2015.08.27

恋や革命、悪徳や退廃にそれほど心躍らなくなってからどれだけの時間が経っただろう。

テレビや音楽に踊らされることに自嘲まじりに気持ちよくなることがすくなくなってどれくらいだろう。

小学生のころ、40日ほどもある夏休みのうち30日は暇だった。

何もすることもなく、出かける気にもならず、部屋の隅にぼんやりと体を横たえて、陽に当たって浮かび上がる埃をぼんやりと眺めては、この部屋にはこんなにも埃が待っているのか、こんなところで呼吸をしていたら体に毒じゃないか、なんて不安になって、じっと息を止めてその埃を眺めていた。しばらくして息を止めることも忘れて、こっそりいかがわしいサイトを検索したり、なにごとか物思いに耽っているうちに、日が暮れていく。

もとから、僕にとってのデカダンなんていうのは全く華やかでも泥臭くもなかった。

ただいつ果てるとも知れない、だらだらんとした退屈があるだけだった。

上京してから、華々しかったり、ぐずぐずと湿っぽい退屈しのぎを覚えたのは、きっと、たださみしかったのだろう。

それまでだって、いまだって、ずっとさみしい。

けれども、いまはそのさみしさを弄ぶことができる。

上京以来これまではさみしさは立ち向かったり、見て見ぬ振りをしたり、必死に忘れるものだった。

今はさみしさは恋しいものだ。ふやけた毎日の中でふと思い出す甘いものだ。さみしさはたのしいたいくつ。

大人になってよかったと思うのは、たいくつをしていることが、自分のつまらなさを暴くようなものではなくなったこと。

いつだってつまらないからだ。

さみしいときだけ、いつもよりすこし面白い人間になれるような気がする。

ひとりになりたいからものを書く。

ものを書くのはさみしくなりたいからだ。

どこにも届きそうもない、そもそも届けたいのかどうかさえはっきりしない、ことばを弄びながら、他人みたいな文章をでっちあげる。

さいきんは、勉強したいな、と思う。

勉強をして、もっとましな人間になりたいという、あまりに子供じみた、そしてだからこそ根源的な欲望がむくむくと立ち上がってくる。

このままふやけた毎日を送っていると、いつしか、さみしさと戯れることも忘れてしまって、ほんとうに、いつまでもぼんやりとした頭で歳を取っていくだけなんではないかしら。

どんどん忘れっぽくなるし、気がつけばぼんやりしている。

あんなにうるさかった頭の中がいまではがらんと静かだ。

それはすこしほっとするし、それ以上にこわいことだ。

おしゃべりな頭の中こそが自分自身だと思っていた。

だとしたらこの空洞はなんだろう。

こうしてキーボードをいじくっていればまだなんとなく文字は起こせる。

中身は全くないけれど、それはこれまでもずっとそうだった。

勉強をしたいと思う。

べつに偉そうな誰かの言葉や考えをそれっぽく引用するような、飲み会の席で年寄りの垂れる訓示じみた文章が書きたい訳ではないけれど、このままでは、自分で自分のことを信用できなくなりそうだから。

自分の中に他者をたくさん抱えることはいいことだ。

自分の中にの他者の数が、世界の捉え方の可能性の幅そのものだ。

これまで寄り添ってきた本や映画、歴史や音楽がからっぽで凡庸な僕のことをすこしだけましな人間に見せてくれる。誰に見せているかって、それはもちろん僕自身にだ。他の人は関係ない。

いま、僕自身が閉じてきているのをひしひしと感じる。

このままではこれ以上の他者を自分の中に受け入れることができなくなるんじゃなかろうか。

そうなる前に、もっと、もっと勉強をしたい。

ことばを、寛容を、柔軟を、いいかげんさを、すっかり失う前に。

 

革命も退廃もただの娯楽。

毎日は非凡なまでに平々凡々。

やわらかくいいかげんに暮らしていきたいやね。