2015.11.27

(会社で。)

帰ってもうちのひとがいないと思うとそれだけで張り合いがなく、うっかり外に干しっぱなしの洗濯物のことをぼんやり思い出したりする。

今朝はいい天気で、溜まりにたまった洗濯をいっせいに片付けてしまうのは気持ちがよかった。

下着類をベランダに出さずに部屋干しにするくせがついた。
考えてみたら色々と勝手が変わった。
いまでは出かけるときは部屋の鍵を閉めるし、用を足すときトイレのドアを閉める。
すごいぞ。

(帰途で。)

運良く座れたのでいただいたおやつを頬張りながら帰ったら忘れずに洗濯物を取り込もうと考える。
きっととても冷たくなっていることだろう。
きょうも寒かった。

今日いただいたおやつはとても美味しくて、帰っても家にうちのひとがいないことを残念に思う。

美味しいものや、いい映画や、おもしろいツイートを見かけるたびにうちのひとに教えたくなる。
昔からそうだった。
チビの時分、好きになった音楽や俳優や小説を、聞かれてもいないのにまくしたてるように母や父にプレゼンをした。
そのプレゼン力たるやなかなかのものだった。
「おすそわけ」というのが、自分にとって大きな好意の表れであることはまちがいなく、今から老後が心配だ。
まだらぼけて自制を失ったら近所の子供達にまでお年玉を配りかねない。

(家で。)

洗濯物を取り込んで、作り置いてもらった晩ごはんを温めなおす。
ひとりにはすこし多そうだから余った分を明日のお弁当にしようと食べ進めていたらいつのまにか平らげてしまっていた。とてもおいしかった。
思わず「ごちそうさまでした」と声が出て、長い一人暮らしのあいだは独り言なんて出なかった。
独り言というのはほんとうにただ一人で発するものではなくて、そこにある誰かの気配に向かって発している。
この部屋にはうちのひとの気配がある。
親しい気配のなかでひとりでいることは気楽で、それでもやっぱり少しだけさみしい。

取り込んだ洗濯をたたむ気持ちが起きず、食器を洗ったあとただぼんやりとしている。