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2016.06.10

まだ「子供」と呼ばれても違和感のなかったころから、過ぎた日々を思い出すのが好きだった。
寝る前のお茶の時間。そう、うちには寝る前に家族でお茶を飲む習慣があった。
そのときにあのときの誰それはこうだった。そのとき自分はこんなことを思っていた。
そんな話を次々に取り出しては、よくそんなこと覚えてるね、と言われるのがくすぐったくて好きだった。
なによりも食べ物のことをよく覚えていた。
多くの記憶は、その前後に食べたものと結びついていて、道の駅のおいしくない山菜そばは、そのあとに足を濡らした川の冷たさを連れてくる。
大きな石を積み上げて川の流れを分断して遊んだり、ぬるぬるした石で足を滑らせてひやりとしたり、そういう感覚は山菜そばによって蘇る。
勉強をしていて行き詰まると、角砂糖でも舐めておけば覚えられるんじゃない、と言われるほどに食べ物をきっかけに思い出されるエピソードは豊富だった。

さいきんは、ほとんど何も覚えていられない。
中学高校の記憶はほとんどない。
大学の頃の記憶もあやしい。
そもそも社会人になってからのことだってあぶない。
そういえば頭の中がずいぶん静かだ。
よく覚えていたころは、ずっと頭の中で喋り続けていた。
家族の前で自分の記憶を引き出すときだけ、そのお喋りが外に出てきていたのかもしれないとも思う。外に出ていないだけで、僕はいつでもうるさかった。
いつしか家族といる時間より、外にいることの方が多くなり、その分口数が減っていった。
一時期はそのぶんツイッターなんかに発散していたけれど、それすらしなくなった。
頭のなかの饒舌はすっかり消えて、いまでは自分がまともにものを考えているのかどうかさえあやしい。

年を重ねて、思い出すことが多くなったからかもしれない。
手札が少なければそのぶん素早くカードを切れる。
いまではそもそもどこになにをしまったのかさえ分からなくなっている。

意識的に、言葉に起こしていかないといけないと思う。
仕事にしても、遊びに行くときだって、感覚は感覚のままで立派な思考だけれども、言葉に起こさなければひとには伝わらない。伝わらないどころか、自分自身に出力されることさえないとまでいまは思う。
さいきん自分のことさえどこか他人事のようなのは、たぶん言葉が足りないせいだ。
自分というのも他人だから、ちゃんと言葉で「いまはこういうことを感じているんだよ。考えているんだよ」と言い聞かせてあげないと、どんどんよそよそしくなってくる。

あたまのなかにお喋りを取り戻そう。
できるだろうか。
あたまのなかだけではできなくなるから、書くのかもしれない。