2017.10.12

本を読んでいられるあいだは気分がいい。
図書館に通うようになってからどんどん本を読むようになった。

これまでは本というものは買わずにはいられないものだった。
それは自分の本棚に収めてまいにちその背表紙を眺めるともなく眺め続けることに意味があると思うからで、本というのは実際に読んだか読まなかったかはそこまで重要ではない。
自分の本棚にそんな本があるのかが大事なのだと思う。
本棚は庭いじりみたいなものだ。庭をいじったことはないので本当のところはわからないけれどきっとそうだ。
自分の関心ごとがかつてどこにあり、今どのあたりにあるのか。本棚の配置をいじりながら、その本棚の持ち主は自分自身を分解し、点検している。
過去あんなに熱中した一冊がいまいち今の本棚の雰囲気にそぐわなくなっていたり、古本屋のワゴンで叩き売られていたというだけの理由で買っておいた一冊がいつのまにか意味ありげな存在感をたたえていたりする。
自分の本棚をいちばん格好いいと思っているのも、いちばんわくわくする並びだと思っているのも、僕自身だ。
本棚は、かつてそうありたかった未来、またはいまだ焦がれ続ける憧れの在り方の見立てなのだから。

新しい本を迎え入れた時、その一冊によってそれまで保たれていた棚の中の均衡が崩れ、それぞれの一冊がまたあたらしい関係を取り結びながらあらたな均衡が立ち現われていく快感はなにものにもかえがたい。
本棚に新しい本を迎え入れる行為は、それまで想像もできなかった未知に出会う予感であったり、探検せずにはいられない謎を発見する喜びであったり、つまり自分が新たに作り替えられる可能性に満ちている。
読みたい本を買うのではない。「こういうふうになっていくといいな」という理想の在り方を立ち上げるためにこそ、本を買うのだ。
「こうありたい」という理想をモノに託して見立てていくというのは、先に書いたように庭づくりでもいい。盆栽でもいい。彫刻でも音楽でも、なんだっていいだろう。僕にとってはそれが本棚だったというだけのことだ。
本を買うということ、それは僕にとって本棚づくりという無上の「見立て」遊びそのものだ。
僕は本を読むのが好きなのではなく、本を所有し、レゴ遊びのように自分の生活の文脈にあわせて組み立てては壊しまた作り替え、そうやって自分だけの思索の場所を育てていくことが好きなのだ。
最近は発酵にハマっているので、このような本棚との関係のありかたがまるで「糠床」のようだとも思う。捨て漬けをしたり、定期的にかきまぜたりしながら、時間をかけて「うちの味」を醸していく楽しさよ!

以上が、僕が本を買い続ける理由だ。
けれども僕は三流以下の道楽者なので、懐具合や住宅事情を無視してまで遊び倒そうなんて豪気に構えることはとてもじゃないができない。
盆栽の置場もないからと苔盆栽に自然を見立てる喜びを見出すように、僕の「糠床」は本棚から僕の頭の中やノートの中へと場所を移し始めている。
だから八月のあたま頃から、僕は図書館に通うようになった。
するとどうだろう。
僕は本を読むようになったのだ。
もともと今年度は仕事もひまなので、比較的本を読むようになっていた。
とはいえ四月から七月までのあいだに読み終えた本は十冊程度だった。
それが図書館に通いだしてからの二か月では十五冊もの本を読み終えている。単純計算で三倍速だ。
僕は速読というものができないし、むしろ遅読であることに誇りをもっているくらいだ。
今でも遅い。一冊に少なくとも三日はかける。図書館の本は延長に延長を重ね、はじめのころに借りたものでもまだほとんど読み進んでいないものもある。だから読むスピードが三倍になったのではなく、読んでいる時間が三倍になったのだ。
僕は、「年収も恋人もなんでもかんでも多ければ多いほうがいい」というような、量がないと充実を感じられないような価値観からも距離をとっていたいと思っている。
だから、ふだんの三倍もの時間を読書に使っていることについても、「だからなんだ」で済ませたほうがよさそうな話だけれど、でも、自分比三倍の読書量ってすごいな、と思って、ついこうして書いておきたくなったのでした。大学生のころだって、こんなに本を読んでいたかと問われたら怪しいくらいだ。

手元に残らない本は読むしかない。それ以外に関係を持ちようがないのだ。
たったそれだけのことで、こんなに本を読むようになるとは思わなかった。
そしてわかったことがある。
本は、読むと楽しい!
読めば読むほど自分の頭の中の「糠床」がどんどんかき混ぜられて、どんどん美味しくなっていくのを感じる。読んでいるうちにまた読みたい本が増えていく。考え事が活発になり、知りたいことが無尽蔵に広がる。そうか、本って読んでも楽しいものだったのか。
レゴのように遊び、眺めているのとはまたちがった気分の良さがある。
「糠床」を外に見立て遊ぶのではなく、僕自身が「糠床」になる快感とでもいおうか。

本読む僕は「糠床」なので、ひととのお喋りもいい感じに醸される。
いや、これについては僕の話し相手はもっぱら奥さんなので、ぼくが一方的に気持ちよくまくしたてているだけで、それを好きなようにさせてくれている奥さんこそが「糠床」なのかもしれない。
ともかく最近はちょっと本にかまけすぎているので、この気分の良さをほかの人にも上手に振りまけるようないい塩梅を見つけたい。
これから仕事も忙しくなるけれど、本を読めるだけの気持ちの余裕は確保しておきたい。
それは誰よりも大事な自分自身の幸福のために、絶対にさぼっちゃいけない努力と工夫だ。

そして、読む楽しさを思い出せたいま一層つよく思うのは、やっぱり良い本は手元に置いておきたくなるということ。
佐々木正人アフォーダンス』、ブコウスキー『ポストオフィス』、高野秀行『謎のアジア納豆:そして帰ってきた“日本納豆”』の三冊は、きっといつの日か僕の本棚にお迎えしたいと思っている。それぞれどんな本の隣に置きたいか、もう考えてある。