2016.05.21
某外国の奥さんエッセイ読んでて「日本のブカツとやらはおかしい!その道のプロになる訳でもない高校生が、レクリエーションの為に週に一回の休みがあるかないかまで毎日長時間拘束されて、軍隊か何かなの!?」って親戚に言われた時のトルコ人旦那さんの返しが「あれは俺らでいう兵役だから」で草
— 紺碧 (@Konpekin) 2016年5月21日
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幼稚園時代からいつだってずっと帰りたかった。
一秒でも早くお家に帰りたかった。
小学生のころ、帰りの会で先生の話がいつもよりちょっと長かったことに憤慨して話の途中で帰ろうとしたことがある。帰れたのかどうかは覚えていない。
中学生のころ、トイレでガムだかタバコがみつかったとかいう阿呆みたいな理由でクラス全員が居残りさせられての取り調べが行われるというので、授業が終わったらすぐ音もなく教室を抜け出してそのまま帰ったことがある。
高校生のころ、部活に精を出す同級生たちを心底ばかにしていた。わざわざ放課後にまで他人に管理された時間を生きることを良しとするなんてばかなのかと。
だから僕はチャイムと同時に駐輪所に駆け出し、ものすごい勢いで坂を下って家へと急いだ。帰ったら何かやることがあるというわけではない。学校は決して好きではなかったけれど、いるだけで息苦しくなるようなところでもなかった。帰る理由なんて、いつだってなかった。ただ、帰りたいから帰ったのだ。
そう。とにかく、ぼくはいつだって帰りたかった。
上のツイートを見かけたとき、そんなことを思い出した。
会社にいると、なんでそんなにみんな帰ろうとしないんだろう、という場面にいくつもいくつも出くわす。
無理してでも帰れよ。やる気あんのか。
そう思った。
けれども、部活のことを思い返して、気が付いたことがある。
もしかしたら、あの人たちは帰りたくなんてないのかもしれない。
あの人たちは、部活気分で仕事をしているのかもしれない。
そういえば、部活に精を出していた同級生はみな口を揃えて「帰っても何していいのかわからないし」と言った。
当時のぼくは「自分の時間すら他人に丸投げするなんておもしろくないやつらだ」くらいにしか思っていなかったけれど、そもそも彼らは「自分の時間」というものに魅力を感じていなかったんじゃないか。
彼らにとってたいくつで華のない「自分の時間」なんて、恥ずかしかったり、つらいものでしかなかったのかもしれない。そんな身のないものを大切にするよりも仲間とともに「自分たちの時間」をつくって、それを誇りに思い、大事にしていたのかもしれない。
これは気がつかなかったなあ。
2
学生のころ部活をして身についた「根性」のおかげでみんな無給でもへっちゃらで休日出勤や残業に励むのかな。
自分で自分を管理することに不安を覚え、誰かに管理してもらうことを求める。
そういう「奴隷根性」はみんな部活で教えてもらったのかしら。
そうじゃないんだろうな。「奴隷根性」は、きっとみんな持っているものなんだ。
それは思考停止への甘い誘惑だ。
こっちにきて言うことをお聞き。なにも考えなくっていいんだよ。
そんなこと言われたら、僕だって、けっこうぐっとくる。だいたいのことは決めてもらいたいし、なるべくなんにも考えたくない。考えすぎると頭が痛くなってくるんだもの。
うんうん、わかるわかる。どんどん意地悪な気持ちになってきた。
3
余計なことばかり言いそうなのでちょっと違ったふうに考えてみる。
学生のころみんなが部活に精を出していたのは「お家を大事にすると格好悪い」という、思春期らしい気分もあったのだと思う。
週末にジャスコでお母さんと一緒に買い物をしているところをクラスの誰かに見られたら死ぬほど恥ずかしい、というような。
ちなみに僕は家族より友達を大事にすることをダサいことだと決めていたので、休日はだいたい両親とジャスコやアピタに買い物に行って帰りは10キロのお米とか持つ係をやっていた。
そう、ここまで書き進めて気がついたけれど僕はひとつ大きなことを言い忘れていた。
部活にせよなんにせよ「お家以外に居場所がある」ということは救いにもなるということだ。家よりは部活の方がマシ、という家庭が僕の想像よりもうんとありふれていることは、よく知っている。けれどもそれは知識であって僕の実感ではない。実感できていないことについて書くことはよす。
僕の実感はただひとつ。この帰りたさだけだ。
この帰りたさは、生まれてこのかた自分で選択できないものごとによって苦しんだことのない甘ちゃんの甘ったれでしかないのかもしれない。
なんでもかんでも自分の思い通りになると思うなよ。
安心して帰れる家があるだけでありがたいと思え、という話なのかもしれない。
うるせえこのやろう、である。
甘えであろうと何だろうと、おれは帰るぞ。なんとしても帰ってやる。
この帰りたさだけが、おれの実感だからな。
これだけは、大きな声で言うことができるぞ。
おれは、帰りたいんだ。
4
なんでこんなに帰りたいのか、いちど冷静になって考えてみた方がいい。
なんてことを言いつつ、答えははじめのほうにさらっと書いてしまっていた。
ぼくは“他人に管理された時間を生きる”ことに対してつよい拒否反応を示すらしい。
なぜかって、ぼくは“他人に管理された時間”のなかで主体的にいきることがおそろしくヘタだからだ。“他人に管理された時間”のただなかで、ぼくは他人に管理されることしかできない。授業中に指されてもいないのに先生に向かって軽口を叩けるようなタイプの生徒じゃなかったのだ。
部活や会社に精を出すタイプの人間は、授業中に指されてもいないのに先生に向かって軽口を叩けるようなタイプだし、ひとが深刻そうに話し込んでいても構わず「おはよーございまーす!」とか元気に挨拶できちゃうタイプだ。決定的に管理下から転げ落ちるようなことはぜったいになく、じょうずに許される範囲内で自分のペースをもてる人たちなのだ。
ぼくにはできない。
管理されるのはよっぽど気を使う。
油断するとすぐコントロールの外にはみ出る。
自覚もないまま過激派扱い。
やたら目をつけられる。
ひどいや。
無自覚にうまくできること、どれほど神経をすり減らしてもうまくできないことというのがある。
多くのひとにできて、僕にできないのは、“管理されつつ我を通す”ということなのだ。
自分ができないことを、ほかのひとたちがなんでもなくやってのけるのを見せつけられるのはしんどい。
僕は“他人に管理された時間”が苦痛で仕方がないくせに、“他人に管理された時間”のただなかにいる自分をうまく管理できず、けっきょく誰よりも他人に自分を明け渡してしまっている。
自分の時間を他人に丸投げしているのは、ぼくのほうだった。
ただ勢いに任せていい加減に書き進めてきたけれど、きっとそういうことだったのだ。
そうか。
なんだかちょっと落ち込んできた。
どうしたら、会社で「いい子」に縮こまることをやめられるかなあ。
いや、さっさと帰ってる時点で「いい子」ではないのか。
袋小路に入り込んだようなので、きょうはここでおしまい。