2015.06.15

ここ一ヶ月ほど気持ちが忙しなくてブログもランニングもサボりがちだ。
書かないだけで思考力はみるみる減退するし、走らなかったせいでいまもうすでに体力のなさが生活に支障をきたすレベルで、そろそろ再開しないとまずいかもしれない。
そもそも忙しくてそれどころではない時こそ、無理やり続けていないとだめなのだ。
なんのために書く筋力と、体力とをつけるかって、こうして気忙しくわけもなく消耗するようなとき、バテずにちゃんとやり遂げるためなのだから、気ぜわしさに流されてサボって、結果気ぜわしさに立ち向かう気力も知力も体力も消耗していくのでは、まったく、いかんではないか。

さいきんは、いよいよ政治にも関心を持たないと良くない気がしてきたし、株とかああいうのにも興味がわいてきた。
政治もお金も生活の邪魔さえしなければどうだっていい、と思っていたのにずいぶんな変化だ。そのどちらもが、そろそろ生活の障壁として立ち現れる気配を感じ取っているのかもしれない。

iPadでこうして文章を打っていると、だんぜんキーボードの方がいいと思える。
スピードも正確さも圧倒的にキーボードの方がいい。
この前このブログは誤字だらけだと言われた。
カッコつけた文章もこうも誤字だらけだと格好がつかないと。
はずかしい。
OSをアップデートしてから、6年ものの純白MacBookは動かざること亀の如しで使い物にならない。いよいよ買い替えどきかもしれない。
さいきんイヤホンもびろびろに配線が飛び出してきてちょっと外では付けられないし、お金がかかるような必要はなぜだか重なってやってくる。
お金があるときはこんなに持っていても使い道がうまく想像できないや、なんて思ってついつい無駄遣いをする。ないときはこんなにも必要に溢れているのにどこに余るお金があるっていうんだ、という気持ちになる。
わかっていたって隣の芝は青いし思い出は鮮やかだ。
ここにないものはなんだって羨ましい。

こうして他愛もないことでも書いているとそわそわ落ち着けない気持ちがほんの少し凪いでくるようだから不思議だ。
書くことと走ることは、書いたり走る気になれないときこそやっぱり必要で、それはこころの穏やかさを取り戻す。
今夜は帰ったら走ろうかね。仕事でくたびれてるだろうけれど。
明日は雨みたいだしさ。