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2015.02.08-11 ここ数日考えていること

前回の長いお喋りを続けようと思います。

おさらいとして、権威と権力の話を振り返るところからはじめます。

ここでは、権威を「自発的にいうことをきこうと思わせる力」、権力を「有無を言わさずいうことをきくことを強制する力」のこと、ということにしています。

 

関係性に名付けるということは、権力的な行為です。

僕は僕の母が好きだけれど、それは母個人のもつ権威ゆえに、好いているのであって、「母」という地位のもつ権力については、知ったことかという気持ちでいます。

それは母に限らず、自分は「先生」やら「専門家」やら「先輩」やら「社長」みたいな人たちに対するスタンスにも共通する者で、彼ら彼女らのついている「地位」それ自体がもつ権力なんかなんにも気にかけず、ただその日と個人が尊敬に値する人間かどうか、面白がるに足る人間かどうか、つまるところ「いうことをききたい・きいてやってもいい」と思わせてくるような人物かどうか、その人の権威ばかりを問題にして、ここまで過ごしてきたように思います。

 

就職してからいままで1年ちょっとのあいだ、ずっと頭を抱えて考え込んでいる“人とのコミュニケーションってこんなにむつかしかったっけ”という戸惑いの原因は、こんなところにもあるように思われます。

 

先ほど“権力なんか気にかけず、その人の権威だけを問題にしてきた”と書きましたが、これはすこし精確ではありません。“権力をうまく気にすることができない”というのがより正しいようです。

僕は、ひとと関係するとき、そこに権力関係を持ち込むことが、どうにも苦手なのです。

“この人は「上司」という地位にいる”“この人のいる地位よりも、こちらの人の方が上”“この人に対しては、こういう態度を取らなくてはいけない”などといった相関図を覚えることや気にすることが、かなしいくらいに苦手です。

これは幼稚園のころからずっとです。

たとえば、僕はずっと「友だち」というものが苦手でした。

そもそも「友だち」ってなんなのでしょう。

どこからが「友だち」で、どこからが「友だち」じゃないのでしょう。

きのうヨルタモリでも、フェイスブックの申請が許可されたりだとか、すれ違ったら挨拶するだとか、そんなのまで勘定に入れてちゃあっという間に100人超えちまうよ、なんて話が出ていましたが、ほんとにそのとおりだと思います。

「友だち」というのは、勘定の仕方によっては際限なく増えてもいきますし、またほんの一人だっていないような気持ちにもなります。

考えれば考えるほど、「友だち」というのはなんなのか、わからなくなります。

そして、ぼくはそもそも、関係性に名付けるという行為自体に、アレルギーを起こしてしまうのです。先にも書きましたが、関係性に名付けるということは、権力的な行為だからです。

たとえば一緒にいて楽しいと思えたり、安心した気持ちで過ごせたり、知らない世界を教えてもらえたり、そうした一緒にいる価値は、それだけでとてもいいものです。

わざわざそこに名前をつける必要があるでしょうか。

僕はそのひと個人に惹かれて、一緒にいるのです。

ぼくがそのひとと一緒にいる根拠は、そのひとの権威的なもの、つまり、そのひと自身の魅力やそのひととの相性にしかありません。

あえてそれを「友だち」やら「親友」やら「仲間」やら「恋人」やら名前を付けたがる気持ちはわからなくもありません。名付けることは、関係性を、僕とそのひとだけでなく、周囲に認知させることだからです。ふたりきりの曖昧な関係は不安定ではかなげに思えますが、みんなが“君たちはこういう関係だ”と認めてくれると、それだけでふたりの関係がより強固な者になったような気持ちになります。ただ、そんなの嘘なのです。関係性はいつだって、曖昧で、はかなげです。

むしろ、曖昧でどんどん変化していくものだからこそ、ひととの関係は面白いのです。

それを手前勝手に名前を付けて、固定して、いらない主従関係やら損得勘定まで持ち込んで、どんどん床ズレを起こしておいて挙げ句の果てには“この関係は間違いだった”なんて、愚の骨頂というほかありません。そもそもどんな関係にも正解なんてないのだし、不変であることだってないのです。どんな変化も乗り越えて、なるべくずっといたいという関係があるのなら、そこに名前を付けて、一面的な価値の上に固定させてしまうことは、少々博打が過ぎると言えるでしょう。

僕はどうしても、そういうふうに考えてしまうのです。

 

このように、アレルギーを起こして気にかけることができない権力関係を、けれども会社では気にかけないわけにはいかず、というよりそれを気にすることこそが仕事をするとうことですらあって、だから難しく感じるようです。

けれどもここで気がつくのは、これまでも無理に名前を付けたり、そこにこだわったりするときに限って、そのひととの関係がうまくいかなかったということです。対して、僕が一緒にいて居心地がいい人や、ずっとこうして関係が続くといいなと思える人は、僕にとってなんなのかと問われると、なんだかよくわからない、と答えたくなるような人ばかりな気もします。

もしかしたら“権力関係に気を配ることが仕事というもの”という決めつけは、僕が勝手にでっちあげた「権力」に縛られてしまっているだけかもしれません。

もともと権力というものは、権威のない人のいうことをきかせるための虚構でしかないのですから、自分でせっせとその虚構をつくりだして自縄自縛に陥っていてはしょうがありません。

 

思い返してみると職場で「できる人」というのはだいたい地位に関係なくなんだか自信に満ちています。

その自信は根拠がないこともしばしばですが、それでもなんだかその自信に権威を感じてしまって信頼してしまいます。根拠もなく権力を意に介さない振る舞いをする彼らが、結局は場を動かしていってしまいます。

そんなものなのか、とあっけなさに愕然としますが、案外、そんなものなのかもしれません。

これからは、あんまり色々気にしすぎないで、権力よりも権威に目を向けて、仕事をしていこうと思います。

これまでも、そうやってなんだかんだうまいことやってきたのですから。

 

結局は「この人とはどういう関係なのだろうか」だとか「この人はどんな人なのだろうか」と気にするよりも「この人といるとなんかいいな」と思い思われることを考えた方が、ずっとうまくいくのです。

わざわざ無理やり権力をでっちあげるなんてことをしていてはどんどん窮屈になってくたびれるだけです。

それだったら、その人のなかにそのつどそのつど権威を見つけ出す工夫をした方がいい。

「誰脳ことを訊かなくちゃいけないのか」と気にできない権力関係をがんばって気にかけるよりも、「この人の言うことならきいてやってもいい」という権威を、相手が自分に対して持ってくれるように、自分をよくみせる努力をするべきなのかもしれません。

 

権威というのはそのひとの人となりだけを根拠としますから、恐ろしいものです。

けれども、自分なりにやっていくしかないというのは、わかりやすくていい。

いつか自分の振る舞いが権威を帯びることを祈りつつ、相関図を描いたり、せっせと名付けててきぱきカテゴライズやラベリングを行うことのできない、非効率的で、どんくさいまま、自分のやれることだけを、自分でもやれる方法で、やっていくしかないのかもしれません。

 

人のことを気にすることは、あまりいい結果を生まないことはわかっていたつもりでしたが、一度「権力」に従順たろうと決めた場所で、改めて我が道をいくことは、勇気がいります。

だから何度も同じような決心をしてはくじけるのですが、懲りずにまた決心をするよりほかはないようです。

めんどくせ。

 

あしたは、ちょっとは仕事を面白く感じられたらいいな。

 

では、また。