡り切ってこれた綱渡りの結果であると思い知っているからこそ、そう思うのだった。
ほんのささいなボタンの掛け違いのおかげで、いまこうしてある。
振り返ってみると「あのときあんなことをやらかさなかったら今の自分はあるまい」「いまとなっては欠かせないあれは、あのとき気まぐれにあんなことをしなかったら出会っていなかった」ということばかりで、そのことに気が付くたびに、運命、なんて大げさな言葉は使わないけれど、いま、自分はここにあるべくしてあるのだという気持ちになる。
なるべくして、大きな流れの中でここにある。
うまくここに収まっているのは、自分がその大きな流れの中で、へんに力んだり、理性だとか論理だとか感情みたいなものをたてに逆らおうとしなかったからに他ならない。
きっかけを振り返ると、恐ろしいほど分別に欠いた行動であったり、自分でもわけのわからない突然の思い付きであったり、しょうもない恋心からくる見栄や知ったかぶりであったり、そういうところからしか始まっておらず、必然と呼ぶにはあまりに危なっかしいそれらによって、なんだかんだ導かれるように、ここまで整合性を保ったストーリーをたどってきたことは、ほんとうに驚くべきことだ。
 
就職して、人生は自分で切り開くものだ、みたいな勘違いをしてついつい力が入ってしまった。
自分の意思なんて、自分の生活において何の役にも立たないというのに。
何も、というのは言い過ぎかもしれない。たとえば意志の力は、コマーシャルに切り替わるまでトイレを我慢する、くらいのことは成し遂げられる。けれども、やっぱりその程度だ。
それを見失っていたころは、つまりこのブログを始めた頃は、仕事に追い詰められてーーより精確に言おう。己の仕事のできなさに落ち込み、職場でのコミュニケーション不全に消耗してーー、塞ぎ込んでいた。
いまは環境が変わって比較的ましになったけれど、外的環境が劇的に変わろうとも自分はそう簡単には変われず、あいかわらず仕事のできないとろくさいやつのままだ。
だからこそ余計に「このまま向いていない会社生活を続けていくべきかしら」というような考えが浮かぶ。
 
ともかく、いま、また平常心を取り戻してきて思い出したのは、ここまでだらだら書いてきたようなことだった。
なんだかんだ二周りちかく生きてきて、ずっと持ち続けてきた生活哲学のひとつが「自分の意思なんかたいしたことない」というものだ。
「意志でどうにかなるようなことはない」と言ってもよい。
ものごとは意志や心がけではなく、たままたまそこにいあわせていたかどうかで決まる。
だから、いまの会社にいることは、なるようになった結果に過ぎない。いまはともかくここにいる。
就活とかがあったせいで、うっかりいまの会社は自分の意思で入ったように思えてしまって、それゆえに苦しかったこともあるけれど、よくよく考えてみるとそれは怪しい。
ここにしようと決めた時の気まぐれや思い付きは、いま思うとあんまりぴんと来なかったりするし、いっときの気の迷いであったとすら思うからだ。
そして、これまでも自分の居場所に導いてきたものは、そうした根拠薄弱ないっときの熱に浮かされたような気分であったのだから、今回だけがいい加減だということではなく、いつだっていい加減なのだ。よかった。いまもいつもどおりだ。
論理的でしっかりと思慮深い意志に基づいて選んだわけではないから、いまの会社にいるのもいつものとおり、たまたまだ。たまたまでしかない。
なんとなく、いなくなるようなときが来る気がしているけれど、それはそのときになったらなんでもなく次に移るのだろう。
とくにきっかけも、それっぽい動機もないいまは、だからやっぱりこの会社にいるだろう。
まだほかの熱に浮かされていない。
これがひとつめの「会社にとどまる理由」だ。
 
ふたつめは、いまいる会社は大きい。
部署がたくさんあって、春から異動してみて実感したけれど、ほんとに部署ごとにまるきり違う会社のようだ。
大きいゆえにつまらないことも、「21世紀にこのていたらくかよ」とあきれることも多いけれど、なにより苦手な昭和スポ根体育会系な風土に吐きそうにもなるけれど、向いてないと思ったら転職の前に異動を考えればいいというのはなかなかに安心なことだ。
辞めなくても新天地への幻想を抱けるというのは、就職するまで考えもしなかったことだけれど、大きな会社に入るメリットだろう。
僕はとんでもなく気分屋で飽き性なので、いつまでどこでなにをやっているかがよくわからない、という企業生活は性に合っている。
これはみっつめの理由にも通じるかもしれない。
 
