2018.03.26

保坂和志『試行錯誤に漂う』を読んでいて、とにかくすべての営為は日々行われるその行為そのものだという考え方がいつも以上に自分にセットされている感じがある。
読むというのはその行為それ自体のなかにしかないものだけれど、ここでいう行為というのは読んでいない時間も含まれる。一冊を読み通すまでにはさまれる中断のなかにもその本のことを反芻し、反芻するうちに本の内容自体からは次第に離れたことまでをも想起する、そうした行為もまた読むことの一部というか行為のしかたのひとつのように思える。
だから今日こうして書いている文章も『試行錯誤に漂う』を読むという行為の中にあるような気がして、野球の試合とは日々の素振りのなかにある、コンサートは日々の練習のなかにある、それらは行為が結実する地点ではなくただ日々の行為の延長線上にある一点にすぎないという、この本で繰り返し繰り返し言われるその感覚はすごくわかるというか当然のことのように感じられる。僕にとっての日々とは読むことで、読むことと書くことはだいたい同じことだ、このように句読点の打ち方なんていう見かけ上の方法論に過ぎないのようなところから『試行錯誤に漂う』の実践をなぞってみる、それだけで書けることの射程ががらりと変わる、その変わる様子はこれまでよりもよく書けるとかそういうことではなくてただがらりと変わる、そうやって異質なものが生起していくそのさまが面白くてこのように句読点の打ち方だけを意識してだらだらと書いてみる、そうするとさっきは句読点の打ち方なんて見かけ上の方法論に過ぎないというように書いたけれどそれはまったくそれだけのことではないことがわかる、たとえばいまも「、」で引き延ばすことだけを意識するあまり一文がだらしなく長くなってしまっている、この一文のただだらだらと長く続いていることから自分がこの方法をまだうまく扱えていないことに気がつくことになる、というのもだらだらと続く必然性というか書くという運動から自然に一文が引き伸ばされるという風にならないといけないのだと想像しているからで、僕は今こうして書くという運動、句読点の打ち方というフォームによって規定された運動に振り回されるようにだらだらと一文を長く続かせる自分のあり方を面白がっている。

影響を受けているのは確かだけれどやや大げさにいまの状態を書いてみた。
こうしてブログを描いたり読んだりしていると「一文は短いほうがいいな」であるとか、「構文が明快ですっきりしているな」であるとか、とにかく読みやすい、伝わりやすいことが価値であるような気持ちが強くなってくるけれど、保坂和志の文章を読むと書くというのはそれだけのことではないということを思い出し、文章の書き方や読み方のフォームが改まってくる。いかんいかん、また一文がだらだらと長い。
さいきんは哲学書や一般向けの科学の本、その多くは別の言語で書かれた文章の翻訳された文章を読み続けていたので、日本語にはない言語の運動、論理の積み重ね方というのが染みついてきていたけれど、いまこうして日本語で動かされた言葉を読むと思考のモードがはっきりと切り替わるのを感じられて面白い。「ここまでは間違いがなさそうだ」という厳密さを積み重ねていく愚直さというのはどの言語でも共有できるという前提のもと哲学も科学も書かれるし読まれる。けれどもその愚直な積み重ねの上で行われる飛躍は、その積み重ねを行った言語によって導かれることが多いように思う。積み重ねの方法がいくら共通であれども、言語というのは思考のフォーム、型であるからその道筋を多かれ少なかれ規定する。この型に誘発される跳躍を読み取れるのはやはり同じ言語で書かれた文章でないと僕はまだできない。

どうやったってきょうは不細工に一文が長くなる。
昨晩は布団に入ってから奥さんとだらだらおしゃべりをした。布団に入ってからしゃべりたくなってしまうのは仲のいい人とお泊まりに行ったときみたいで何回やっても楽しい。僕の日々とは読むことと書くことかもしれないけれど、奥さんとの日々はおしゃべりだ。
どうやったって言語から逃れられないようなじれったい気持ちもなくはないけれど、奥さんと言葉や論理を積み重ねていくのは楽しい。その積み重ねのなかには時間が伸び縮みして折りたたまれている。いまはなにを読み考えるにしても奥さんといることが前提となっている。思考の型のひとつとして奥さんがある。今日このように書いているのも、だらだらと長いのは保坂和志のおかげだろうけれど、昨日髪を切った奥さんがひいき目なしに冷静に客観的にみてみても世界一可愛いということも関係しているだろうと思う。結局このブログはいつも取ってつけたような惚気で終わる、というのはだから不当な言いがかりで、いまの自分にとって読んだり書いたりするという行為はどんなものだろうと考えるとき奥さんのことは避けては通れない要素としてある。けれども前の一文はたぶんこのブログを定期的に読んでいてくれる唯一の人である奥さんに向けて「取ってつけたように惚気ているわけではない」と弁明している意味もなくはない。弁明も済んだので今日はここまで。