2017.12.19

行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである
ジャレド・ダイアモンド長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』

弟のブログでこの言葉を知り、いいなあと思ったので書きます。

コミュニケーション能力って大事。
これは最近とても真剣に感じていることで、どうやってもこの課題を解決しないことには先に進めない。
先に進みたいのなら、解決するしかない。
ものすごい出不精の僕が、本当にわざわざ先に進みたいかどうかは、進めるようになって初めて検討の余地が生まれるので、元気のあるうちに解決しておくに越したことはない。
ということで解決してみましょう。

先の引用に従ってコミュニケーションを「自分や相手にとって最適な状況をつくりだすために他者にはたらきかけるプロセス」だとするならば、コミュニケーション能力は「自分や相手のために最適な状況をつくりだすために、お互いの情報を適切に交換するための技術」とでも言えそうだ。

この文脈でいうと最近だとこの記事なんかが面白かった。
https://series.yahoo.co.jp/feature/hitomishiri/3/
すでに記憶があいまいだけれど、コミュニケーション能力とは、知らない人ともすぐに楽しい雑談を弾ませられるというような「社交性」とは区別するべきもので、「情報伝達の技術」のことなのだ。そういう記事だったように思う。

コミュニケーションは最適な状況を目標とした他者へのはたらきかけであり、そのはたらきかけとは情報の交換のことなのだ。
こうなるとコミュニケーション能力とは何かを考えるには、適切な情報交換とは何かを考えてみなくちゃならなそうだ。

適切な情報の交換のために必要な要件として、①適切な伝達、②精確な理解、があげられそうだ。ここでいう適切な情報の交換とは、双方向の出力(①)が過不足なく入力(②)されたうえで、お互いの入出力の創発的な変換が起こることだ。
創発的な変換とは、お互いの知っていることを伝え合うことで、それまでその場の誰も想定していなかったようななにかがコミュニケーションの<場>に立ち現われてくることだと言える。

コミュニケーション能力とは「情報の創発的な変換が起こりうるコミュニケーションの<場>を醸成する技術」と言ったほうがより解像度が高いかもしれない。

コミュニケーションにおける「最適な状況」とは「創発的な<場>」が醸成されることだ。
そしてそうした<場>を醸成するには適切な情報の交換が必要となる。
そのためには①相手に分かるように伝えること、そして②相手の情報を相手の意図通りに理解することが不可欠だ。
ここでは①②と番号を振っているけれど、べつにここに前後関係も優劣もない。
どちらから始めてもいい。ここでは①から始めてみる。

①相手に分かるように伝えること

「俺に分かるように話せ」

自らの無能を棚に上げて貧しい語彙と経験のみで世界のすべてを語ることができると信じているアホが世の中には多すぎる。
そういうアホに限って上記のセリフを水戸黄門の紋所のようにドヤ顔で掲げ、有能な僕の言うことに耳を貸そうとすらしない。

そんなことを思っていた時期もありました。
いまは無能はお前だと当時の自分に言ってやりたい。
衆愚に迎合するのか、と自分は言うかもしれない。

ともかく人は人の話を聞かない。
理論として破綻がないことを納得したからといってなんとなく腑に落ちなければ、せっかくの美しい理論も聞き流されてしまう。
腹をくくったと思っていても、どうにも理屈が通っていないと思っているうちははっきりと行動に移すことはまれだ。
頭かお腹どちらかで「分からない」と思ってしまったら、もう人は誰かの言うことに耳を傾けたりしない。

「俺に分かるように話せ」というとき人は、理屈と感情の両方に過不足なく納得を欲望している。
「有能な僕の言うことに耳を貸そうとすらしない」といじけていたころの自分はこの欲望が見えていなかった。特に相手の感情で納得したいという欲望が。
そして「うつくしい理屈」を通そうとしていた僕は、僕自身の「この理屈を練り上げた自分を受け入れてほしい」という感情に対しても盲目だったのだ。
この自他の感情に対する盲目のために、僕は僕の言葉で練り上げていった理屈に固執した。これは自分の感情を納得させることへの欲望の過剰だ。
この過剰のために、僕は自分の理屈を相手にわかりやすい言葉で言い換えるというような伝達上の工夫をこらそうなどという発想ができなかった。
そのため、相手の感情の納得はおろか、理屈としての納得に至る素地も、そこにはなかったことになる。

僕の無能は、「俺に分かるように話せ」にまつわる納得への欲望に対する解像度があまりにも荒かったことに原因があった。

分からせるとは、相手の感情と自分の理屈の衝突ではなかった。
相手と自分、双方の理屈と感情の調整でしかなかったのだ。
相手の感情や理屈を無視することも、自分の感情や理屈を抑え込むことも適切ではない。
どちらの要素もなかったことにせず、うまい具合にアレンジメントをほどこして、お互いを分からせてやる必要がある。
でもそれってすっごく面倒くさいことだ。

いやいや、それでも、分からせてやろうじゃないか。
突然ですがさいきん『阿吽』を読み始めて、いまは三巻まで読んだ。
最澄のストイックさに胸が苦しくなるのだけれど、最澄がすべての人を救いたいと言うのなら、みんなに自分の言っていることを分からせてやりたいというこの気持ちなんかはあまりに小さい。無謀というには小さすぎる。面倒というには、もっと小さすぎる。

長くなって、疲れてきてしまった。
最後のパラグラフなんか雑すぎる。
「②相手の情報を相手の意図通りに理解すること」についてはまた次回。