2018.03.01

このまえ会った友人のしてくれた話について、いまだに考えている。

ヨガの教室に通っているというその友人は教室の先生がこんなことを言っていたと話す。
人が人と対峙するとき、緊張や警戒心があると、胸の真ん中のあたりがこわばって閉じてしまう。そこを開くことが出来さえすればぽかぽかとしてきて、その温かさは相手にも伝わり、ほぐれていく。人を疑うことを覚える前の赤ん坊のまわりがぽかぽかとしているのは、赤ん坊の胸は常に開かれているからなのかもしれない。こんなようなわけで、仲良くなりたい人とはご飯を食べに行くのだ。ご飯を通すことで胸のところが開いていくから。それでもなお仲良くなれない人とは、だからよっぽど気が合わないということだろう。

だいたいこのような話だった。
いや、僕の記憶はいつだって信じがたいほど信用ならないので、いまではそんなような話として思い返している。

この話を感心しながら聞いていた僕が考えていたのは「はたして僕は今から赤ん坊のようにぽかぽかと他人の前に出ていけるだろうか」ということだった。
僕はご飯を食べて物理的に胸のところを広げようとしたところで、かたくなにこわばってしまうことが多い。これはたぶん僕の身体が信じがたいほど固いことも関係があるだろう。僕は前屈するとその指先から地面まで15センチは距離がある。これは誇張ではない。笑っている場合でもない。
では毎朝毎晩柔軟体操をして、体を柔らかくすれば、僕もぽかぽかと他人に心を、いやみずからを明け渡すことができるだろうか。
誰もかれも分け隔てなく、温かいところへと招き入れることに頓着しない。
そういう風になれるだろうか。

赤ん坊のようにポカンと世界に投げ出される。
そのイメージの鮮烈さに思わず心を奪われてしまった。
けれども、はたして僕は本当にそのようなことを欲しているだろうか。
正直よくわからない。

ともかくこの話を聞いて以来、気がつくと胸のあたりに意識が向いている。
たしかにこの人と話すときは胸のところが窮屈だな、とか。
意識的に胸を開いて歩くと、確かに気持ちはぽかぽかとしてくるな、とか。
胸を開くたびに肩甲骨のところがポキッだとかバキッだとか楽しい音を立てているけど大丈夫なのかな、とか。
奥さんといるときにどれだけ自分が開かれているかみてみなくちゃと思うのだけど、リラックスしきってしまうからか、奥さんといて胸のところを意識することを思い出せないままでいる。

 


町場のおばちゃんの、素朴なおせっかい。
そんなイデアとしての「おばちゃん」にヒントがあるような気がしている。
自分を自分の縁りかかるものへと投げ出しながらも、守りたいものはちゃんと守る。
赤ん坊に戻るのはちょっと色々と大人としてあれだけども、おばちゃんなら目指せそうだ。
それは芯が一本通っているということなのかもしれない。

ちんけな自意識やプライドを気にかける必要がないくらいの、丈夫で頼もしい芯。