みっつめの理由。
僕は自分で事業を始めようと思えるほど、仕事をするのが好きではない。
わが生活とはすなわち仕事である、みたいなのをカッコいいなとは思いつつ、自分とは関係のない人たちの価値観であると思う。
そりゃ自分で舵を取っていくのは楽しいだろうし、はたらきがいが生きがいになるような生活は充実感もあるだろう。
もしかしたらなにかのキッカケで自分もそうなっていくかもしれない予感もある。
ただ、いまはそんな気ままに社会に漕ぎ出していくバイタリティはないし、あったとしても本や映画や音楽や、そうしたものを愛でることに使いたい。
働くことよりも遊ぶことが好きだ。ずっと好きだ。
だからはたらくことまで自分の責任で選び取りたくない。
小学校のころから対抗文化が大好きで、なにかと反権力を掲げたがって来たけれど、そういう気分全盛の中学のころから、いまの会社生活に至るまで、僕はほぼ皆勤賞でやってきた。
内心ぶつくさ文句を垂れながら、そして偉そうな人たちへの反抗心を燃やしながらも、からだも壊さず、なんだかんだそうした組織の内側にじっと居座っていた。
僕は僕を守ってくれるコミュニティを心底バカにして憎みつつも、そうしたコミュニティが自分の安心に欠かせないことも知っているからそこから出ていくこともしないできた。
典型的なフリーライダー気質なのだ。
僕は群れの中のできそこないでいたい。迫害されない程度の役立たずでいたい。
窓際に追いやられてそこそこの恩恵を受けつつ、自分の好きなように生きていたい。
すべて自分の裁量で自分を生かしていく自由よりも、どこかの群れに寄生して、生存については安心しきったうえで掠め取った束の間の自由を生き切る。そういう不自由のほうが、なんだかんだお得じゃあないか。権力は嫌いだけど、べつにそこまで青筋立てて反抗するほどの興味はないし。
おもいきり安心して遊びほうけるために、いい加減なかんじにおとなしく群れに還元されておこう。
そういうふうな、あんまりにてきとうで、いい加減で、意志も意欲もないスタンスでいるから、きっとぼくはどこにいっても出世はしないし、どこにいってもかわらない。
どこにいても不満たらたらで過ごしつつ、与えられた束の間の自由に悠々と羽を伸ばし、なんでもなく超然とした気分で日向ぼっこに興じるだろう。
生活に占める会社のウエイトがうんと重くなって、そのくせ仕事を遊びのように面白がれることもなければ、ぼくはそのとき会社を辞めるだろうけれど、たぶんそのころには仕事のことをいい暇つぶしや気晴らしくらいに思える程度には、おもしろがり方を見つけていそうな気もしている。
ちょっとした付き合いや、レクリエーションのように仕事をして、休みの日は好き勝手遊びほうける。
それはとても理想の生活の姿であるし、それを実現できそうなのはやっぱりほかのところよりもいまのところだろう。
 
 
はたらくことは生きること、なんてことは僕には理解できない。
生きるために仕方なくするのが仕事だ。
生活を守るためにするのが仕事であって、もしくは生活をより面白くするためにあるのが仕事であって、仕事のために生活があるわけではない。
仕事のために生活をささげるようなことになったら、辞めてしまうほかないかもしれない。
このバランスが崩れない限りは、僕は今のところでいい加減にやっていくだろう。
休日出勤やサービス残業を繰り返す上司の姿を見ていると、このバランスの崩れるのはそう遠くない未来かもしれない、とも思うけれど、それでもほかの会社ならそういうことはないのかだとか、自分で好きなように仕事を始めたら不満はなくなるのかだとか、そういうことを考えてみると、今回だらだら書いてみた理由のどれかに思い当たって、「まあ、めんどくさいし、ここにいよう」と思うのだった。
あまったれるな、という声が聞こえてくるようだ。
けれども、一度きりの人生、おいしいとこどりしないでどうする。
お行儀よくストイックに生きていたって、べつにご褒美なんてないぜ。
ずるく、てきとうに、いまのところに居座っちゃる。
 
そんなことを思うのでした。
それでいて、ふと、いまの会社にいられなくなることを夢想してしまう。
いまのぼくのスタンスは、会社が傾いたら真っ先に切られるであろう働き方である。そうなったときは、自分の好きなようにはたらいてみよう。
自分で人生の舵を切ってみよう。思いっきりリスクを取ろう。怖いけれど、きっと楽しいぞ。生きてるって感じが、いまよりずっとするかもしれない。
なんて益体もないことを妄想してしまう。
自分から去る気はないけれど、出ていかざるを得なくなったら、もしかしたら意気揚々と出ていくかもしれないな、なんてことを。
 
ここまで書いてみて、やっぱり自分はまだしばらくは辞めずにへらへら過ごしていきそうだなあと思うのと同時に、「定年後は趣味の店を」なんてことを実現する気もそこまでないくせに無邪気に想う、凡庸なサラリーマンの仲間入りを、いつのまにか果たしていることに気が付いて、凡庸な社会人二年目は苦笑を禁じ得ないのでした。
 
今晩は、好きだった同期、先月いっぱいで辞めてしまった同期を送る、ささやかな会に顔を出す。
参加者は同期全体の1割にも満たない人数で、でも僕が仲良くできそうだと思う同期はその数よりももっと少ないのだった。
こんなことをだらだら書き連ねてしまったのは、そのせいだろうか。
まったく、春めいていやがること。