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2015.07.28-31

引越しからなんだかんだ一ヶ月が経とうとしている。
最初の半月はままごとというか、どこかで覚えた「生活」のまねごとみたいで、もろもろの書類手続きに追われていたのもあって、自分たちで暮らしているというよりもなにかに演じさせられているような、背伸びして身の丈に合わない服を着せられて服に着られているような、そんな日々が続いた。それはいちいち長いくせに息もつけない日々だった。
その後の半月はカッコが取れてようやく生活が始まって、あっというまに暮らしはなんでもなく暮らしになった。
格好がつかなくなったぶん、自分の嫌な部分もみえてくる。
わがままで視野が狭い、口下手なくそがき。
言わなくても分かるだろう、そんなのは常識、なんていう物言いはうそで、どんなに簡単そうなことでも言わないと伝わらないし、言っても伝わるとは限らない。エジソンは偉い人かどうか、そんなことすら言い切れない。相対化された世界で、なるべくましであろうとバランスをとって暮らしていくのはこんなにも心細く、むつかしい。
そう思い知ってきたはずなのに、油断をするとすぐに甘えが出る。
伝える責任を放棄して、わかるやつだけわかればいい、とただ気分を振りまく迷惑。
わかるやつなんざ、いないんだよ。
思えば人の目もはばからず不機嫌を隠さず表すなんて、いつからしていなかっただろう。
いや、これまでも、してはいたのだけど、こうも簡単に自分の状態に素直になれているのは、恥ずかしいし情けないのだけれども少し嬉しい。
自分がまだひとを信じ頼れるのだということが嬉しい。けれどもその信頼は手放しに褒められたものではないから難しい。
仕事のうえで、(円滑に仕事を進めるためにこのひととどう付き合っていこうかしら)というような形でひとの気持ちを慮ることはだんだんと覚えてきているけれど、そうではない、損得に還元しきれない気持ちのやり取りは今でもまだ下手くそだ。
大人というのは難しい。
自立していなければ簡単にひとの迷惑になる。かわいくもないからただひたすら迷惑だ。ひどい。
きちんと自分の足で立つこと。それは大人の最低限のたしなみ。誰かと関係するための条件。
自立したうえで上手に甘えられなければたいへんだ。あっというまにさみしいことになる。
さみしいのは苦しい。苦しいのにじっと耐え続けていられるほど、強い人間ではない。
苦しいと藁をも掴むような気持ちで他人にすがりつきがちだ。だいたいそのような場合、誰ひとり救われることはなく、温かな水底で息もできない。それはけっきょく苦しい。いつよりもさみしいからだ。
苦しくなく、楽ちんで、それでいて自分に対して後ろめたさを感じないで済むような、そんな生き方は、どんなだったっけ。
何者でもなくて、ただ正しくいられた十代の頃の自分の方がずっとカッコよかったし堂々としていた。
あのころむしゃくしゃとやりきれなく、欲しくて欲しくてたまらなかったものをだいたい手に入れて、今、ぼくは自分がつまらなくって、格好悪くて仕方がないような気持ちになる。
なんともマンションポエムのようなふわふわだるだるした文章だ。けったくそわるい。

ともかく、いくつになっても真剣にひとと関わること以上に面白いことなんて一つもないのだと思う。
面白いというのは、その何倍ものめんどくささとやりきれなさを隠し持っている。
隠しきれていない隠し味をとやかくいうよりも、どうやったら面白とおいしくつきあっていけるかを改めて考え直している。
マンションポエムのような気分と、四角四角な人生設計の必要を思うこととが、なんの矛盾もなく同居していて、それはつまり人と関わることはこころと計算とどちらも必要なものだから。
ひとはこころのために打算的になり、計画のなかにこころを宿すのだ。
一見相反する二つ以上の要素について、判断に迷う必要はない。
だいたいにおいて、どちらか、というようなことはなくて、けっきょく全部ひっくるめたのが現実なのだ。
どこにいてもどこかに偏る。だからこそ、落ち着いて、バランスを定めていく。
自分にとって、もっとも自分に誠実な場所を探っていく。
大切なことは、いつもこころで決めなさい。

自分にとってのいい塩梅というのがどういったものだったか、一息つきながら思い出す必要を感じる。
だからいつもより力んでこうして書いてみると、さっぱりだめだ。
おそらく2000字足らずのこんな日記を書き散らかすのに、4日もかけていやがる。
さいきんは難しい顔ばかりしがちでいけないや。
楽々悠々と、不敵にへらへらてきとうに、いい気持ちで生きていきたいものですね。
それだけのことのはずなんだけど。