2018.02.27

「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と思わされる情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。
先日新居となる家から町へと歩いた。
新居のあるところと町とを分かつ大きな川にかかる橋めがけて歩いていくと、土手がどんつきのようにそびえ立っているところに着く。
壁のような土手の裏側。
そこから道路一つはさんだところに、橋へと続く階段があって、それをのぼるうちにどんどんにおいが川の近くの感じになってくるのがわかる。
とうとう橋の上についたとき、それまで目の前の土手と、真上にかかる橋とで窮屈だった視界がいっぺんにわーっと拓ける。
時刻はちょうど日が高く上るころで、車通りがおおくけしてきれいとは言えないけれど冬らしく澄んだ空気で川が向こうまで見渡せる。
ちょうど向こうで電車が川を渡っているところだった。
眼下では少年が野球をしている。白いユニフォームはもちろん土にまみれ、青い汗のにおいを思い出すようだけれど僕は野球が嫌いな少年だったので球児の汗のにおいなんて知らない。
完璧だなあ、気持ちがいいなあ、これは。
隣を歩く人が「楽しすぎて泣けてきちゃうな」というようなことを、楽しすぎて泣けてきちゃうような様子でいうので、思わず泣けてきちゃうところだったけれど、僕はそのとき、タブレットをいじりながら奥さんとLINEをしていたのでものすごく曖昧な空返事をしただけだったように思う。
というのも最愛の奥さんはその日の前日親知らずを抜いた。
そうしてこぶ取り爺さんの爺さんのようにぷっくりと腫れたかわいい顔の奥さんは、かわいいのだけれど痛みとだるさでかわいそうなのだった。
僕は家でお留守番をしているこぶ取り爺さんのようなかわいい奥さんのことが心配でたまらず、完璧な情景のさなかタブレットばかり見ていた。
もったいないことをした。

けれども思い返せば、「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と何度も思い返すことになる情景は、おおくのばあい「だからもっとちゃんと全身で味わっておくべきだった」という後悔とセットになっているようなのだ。
そうした情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。

たぶんその場で「味わいそこねた!もったいないことをした!」と後悔しているからこそ何度も思い返すことになるのだろう。
その場で没頭していれば、思い返すとしてもそれはその場での得難い経験の出がらしのようなものなのだから。
なんど聴いてもメロディが覚えられないから、いちいち初めて聴くような気持ちで音楽を聴ける。
読んだ端から忘れるから、いつでもあたらしい発見とともに本が読める。
古い友人でも名前すら出てこないことがあるから、十年ぶりに会う人でも二か月ぶりの人でも、おなじように新鮮な気持ちでお茶に行ける。
没頭したものは、覚えている必要がない。いつあったっていいんだから。

けれども一回きり、そのときだけのよさというのもあって、ぼくはそういうものをちゃんと経験しそこなう。
いいとき、いいところで、なにか別のことにはんぶん気を取られている。
それはもったいないことだなあと思ってしょげる。
けれども、その場で味わいそこなうからこそ、それを思い出すとき、いちいち新鮮で、得難いような感覚をおぼえるのだと思いなおすと、なんだかお得な性分にも思えてきてちょっと気分がよくなってきた。

反省文のつもりで書き始めたけれど、なんともしまりのない感じになってしまったな。
まあいいか。