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2015.02.05-7 ここ数日考えていること

先日母と、母の日の先取りだとしてデートをした。

それは素晴らしいデートだったけれど、わざわざそれを書くのは野暮というものだ。

昨日からながいなだの『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』という本を読んでいる。さいきん、親になることについて、なんとなく考えるようになってきていて、親と子の、自然にアンバランスな関係について、ぼんやりと考えている。

 

僕は僕の両親は世界で最高の両親だと思っている。

それも、ワイドショーでマイルドヤンキーが「うちのかーちゃんは、色々迷惑もかけたけど、やっぱり最高のかーちゃんっす」みたいな、アホ丸出しの自己愛でのうのうと言いのけてしまえるような、都合のいいおべっかではない。

僕の両親は、ほぼ、完全無欠だった。

永い子供時代、すべてにわたって、あのふたりが僕の宗教だった。

僕はふたりの感情的に口論する様を見たことがない。僕はしばしば寒空の下ベランダに締め出されたりひどい仕打ちも受けたが男児のしつけは犬の調教と同じようなものなので多少の荒っぽさは仕方がない。犬畜生相手に人間様の倫理観を適用しても仕方がない。

ただし、人間の男児はいくらアホでそのときは犬であっても、やっぱりいつかは人間である。

ただ愛玩動物として扱っていてはいつまでも犬みたいなまま人間みたいになってしまうし、犬だと思ってずさんに扱い、愛というものを忍耐や憤りそして諦念が生む幻想だとあまりにはやく気が付かせてしまうと、自らが動物であることをすっかり忘れたもっともアホな人間になってしまう。

ともかく、僕の両親は僕に対してほとんど、ギブとテイクの支配する、仕事のような人間関係を、困ったらとりあえずヒステリックに相手を責めるような、安易な駆け引きを、決して僕に見せなかった。僕は愛をディズニーではなく、両親から教わった。彼らの僕への愛は、「めでたしめでたし」のあとに僕らが夢見るものそのものだった。

それは僕がいわれなくてもものわかりのいい器用な「いいこ」だったからでもあるのだけど、それはまた別の話。

 

とにかく、今振り返ってみても、親との関係でトラウマと呼べるものがひとつしかない。

そう、ひとつある。

ながいなだの著作を引き合いに出して言うならば、僕の両親にとって権威と権力は矛盾なくひとつだった。ここでいう権威とは「自発的にいうことをきこうと思わせる力」、権力は「有無を言わさずいうことをきくことを強制する力」のことだ。

ながいなだの著作では権威にふさわしくない個人が権威ある地位についたとき、その個人の権威に依存していた組織は求心力を失いまとまりを失う。そのときはじめて強制力のある権力が必要となる。そのように論じられている。

僕は子供の頃からこの権威に対しては病的なまでに素直だった。

自分が権威を認めた相手に対しては、盲目的に「いいこ」だった。

対して権威なきところには無情だった。

権威と乖離した権力にたいしては徹底的に抗った。

だから僕は尊敬する個人、両親に対しては「いいこ」だったが、それ以外の学校や習い事の場に対してはもうものすごく「めんどくさくて嫌な奴」だった。

僕のトラウマは、母の背後に、権力を感じたというものだ。

それは次のようなエピソードだ。

 

✳︎

 

小学生低学年のとき、国語の授業で小説を読んだ。

よくある戦争もので、それは筆者が、幼いころの自分とその母親との関係を回顧する形をとったものだった。そもそも、年寄り物書き連中が戦争を「回顧する」形でしか書いてこなかったことは、さっさと「過去」という他者性をひっつけて好き勝手書き散らかすための、まったく許しがたい書き手の怠惰だと思うのだけれど、それはまた別の話。

とにかく、その小説になかにこういうシーンがあった。

戦況が悪化し、食料の配給もままならないなか、ついに出征する父を見送る母は目一杯のおむすびを父に持たせて涙をこらえながら父を乗せた列車を見送る。もうおむすびは小さいものがふたつ、母と幼い筆者のぶんが残されただけだった。母とふたり駅のホームに残された筆者は心細さと空腹からわんわんと泣き出す。母がおむすびを与えても、いくらあやしても泣き止まない。ふたりとも、ここ何日もお米を食べておらず、疲弊しきっていた。父の出征のために、やっとの事で手に入れたおむすびだったのだ。泣き止まない筆者のために、母は自分のぶんのおむすびも息子に食べさせてやるのだった。

