2018.02.13

ここ一年くらいだろうか。
発酵にハマっている。

さいきんはすこし落ち着いてきて、会う人会う人に「それは発酵ですね」「発酵でいうとこういうことですね」なんてうざい会話を仕掛けることもなくなってきた。
「ちゃんとお世話するから!」と奥さんに宣誓して買った糠床もほったらかしにしがちだ。この季節だと冷蔵庫に一か月くらい放っておいてもなんともないことがわかり、なおさら構ってやらないでいる。よくないと思う。
それでもやっぱり、ことあるごとに「これは発酵だなあ」と思う。

発酵と同時期にハマったもののひとつに能がある。
あのお面をかぶってのろのろ動くやつだ。
あれもまたべらぼうに面白い。

発酵と能に共通するいいところは「時間がかかる」ことだ。
発酵食品づくりを実践しようとなったら、それが糠床だろうとパンだろうとやることは微生物のために環境を整えること、ほぼそれだけだ。あとはただ時間が経つのを待つ。この、他者のために心をくだいて環境を整えてやり、のこりはすべてこの他者たちのはたらきに委ねるだけというのがとても気持ちがいい。僕も微生物もただあるだけだ。基本的にはほったらかしあっている。そんななかたまたまお互い気持ちがいいようにできると、おいしいものが出来上がったりする。
能の上演もものすごく高濃度に圧縮された短いテクストをじんわり解凍していくように、長い時間をかけてゆっくりと謡われ、舞われる。そもそもこのテクスト自体が云百年の時を経てどんどん短く濃く醸成されていったものだし、その解凍のメソッドも同じように歴史を背負っている。歴史を持つということは、今を生きる主体にだけ還元できるものではない何かを持っているということだ。

発酵も能も、自分の意志の介在しようがない「ただ過ぎていく時間」というものが大事だ。
これが僕の気分にとってしっくりくるところの一つなのだ。

自分の意志で勝ち取ってきたものなど何一つない。
すべては偶然とフィーリングでなんとなく決まってきた。
それは牛乳がチーズへと発酵していくのにも似ている。
それは詠唱される情景が刻一刻と変化していって、それを聴き終えたときにはじめてその折りたたまれた情景の全体が感覚できるのに似ている。
すばらしい両親を選んで生まれてきたわけではない。いくら食べても肥らない体に育ってしまったのもなんだかそうなっていたということで、望んだわけでも嫌なわけでもない。本を読むことや勉強が苦でないどころか割と好きなのもたまたまだ。進学する学部だってクラスの女の子に「かっこいい」と言われたところに決めた。友達だって、どうして仲良くなったのかどころかどうしていまも仲がいいのかすらよくわからない。住むところも就職先もそのときどきの成り行きや当時読んでいた漫画や「なんとなくいい感じ」という雰囲気で決まってきた。僕たちの最高の結婚だって、僕の意志というよりも、たまたま奥さんと同じくらいのタイミングで「いい感じ」がやってきたから決まったことで、しいて言えば僕らの意志なのだけれども、それでもやっぱり「結婚するぞー!」みたいな力強い意志みたいなものはそこにはなかったように思う。

振り返ってみるとなおいっそう、大きなイベントほど自分の意志で選び取ってきたわけではないな、という感じが強くなる。
いつでも個人ができることなんて、なんとなくの感じだけで、このまま流れに身をゆだねていくか、それともちょっと逆らってみるかを考えることだけだ。
個人が現実に対してできることなんて、糠床をかきまぜてみるくらいのことなのだと思う。

糠床をほったらかしにしすぎて水が出てきてしまったり、やばそうな臭いが漂ってきてしまったら、乾燥シイタケや塩を足してみて、祈るような気持ちで二三日待つ。
このときも僕は何もできない。
微生物の集合住宅である糠床の中で勢力図がどうあるかなんていうのは、人間とは関係のないところで起こる。
それでも僕は勝手だから、僕にとっておいしい漬物をこさえてくれる微生物たちに加勢しようとする。干しシイタケや塩を加えて糠床の環境を整えてやることはたしかに僕の「おいしい糠漬けをつくりたい」という意志みたいなものかもしれないけれど、これは意志というよりも祈りに近い。それに糠床の環境を人間に都合のいいように立て直すのは「おいしい糠漬けをつくりたい」という気持ちではなく、水分を吸収する干しシイタケや、pH値を整える塩を投入するその行動であって、たとえ「おいしい糠床をつくりたい」なんておもっていなくたって、干しシイタケや塩を入れたら糠床の環境は変化していく。
糠床という小さな現実に対してみてみても、意志はその現実に何も関与しない。

行為と時間の経過だけが現実にはたらきかける。

自分にできることなんて、動いてみることと止まってみること。あとは待つことだけだ。

発酵を通じて微生物のことを考えていると、ぼくらはほんとうに一人で生きているわけではないと痛感する。そもそもこの身体だって、自分由来の細胞よりも巨大な数の微生物が暮らしている。わたしの身体は膨大な他者との共用物なのだ。

悩むのは適量を守っていれば楽しいけれど、過ぎると孤立してしまったような息苦しい気持ちでいっぱいになってしまう。
そういうときは自分で決められることや自分で選び取れるものなんて実は何一つないということを思い出すと、少し楽チンになるんじゃないだろうか。
さいきんはそんなことを考えている。

現実に文句があるのなら、悩んだり意志をたくましくすることよりも、とりあえずかきまぜてみて、じっと経過を待っているというのが、案外いい感じにおさまっていきやすいようにも思う。

楽しい感じのすることだけを大事にしていきたいな。