2017.06.15

梅雨入りしてから二三日はもう最低に絶不調だったのだけど、
それからは雨も少なく夜涼しく、気分のいい日が続いているようだ。

楽しいことや怒ったことなど、あったようだけれど相変わらずこのブログでは
タイトルを日付にしているくせに日記のように書くわけでもなく
かといって動員が増えそうな時事ネタに乗っかるわけでもなく
ただ書いているだけの文章を書いている。

ついこのあいだ初めて妹と弟とお酒を飲みに集まって、
一緒に住んでいたころは3人のうちだれ一人お酒を合法的に飲める年齢ではなかった子たちが
それぞれ大人になってそうやって集まれたというのはとてもうれしいことだった。

そのとき弟は自分はバイト先で「彼女と喧嘩しないやつ」として有名なのだと言った。
何かの話のはずみで喧嘩しない秘訣は
「余計なお世話だと思うことにもちゃんと『ありがとう』と言うこと」となったので
それから奥さんも僕も余計なお世話だなと思うときにはしっかり「ありがとう」と言うようになった。
それはともかく弟の話は続いた。
そもそも自分は彼女に限らずだれとも喧嘩しないと言うと喧嘩しない秘訣を聞きに来る人たちはみんな黙る。
これには僕も妹もうんうんと肯いて、うちの人たちは喧嘩をしない大人に育った。

たぶんそれは喧嘩をするほど他人に興味がないからだ。
こう言うと冷たいやつらだと思われそうだけれどそうではなくて、
他人を他人のまま尊重する術が、うちの人たちにとっては
「自分と一緒にいないときのことには口出ししない」ということだったのだ。

一緒にいるときはなるべくご機嫌でいること。
それができるのならば、よそで何をしていようと、本人の好きにしていればいい。
本人の体や心が脅かされない限り、やりたいようにやり、行きたいところに行けばいい。
他人を自分の思うとおりにコントロールしたいというような横着さも、
他人が自分の思うようにふるまってほしいと期待する浅はかさも、
どちらも持ち合わせていないので喧嘩はしない。

書いているうちにまとまってきたのだけどこれは「他人に期待しない」という姿勢だと言えるかもしれない。
自分の都合よくあってくれる人も出来事もほとんど零しい。
困っているときや危ないときには助けたいけれど、そうでないときの「助言」は余計なお世話でしかない。
「ありがとう」と言おう。

大人になって、「ありがとう」と言われるようなことをしてしまうことが増えた。
他人に興味のない「自己中心的な冷たいやつ」から、
お節介な「他人を放っておけない人情者」に成長したともいえるのかもしれないけれど
それってすごく馬鹿みたいだ。
「ありがとう」、頼むから放っておいてくれ。
そう言われてしかるべきだ。

大好きな人の、自分と関係ないところに口を出したくなってしまう気持ちがわかるようになってしまった。
わかるようになってしまったからこそ、心配性が顔に出てしまうのに気が付かぬふりをして、
つとめて涼しい顔で、好きにやったらいいんじゃないの、と言えるようでありたい。

でもさあ、好きな人たちのことほど、傷つきやすい壊れ物のような気持ちが湧いちゃうわよね。
普通に人間のはずなんだけど。むつかしいな。