授業では「このとき筆者とその母親の気持ちを考えましょう」という設問があって、あてられた人たちが教科書の後ろの方にある解答例を盗み見ながらノートに書き写した「解答」を答えていく。

「お父さんがいなくなって心細い」

「これだけしか食べさせてあげられなくてごめんね」

そんななか母じゅが書いていたのが確かこんな感じだ。

息子の気持ち「わーーーん。わーーーーーん。お腹が空いたよォォォォォォ。これじゃ足りねえよォォォォォォォォ」

母の気持ち「ちっくしょう。こいつが泣き出しやがったせいでおむすび食べれなかったじゃねえかよォォォォォォ。ムカつくわーーーーー。こんなガキいなければよかったのにィィイィィィ。腹減ったァァァァァァ。」

無駄にハイテンションで、図らずも当時まだ読んでいなかったジョジョみたいな台詞回しなのが、小学生低学年ならではの低脳さをよく表していると思う。

ともかく僕はこの「解答」を、この文章の孕むテンションを忠実に再現して発表した。教室は大爆笑だった。一部の女子と先生を除いて。

先生は、「ほんとうに、そう思うの」と言った。

「え、はい」と僕は答えた。

 

その夜、僕は母の寝室に呼び出された。母は僕の国語のノートを持ってベッドに腰掛けていた。

僕はその前の晩、母が寝室に父の引き出しから落語のカセットを探しといてあげると約束してくれていたので、おさがりのカセットプレーヤーを持ってうきうきしながら寝室へ向かった。

「そこに座りなさい」

なんとなく、しんとした声にはてと思いつつ、僕は仕事に行っていまは無人になっている父親のベッドのがわに腰掛けた。

「これはほんとうにあなたが書いたの」

母は僕の「解答」を指差しながら泣いていた。とても悲しそうだった。

「あなたは、こんな、優しい、だから、こんなこと書く子じゃないよね…?」

低脳だった僕はそれでもここでわんわんと泣き出して許しをこう程度にはもう人間だった。

母を悲しませてしまった。

それがただ悲しかった。

ふたりでわんわんと泣いて、泣き疲れたころに、「落語、きく?」と母は引き出しの奥から発掘してくれた、微かに埃の匂いがする父のカセットコレクションを僕に渡してくれた。

母がキッチンに立って、一人残された寝室で、僕はベソをかきながら落語を聞いた。たしか志ん朝の「箪笥」だった。それ以来しばらく、僕は、やたらセンチな戦争ものと、じじいの枯れた落語とを毛嫌いするようになった。

落語を好きになり直すのはそれから四五年後、『タイガー&ドラゴン』にはまるまで待たなくてはいけない。やたらセンチな戦争ものはいまでも大嫌いだ。

 

✳︎

 

これまで、このエピソードは、「あんなにも深く母を傷つけてしまった」というトラウマだと思っていた。

けれども前に書いたように、たぶんそれだけではない。

僕は、母の背後に、権力を感じたのがたまらなくショックだったのだ。

あんなにも気高く、権威のある母もまた、権力を盲目的に信じ込んでいる、ということがショックだったのだ。そんなことを、ここ数日で、なんとなく気が付いたのだった。

 

やたらハイテンションで残酷な台詞回しには、僕も僕のことながら想像力の欠如した低脳の極みだそりゃ母ちゃん泣くぞ、としか思えないけれど、じゃあいまおなじ質問をされても、「お腹空いたなあ」くらいのソフトな表現にはするだろうけれど、おなじことを書くだろう。

そもそもあのころはたぶんに八割方ただのウケ狙いで極端なことを言ってみたかっただけで、だれも本気でそんなこと思ってるわけないじゃん、という前提のもとにへらへらしてたら、ジョークがきつすぎて先生のような「ご立派な良識家」によって人格破綻者かのように母親に報告されてしまったわけだ。

 

