2017.07.10

週末奥さんが髪を切った。15センチ以上バッサリと切った。

それは感動的なかわいさだった。

もとから「外見なんて関係ない」なんてこと、言うつもりもないけれど、
かわいくなった奥さんに対し、あからさまにいつも以上に照れるし嬉しがるし
可愛いと言うしちやほやしたくなるから、我ながらゲンキンなものだと思う。

見た目はいいほうがいいに決まっている。
収入やコミュニケーション能力なんてものも、高いほうがいいだろう。
たぶんだけど、そういう人のほうが育ちもよく、性格もいい確率が高い。
性格もいいから周りに集まる人たちもいい人が多いかもしれない。
それが生理的なものであれ社会的なものであれ、
生まれ持ったものによってその人のかなりの部分が決まってしまうこと。
残酷なことだけれど、かなり多くの物事はこのようにミもフタもないものだ。
この世は公平などではない。
がんばっても報われないこともあれば、何もせずとも成功することもある。
不条理なところなのだ。

そういうものだ。

「そういうものだ(So it goes.)」と書いたじいさんは誰だっけ
ベケットだっけと調べたらぜんぜん違った。

そういうものは、もちろん僕のところにもありふれている。
ツイッターなんかで覗くことのできる、僕の知らない世界では、
おびただしい数のそういうものなことがあるようだ。

電車に乗ると、乗り合う人たちの悲壮、憎悪なんかにあてられて気分が悪くなる。
どんな恵まれない私生活を送っていたらそんなイヤな奴になれるんだ。
そう思わせるような人が沢山いる。

たぶんそれは、その人たちのせいではない。
その人たちのせいでなかったとしても、その人たちがイヤな奴であることに変わりはない。

僕の知らない世界の知らない人たちのことを案じることは、
どうやったって実感に欠けた野次馬の域を出ないから、
無責任に「ぜんぶマシになあれ」と祈っておこう。
愛は祈りらしいから、これもまた愛かもしれない。

「愛は祈りだ。僕は祈る。」ってだれが書いたんだっけ。西尾維新だっけ。

違う気がする。
西尾維新は「甘えるな」だよね。
イヤな奴がどんなにかわいそうなやつでもイヤであることはチャラにならない。

イヤな奴がますますイヤになり、
いい人がますますよくなっていく。
そんなバカみたいな現実の中で、僕は僕の知りうる範囲のことだけで暮らしている。
僕の知りうる世界の中でいちばんかわいい奥さんが、
僕と奥さんの知りうる限りいちばん穏やかで楽しい毎日を過ごしていけるといい。

そんな毎日のためだったら、僕はなんでもではなくとも多くのことができる。
たとえば僕は仕事にだって行こう。
最近は夜眠るとき、また起きて働きに出なくてはいけないことが、
あまりにやるせなくって涙が出そうになるけれども、それだけのことだから行こう。
「たとえ世界を敵に回そうとも」みたいなの、よく聞くけれど、
なるべくならやめておいたほうがいいと思う。
気持ちよく喧嘩ふっかけるよりも、気の合わない人にニッコリすることのほうが、
多くの場合、大事な人との暮らしを守るにはずっと有効だ。
必要のない敵をわざわざ作る必要はない。

イヤな人たちのイヤさに張り合って、自分までイヤになってはつまらない。
たとえナンセンスな世界と握手することになろうとも、
「そういうものだ」と割り切るところと、「甘えるな」と切り捨てるところをはっきりさせて、
イヤな人たちもちょっとはマシになれるよう無責任に祈りながら、
僕は僕の最高を大事に育てながら暮らしていきたい。
僕の知りうる限り、最高とは奥さんと僕のことだ。
これは祈りでも甘えでもなくて、そういうものなのだ。