2015.07.25

上京した頃からともに歩んできた純白のMacBookちゃんがついに潰れた。いままでありがとう。さよなら。
たしか学割で8万円くらいで買ったこのMacちゃんは年老いてからは病気がちで、手術代がそろそろ元値をゆうに超える。
そう。もう潮時なのだ。おわかれだ。
さよならを言うことは、少し死ぬことだ。フィリップ・マーロウはそんなことを言った。僕のMacちゃんはほんとに死んだ。
うんともすんともいわず分厚いまな板と化したそれを和室にほったらかしにして一週間弱が過ぎた。
とく不便はないけれど、文章が書けない。まとまった文章を書くにはキーボードが欲しいのだ。
そういうわけでiPad用のキーボードを買った。これはその、打つたび安っぽい音のする、Bluetoothキーボードにて書き込まれている。
慣れるまでこれは大変やりにくい作業だ。
まったくもってやりきれない。
けれども道具はどうあれ文章を書かなくてはいけない。
書かないとどんどん醜くつまらなくなっていくから。
先日たいせつな友人に会って、 彼女はぼくの悪文をきれいだと言ってくれた。
書き続けていいと言ってくれた。だからというわけでもないけれど書く。
すこしでも、ましな自分を保つために。自分で自分に愛想を尽かさずにすむように。
書かないとどんどん醜くつまらなくなっていくから。

すぐおしゃかになる道具にぶつくさ文句を言いながら、タイプライターからMacに乗り換えたブコウスキーは晩年ブログじみた散文を書き散らかした。
ブコウスキーはその散文なかでこう書いている。
〝魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。 確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の速さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時。〟
書くことは、たとえば保坂和志も言うように、時間そのものなのだ。
文章は書いている時間、読んでいる時間の中にしかない。
音楽と同じく、文章とは時間芸術なのだ。
すこしでもおだやかな時間がここに流れているといい。
これが時間そのものだとして、そこに関わるものはなるべく少ないほうがいい。
体や道具など、必要最低限のフィルターだけを通して、なるべく純度の高い時間を象る。
そのためにも、文章をタイプする道具は便利であればあるほどいいのだ。
出力までの速さはそれだけで純度の高さを担保する。
ブコウスキーは正しい。
そんなことを思いながら、変換がしちめんどくさく、タイプの音が安っぽく、キー同士の間隔が絶妙に狭くミスタッチを誘発する、ばかみたいなBluetoothキーボードで、ぼくはこの文章を書いている。
ブコウスキーは便利さは文章の味方だとも言っているが、便利でなくてはいけないとは言っていない。
彼が言わんとしていることは、文章の質につかっている道具は本質的にまったく無関係だということ。
それだったら余計な手間暇をかけず、便利なほうがいいに決まっているということ。
まったくそのとおり。
このばかみたいなキーボードに体が順応するのが先か、冬のボーナスでMacちゃんを買い替えるのが先か、ともかく、こうしてまた書き始めている。