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2017.05.05

懲りずにのろけ話をします。

こころの繋がりなんて嘘だ。
奥さんの心はわからない。
だからと言って体が全部、なんていう日活ロマンポルノ調の偽悪的ポーズを決めるのも嘘だ。
こころでも体でも、人は人と繋がれっこないのだから。

人との関わりは、理解だとか、触れ合いだとか、そういうものではない。
他人どうし、決して分かり合えないし、触れることなどできやしない。
そこにいる者どうし、他人と他人のあいだに生まれるあわい。
関係というのは、他人と他人の「あいだ」のことなのだ。

「あいだ」に立ち現れるものはさまざまだ。
緊張だったり、停滞だったり、安心だったりする。
だいたいの「あいだ」の様子はうまく言葉で言い表せない。

奥さんと僕との結婚はすごくいい。
それは奥さんと僕との「あいだ」の具合が「なんかいい」ということだ。

たとえば恋人だったら、「あいだ」には緊張があったほうが刺激的だしセクシーだ。
けれどもまいにちを過ごすには緊張ばかりじゃくたびれてしまう。
周りを見ていると、連れ添う人との「あいだ」に緊張を求める人は多い。
「結婚してもドキドキしていたい」なんていうのがそれで、
ドキドキするとは動悸がするということだ。
動悸は緊張によって引き起こされる。

僕は最近、そういうお互いの鼓動のリズムを乱し合うような、
駆け引きみたいなものを楽しむことが無理になってきた。
ただでさえ不整脈気味なので、できるだけ大人しくしていたい。
一つも脈打たなければものすごく安定するだろうけれど、それはもう死んでる。

奥さんと僕との「あいだ」に緊張がないわけじゃない。
けれども、それだけじゃないし、マンネリなわけでも、
安心しきってるわけでもないし、なんとも言えない。

なんとも言えないけれど、最高に「なんかいい」のだ。

たまたま奥さんと僕との「あいだ」が、お互いにとってそうだっただけのことで、
この「なんかいい」には、こころも体もあんまり関係ないような気がしている。

初対面ですでに「この人とは合わないな」と直感するのと同じことなのだと思う。
僕はふつうに過ごしていると「この人とは合わないな」ということばかりだ。
だからこそ余計に奥さんといるのが好きなのかもしれない。

最近は、奥さんとは別の種類の「なんかいいな」を「あいだ」に感じることのできる数少ない友達との遊びに、奥さんを連れていくことが増えて、それがとても嬉しい。「なんかいい」人たちといると、自分の「なんかいいセンサー」のハードルがぐんと下がるのを感じる。そうなってくるともう、みんな「なんかいい」ように見えてくるから調子がいい。

この「なんかよさ」をいちいち小分けにして考えていくのは
べつに誰も得しないし、僕自身興味がないのできょうはここでおしまい。

だいたいのことは、「なんかいい」でじゅうぶん。