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2015.08.05

14時41分。浜名湖SAを出る頃には高速バスは予定より35分遅れで運行していた。
道が混んでいたのか、どこかで一度なんらかのトラブルで停車していたようにも思うのだけど、乗車してすぐイヤホンを突っ込んで寝入っていたからくわしいことはさっぱりわからない。
乗車から5時間弱が過ぎてようやく気を取り直したから、遅めの昼食がわりにSAの売店で買った肉巻きおにぎりを食べる。売店のにいちゃんは汚い茶髪に気持ちのいい笑顔で、いちいち感じがよかった。そういえば今朝、バスに乗り込む前に寄った東京駅構内のマクドナルドのお姉さんも、怖いくらい感じがよかった。彼女のたしかに金銭には換算できそうもないとびきりの笑顔を前に、こちらもついついにこにこしてしまうほかなかった。たぶんマクドナルドのお姉さんは自分よりずいぶん年下だろう。それなのに、そつなく綺麗な女の人を見るとついつい「お姉さん」だと思ってしまう。この「お姉さん」と思う感覚のことを、もうなんべんも色々なところで話したり、書いたりしている気がしている。わかっていても書いてしまうし、そもそもこの感覚ははじめ保坂和志の文章で読んで、それで腑に落ちたのではなかったか。いやいや、保坂和志が俺と同じことを書いてる、となんとなく安心したような気持ちになって、それからいよいよしつこくこの感覚について言及するようになったのだとも思えてくる。どちらにせよ同じことだ。人の考えることはだいたい誰も彼も似通っている。ばらばらに生き、てんでべつべつの暮らしを過ごす人たちの考えが似通っているとうことは、ちょっとした救いなのだと思う。きっとTVもSNSもなんにもなくたって、人びとは時代の気分というものを知らず知らずのうちに体現してしまうものなのだと思う。個人の思考や思想といったものは、ちっとも個人のものではない。わたしたちは他者によって形づくられている。

何ひとつ自分のものではないというはなしを続けると、この文章だって、ぼくが書いているだけでぼくのものではない。ぼくのことばというのはない。ことばよるぼくだけがある。これは、ことばという物質によって語らされているに過ぎない。ことばはぼくのからだとは異質のいっこの物資であり、ぼくがそのあり方を規定するのではなく、ことばはことば自身としてことばを規定する。そこにぼくの介在する隙なんてないし、むしろことばによってぼくが規定されていく。さきほどの「お姉さん」という感覚だって、ことばという道具とぼくのからだとの間に生まれた違和なんだとも言える。なんのこっちゃ。

ともかくこの文章は、予定より到着が40分遅れそうな高速バスの硬くて狭い座席にじっとしながら、遅れのせいで到着後にみっちりと詰め込んでいた計画がだいなしになることへの苛立ちを紛らわすために書き始めたわけだけれど、ここまで書いてだいたいどうでも良くなった。というかもともと計画なんてどうでもいいのだ。どうせたんなる暇つぶしなんだから。
就職してから、綿密に立てた計画がつつがなく進行しないと苛立つ狭量と何度も出くわした。
計画通りいかないのは、そらあんたが計画を立てたからでしょう。最初のころは生まれつきの先を見越すという能力の欠如と、その欠如がもたらす底抜けの能天気さで、むしろそうした「計画好き」たちをこっそりばかにしていたものだったけれど、いつのまにやら、自分もすっかり余裕をなくしている。気がつくとインスタントなものばかり求めている。たとえばいちいちコーヒーを豆から挽くだとか、たとえば部屋の四隅を丁寧に掃除するだとか、洗濯物を綺麗にたたむだとか、お皿を一枚ずつみがくだとか、そうしたことをしているときに次になすことに考えを巡らしては焦ったり、苛立つことがある。ばかなんじゃないだろうか、と自分でも思う。いまここにないものにばかり考えを巡らして、いましていることに集中できないやつは、なにをしたって何も大事になんかできやしないのだ。
仕事はどうしたってそうしたばかばかしさが必要になってくる。だからといって日々の暮らしにまでそうした論理を持ち込む必要はないだろう。テキパキ順序立ててこなしていくことは楽しいけれど、うっかりそればかりになってしまうと怒りっぽい、つまらない人間になってしまう。怒りっぽいというのは臆病でめんどくさがりであるということだ。自分のものさしの他に世界を測る尺度があるなんてことを考え付きもしないひとや、めんどくさくて考えたくもないひとは、自分にとって不測の事態に対応できない。自分にないものを面白がる柔軟さに欠けるのだ。自分の考え得たことしか認めることのできないようなおかたい人間を、ぼくはこれまでばかとよんできた。仕事ばっかりしているとばかになっちゃう。
こういうことに改めて気がつけただけでも、高速バスが40分遅れ、予約した美容院がぱあになったかいがあるってものだ。心底、そう思うよ。ええ。ほんとうですとも。

ともかく、これからは気をつけて、丁寧にゆっくりコーヒーを淹れよう。家事をするとき、済ませたあとに残された睡眠時間を計算するのをやめよう。まったく、1日の大半を会社に取られてしまうと、ほんとうに気持ちの余裕なんてあっというまになくなっていく。だからこそ気をつけて、自分自身のことをなにより気にかけてやらないと、あっというまに他者への想像力をなくしたくそみたいなおっさんになってしまう。好きなひとたちや弱っているひとたちに優しくできる程度には、傲慢さと自己愛と能天気さを持ち続けていたい。時計と手帳に魂を売り渡すわけにはいかない。そう思ったのでした。

しかしまだつかないのかこののろまなバスは。
うまくいかないのが人生だというのなら、おれはそんなのごめんだね。
ものごとは、自分の思い通りになるほうがいいに決まってる。
きっとみんながみんなそう思ってるんだろうね。