2016.07.31

夥しいヴァリエーションでぼくら若輩者を追い込む「昔はよかった」という言説のひとつに、
近所のおっかないおじさんの存在というのがある。

近所のおっかないおじさんは、よそのうちの子供だって平気で叱り飛ばす。
そうしたおっさんたちは、家庭や学校の内輪のルールやしがらみとはまた別の「世間」を教えてくれる大事な存在だったんじゃないか。
おっかないおっさんの不在は、子供たちを家や学校のなかに閉じこもりきりにして、世間に通さなきゃいけない義理を教わる機会がなくなってしまった。お、いたわしや現代社会。

以上のような言説は、数年前まで耳にタコができるほどありふれていたように思う。
僕はそうしたおっさんが幅を利かせなくなったいまは、昔と比べてなんていい時代になったんだろうと思う。

自分を律する品性を司る脳の器官は他よりも早死にのようで、年を食うと多くの人は自身の狭量を隠しておくことができなくなるらしい。
いまでも電車なんかでは若いもんに大きな声で文句を垂れたくてしょうがないじじいと出くわすことがある。さみしいんだと思う。

自分のさみしさをまぎらわすために不機嫌をほうぼうに垂れ流すのは、みっともないことだよ。
みっともないし、許されちゃいけないことだ。

銀座線のホーム、白線の内側でポケモンGOに興じるサラリーマンを、通行の邪魔だと怒鳴りつけるじじいをみて、そんなことを思った。
ああいうじじいが町々の道角にありふれていたという「昔」を思うとぞっとする。

他人のあり方に平気で口を出してくる下品は、近所のおっかないおじさんがなりをひそめた今も、残念ながらありふれている。
みんな、他人に興味関心を持ちすぎなのだ。
ぼくが「人が好き」「仲間」「コミュニケーション第一」みたいな物言いが大嫌いなのは、そうした見境のない他人への興味関心は人を「お局」のようにするからだ。
ひとは誰かに興味を持つと、いつの間にやらその誰かのあり方に口を出すようになる。
「あなたのためなのよ」「みんなが迷惑しているの」なんて言いながら、そこに「あなた」も「みんな」もいなくて、ただ「あなたに興味を持った私の気に入るようなあなたであってほしい」という気味の悪い欲望だけがある。
他人に興味を抱き、他人のあり方に自身の欲望を投影してしまうのはやはりさみしいからなんだと思う。
けれどもさみしさは、他人を侵していい理由には決してならない。

「多様性は、隣人への無関心によって保たれる。」
きのうツイッターにそんなことを書いたら奥さんにふぁぼられた。
そう。ぼくももっと気をつけなくちゃいけない。
うっかりすると、奥さんの関心のぜんぶに関心を持ちたくなってしまう。
でも、興味のないことはそのままにしておいたほうがいいのだ。
一緒にやってみるのは、興味の湧いたことだけで十分。

近所のおっかないおじさんの下品は、町からだいぶ追い出されたようだけれど、家族や友達など、身内から受ける下品はまだまだ根強く許されている。
許していてはいけない。
家族というのは、最も近しい他人のことなのだから。
他人の言動に向けた「あなたのため」という戒めは、「自分の思いどおりであれ」というエゴに他ならない。
他人は思い通りにならないから他人なのだ。
思い通りにならないままに、放っておくのがいい。
互いに決して交わらない側面を「これも自分」と大事に抱えながら、相手とまったく違っていることを悪びれず、ただ一緒にいられればいい。

SNSを駆使した個人がそれぞれ勝手にビッグブラザーを演じてますます息苦しい空気の中で、
ぼくは無関心をもてはやそうと思う。