2017.10.18

長い雨にまいって早寝をしたら晴れていた。

週明けから、夫婦そろって九時前まで起きだせない体たらくだったのだけれど、今朝はちゃんと八時半には家を出ることができた。
われら太陽の子。

本が読みたくて読みたくて仕方がない。勉強もしたい。運動もしたほうがいい。
けれどもそれだけでは奥さんと遊ぶ時間が減ってしまうので、なるべくそうならないようにほかのものから削っていく。

たとえばtwitterやらを意味もなく眺める時間が減った。
どのみち面白いリツイートは奥さんが教えてくれる。
通勤電車のなかで僕はぐったりとして無口なのだけれど、目の前でスマホをたくる奥さんがたまに画面をこちらに向けて面白いツイートを見せてくれる。
僕はそのときは黙ってうなずくだけだけれどわりとあのやりとりが好きだ。

いまはアウトプットよりもインプットしたいし、からだに入れるのは情報の濁流にさらされるのでなく自分で選びとりたい。
昔からカタカナ語を多用する人のことを軽蔑すらしていて、だからこのアウトプットだのインプットもしゃらくさいくらいだけれど、さいきんは自分の考えをうんと遠くまで進めてくれるような便利な言葉に出会えたと思うとその大半はカタカナだ。
たとえば「ブリコラージュ」。
この言葉についてはなぜ大学生のころこの言葉を濫用しなかったのかというくらい、便利な道具だ。やっぱりあの頃の僕はジーンズじゃなくて本を作るほうのリーバイスを読めていなかった。いままた読み返したい。

ほかには「リバースエンジニアリング」「アフォーダンス」あたりが手になじむいい道具だ。
そうなってくると「エクソフォニー」あたりもまた引っ張り出してきたくなる。

いま一度日本語からのエクソフォニーを試みることで、自分の思考形式をリバースエンジニアリングする。そのうえで手持ちの要素をブリコラージュして得られるものは、あらたなアフォーダンスを獲得しているかもしれない。ほら、こう書くとバカみたいだ。
本を読むと人はバカになるけれど、それは自分で扱えもしない道具を使おうとするからだ。
服に着られるように言葉に語られているのだ。
自分よりも雄弁なものを身に着けてはいけない。

なれないカタカナ語をあえて使うというのもエクソフォニーとは言えないか。
大切なのは、カタカナ語の濫用期を経て、それらの言葉を普段使いの言葉に「ひらいて」行くことだろう。
言葉を着崩すこと。着こなしの作法を更新すること。