2017.12.07

本を読まない時期は「あれ、この人こんなに口数少ないんだっけ」と思うし、いざ本を読みだすと「こいつ本を読むとほんとよくしゃべるな」と思う。
本以外のインプットではそんなにしゃべらないし、本からのインプットしかアウトプットに繋がらない体質なんじゃないか。

きのうの帰り道に奥さんはそんなようなことを言った。
英国ロイヤル・オペラ・ハウスの『不思議の国のアリス』を観に映画館に出かけた帰り道だった。
きのうの無口の原因の八割は空腹由来の不機嫌だったことは疑いようがないけれど、それでもたしかに僕はバレエの感想をうまく言葉にすることができない。
それはまたバレエというものを頭からおしまいまで観るということ自体きのうが初めてだったことも少しは関係あるかもしれない。
けれどもついこのあいだ初めて見た能は、かなり饒舌に気持ちよくしゃべった。
能は入門書から謡本、日本語文法の生成史まで目を通し、かなりブッキッシュな態度でのぞんだから、これもまた本からくる饒舌だともいえる。

不思議の国のアリス』はすごく良かった。
かわいいし、きれいだった。
けれども、これ以上の言葉は出てこない。

テクストの表れない身体表現の面白さがわかるような気持ちになったのもついこの間のことで、それは大学時代の演劇との関わりの中でそれこそ「体感」していったことだけれど、そうした演劇の身体性について言葉にしようという気持ちは当時ふしぎと起きなかった。
ちゃんと言葉に起こしてみたいと思いついたのは先月読んだ中村雄二郎の『臨床の知とは何か』や渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性: 情報社会をいきるための感覚のリテラシー』の影響が大きい。

テクストであればテクストに置き換えられる、というような話でもない。
あらゆるテクストは言語という画材を使った絵画、音を使った音楽、ノミを使った彫刻であって、それが言葉で書かれているからといってかんたんに言葉で再現できるようなものではないから。
絵画や音楽や彫刻などの作品を、言葉を用いて十全に再現できるなどという意見は、多くの人から直観的に否定されるだろうけれど、テクストとなるとどうもこのことが見えづらくなる。

そもそも書かれた言葉と話される言葉は全くちがう。書かれた言葉は視覚によって受け取られるけれど、話される言葉は聴覚によって受け取られる。
これは受付の窓口が違うだけで、結局は読むことも聞くことも書くことも話すことも体のまるごとで行われるのだという考えが最近僕の中では主流なのだけれど、ともかく入り方がちがえばそれはもう全然違うともいえるだろう。
我が家に玄関から入ってきた人と、天井を突き破って入ってきた人とでは応対の仕方が変わるように。

あらゆる作品に触発されて行われるおしゃべりや書き物は作品の「再現」ではなくあたらしい別個の作品なのだ。ここでは作品への感想というようなことを想定して書いているけれど、この「作品」というのは「現実」だとか「出来事」みたいなものに言い換えてもいい。ひっくるめて「情報」としてもいい。ともかく自分を媒介としてそこを通過していった「情報」が、通過する前と後とではすくなくとも異なった性質を帯びている、というようなことが言いたい。それは自分を通過する前の姿とかなり似通っていることもあるだろうし、まったくの別物だと言い切ってしまいたくなるものもある。

僕という媒体は、テクストを入力するとおしゃべりを出力するというのが得意技らしい。
おしゃべりという入力をおしゃべりと言う出力で返すのは苦手だ。
だからこうしてきのうの奥さんとのおしゃべりの続きをテクストで返している。
おしゃべりをテクストで返すのもわりあい得意なようだ。
テクストをテクストに変換することはその次くらいで、苦手というほどでもないけれどすこし苦労する。

こう考えてみると僕は能やそのほか演劇作品の多くを僕はテクストの表出として受け取っている。これはテクストでもあるし、おしゃべりでもあるということだ。だから感想はおしゃべりでもテクストでもふんだんに返すことができる。
本を読むと僕はまずおしゃべりを経由しないとうまくテクストにできないから、まずは読んで感じたことをべらべらとしゃべりたくて仕方なくなるのだといまこうして書いていて気がついた。


バレエの感想がうまく言葉にならないという話だった。
バレエは能と同じく舞台作品ではあるけれど、テクストが表出するというものではない。
表出しているとしたらそれは身体言語というようなものだ。
僕はこうした身体表現の入力をどのように出力するのだろうか。
とりあえずテクストやおしゃべりなど、言語というツールを用いたものではないようだ。

そういえばバレエなどの舞踏と同じように言語を用いない絵画や音楽の感想を言葉にするのも苦手だ。
やっぱり絵画の感想は絵画でしか、音楽の感想は音楽でしか表せないということなのだろうか。

そういえば昨晩からなんとなく重心を高めに軽やかに歩行することを心がけている自分がいることに気がついた。
これこそが僕なりのバレエへの応答なのかもしれない。