僕は、母が僕自身よりもその「ご立派な良識家」を信用してしまったことが悲しかったんだと思う。

僕のジョークのセンスは最悪だったかもしれないけれど、僕が最悪じゃないことはだれよりもわかっていてくれていると思っていた。

 

僕は多分、そういう悲しさを感じていた。

 

戦争だろうが親子だろうが、空腹ってのは絶対にあって、親というのは子供にとっては宗教でもほんとうの神様じゃないから、腹も減るし自分じゃない自分の子供よりも自分の空腹の方が切実であることだってあるだろう。

それなのに、どんなに自分が辛くても、喜んで子供におむすびを差し出すべし、なんて、これがこの作品に潜む筆者や出題者ののエゴなのだと思うし、アホな牛だったころの僕もそれを感じ取っていたのだと思う。

「母」たるもの、かくあるべし、という権力。

アホな牛は思った。くそくらえ。僕もまったくそう思う。

いいか、「母」の内面なんてどうだっていいのだ。

空腹のあまりふと内心我が子を憎んでしまったとしても、それでも、子供におむすびをゆずってやるという行為は美しいままだ。

むしろ、そうした心情と行為の乖離にこそ、美しさがある。

それなのに、内面まで「母らしくあれ」なんて、「母」をなんだと思ってるんだ。都合のいいステレオタイプで、吐き気がする。

「母」だって、親だって他人なのだ。個人なのだ。役割についた名前なんてどうでもいい。何を為したかだけが問題で、何を思ったかは、言わない限り、どうでもいいのだ。「母」だって、ただひとりぼっちで飢えた個人なのだ。おむすびを食べれない恨みが、どれほどのものか。

いまこうして書いていて思い出したけれど、「なぜこんなことを書いたか」と追求する先生に、アホな僕は「食べ物の恨みは怖いですからね」ととぼけたのだった。それは真実だろう。

ともかく、母が母の権威的な行いの裏で、ぐっとこらえて決して言わないその正直な気持ちを、ウケ狙いでこそあれ、設問にしたがって答えてみせたとたんに、「良識に反する」と断罪されてしまったことが、どれだけ悲しかったか。

僕はもう、当たり前のように知っていたのだ。僕の母も、おなじようにおむすびを与えてくれるだろうと。

でも僕は、母が喜んでそうしてくれることなんか、ちっとも望んでいなかった。

僕は母が、「母」でなくても大好きだったからだ。

名前なんか、どうでもいい。僕でも母でもない誰かが名付けた地位なんか、心底どうでもいい。

母が「母」ゆえにする行為なんて、母の権威が「母たるものかくあるべし」という権力に回収されてしまう感じがして、いやだ。

「母」らしい行為なんて、求めちゃいない。

「母」であることも、べつにどうでもいい。

愛してくれたから、母なのだ。愛だけが、僕の母の権威だった。

「らしさ」なんて、外から権力的におしつけられたうすっぺらい「権威」に、僕の母の権威はない。

アホな牛の僕はおそらくこんなことまで感じていた。

だから母が泣きながら、僕に「母」としての権力的な「権威」を示したとき、僕はショックだったんだと思う。

僕は、たとえおむすびをふたつともひとりじめして食べてしまったとしても、母が好きなのに。

 

こうして書いていると、きっと僕の母はいくらかは僕が母の「息子」だから愛してくれたのだし、愛の根拠が外にある権力を介した権威にあることにも気がつくのだけど、それはまた別の話。

まとまらない文章が余計にとっ散らかってしまう。

 

ともかく無理矢理まとめよう、どんなものごとも、いま「どうしているか」が肝心で、「どう思ってるか」なんてどうでもいいってことだ。

 

僕にとって、母が最高の人物ならば、実は母がものすごくアホで牛並みの知性しか持っていなかったとしても、いつか殺したいやつのリストをこっそり書き溜めていたとしても、とても言えない恥ずかしい性癖を隠していたとしても、ほんとうは僕のことをそんなに好きじゃないとしても、関係がない。

なにがあっても、僕にとっては最高の母だ。

周りに分かりやすい「名前」も、「理由」も、「倫理」も必要ない。

そういうものじゃないのか?

 

うまくまとまらないので、半端にぶん投げておいてまたにする。

 

じゃあまたね。