2018.04.04

春で気がくるっているからおなかのあたりがふわふわとしている。
なるべくなら地に足をつけてふわふわしていたいのだけど、この季節はうっかりするとすぐに未来のことを考えてしまう。

Wiredの元編集長の人が「未来を語るな、必要なのは希望だ」といろんなところで言っている。
そのなかでもクラシコムジャーナルの対談記事がめっぽうよかった。
僕は最近このクラシコムジャーナルが面白い、かつて小学生くらいの頃夢中で読んだほぼ日の持っていた雰囲気というか気配があって、その気配はそれこそ未来ではなくて希望を予感させるものだからいい。そういえば保坂和志だって木村俊介の手によるインタビュー記事で知ったのだったっけと思い出してみると、ミシマ社から出た『インタビュー』の何がよかったかってそれこそ「インタビューとは、ただ日々だ」とでもいえる、『試行錯誤に漂う』の実践そのものの気分があることだといま気がついた。

未来に向かって行為を投資するのではなく、ただ日々の試行錯誤の豊かさを享受する。
そのようでいたい。
真木悠介『気流の鳴る音』はおそらく上京してから最も読み返している本で、僕はこの本に出てくる「心ある道を歩む」という一節に何度でも強烈に打たれる。
上のような、結果ではなくプロセスそのものを享受するという気分はこの一冊の経験によって決定的に自分のなかにセットされた。
ゴールや目的を設定せずとも人は歩みを進めることができる。
ゴールや目的を設定すること、つまり未来にあるべき自分の姿を思い描いてそこに向かって努力するというのは一見すばらしいことだけれど、一面では自分の現在を未来のコントロール下に置いているということともいえる。
目的地に到着することだけを考えて行われる歩行は空疎だ。心はいつもここではなく仮構された未来に疎外されてしまうから。このとき歩行という行為は課せられた労働にしかならない。
いま歩いている道に心をこめること、その道をただ歩くというのはどういうことかというと、行為そのものに集中し、行為そのものから何かを受け取るってことだ。そのように歩くとき道はおおくの発見や喜びをもたらしてくれる。

僕はいま春だからどうしても未来を考えてしまうけど、それは「心ある道」をこれからも歩み続けるにはどうしたらいいだろうというようなことだ。
プロセスそのものを目的とするとき、「プロセスが継続していること」というゴールが未来に仮構されてしまうというナンセンスにおちいる。それがいま、春だ。

僕にとってのかけがえのないプロセス、「心ある道」とは奥さんとの日々だ。
奥さんといつまでも楽しく暮らす。
これだけが道であって、そのほかのこと、会社に居続けるのかどうかとか、お金を稼げるようになりたいのかどうかとか、子供はいたほうが楽しいとはいえどうなのかとか、そういうことは本質ではない。
けれどもそうしたディティールが道のあり方を決定づけるのだから、どうしたらなるべく長く楽しく歩き続けられるかというようなことを春は考える。

たとえば子供。子供は一緒に育てたい、もしくは僕が育てたい、主夫をやりたい、と考えてみるといまのお金の稼ぎ方では無理が出てきそうだ。
奥さんとの共同経営、自営業なんていうのもいいかもしれない。とはいえ何をやるのだろうか。
自分の手でつくるビジネス、いまは小商いといったほうがいいだろうか、を考えてみたくなって、ポール・ホーケンの『ビジネスを育てる』を読んだ。この本を選んだのはクラシコムジャーナルにかぶれたからだ。『ビジネスを育てる』やクラシコムジャーナルを読んでいると、ビジネスというのもただプロセスであることがわかる。
お金は困らなければ健全に流れ続けているほうがいい、仕事だって実は結果ではなくプロセスをいかに豊かにするかなのだということに気がつくと、いまの会社に居ながらにしてでもやれることがいくらでも見えてくる。
どこではたらくかは大したことではない。
いまの会社にいてでもはたらくことの「心ある道」は試行錯誤できるはずだ。
会社に対してプリセットされた愛はなくとも、愛着は育ってくる。愛着はただ時間だ。
僕はしばらくこの会社でふまじめに誠実を貫く。ふざけながら真剣にやる。
自分たちの力で生計を立てていくというのは、会社のなかでの試行錯誤がほかならぬ会社の持つ構造によって不毛にならざるをえないという状況がやってきた時に始めればいい。
春はこのようになぜだか前向きな気持ちに収まることが多いから困る。
われながらうっとうしい。

とにかくプロセスそのものを最優先したいというのともう一つ、自分の行動原理には「なるべく楽をしてちゃんとしてみせる」というのがあるなと思う。
むりなく、むだなく、ちゃんとする。
そのときそのとき人に判断される「成果物」は、僕からしてみればプロセスの一点に過ぎないのでそんなところに全身全霊は注がない。とはいえ「成果物」っぽくみえるようにそれらしくはする。そのための労力は最小限にとどめたい。
最小の労力で最大の報酬を得たい。
そしてそれは可能なはずだ。
だってゴールに到達したらチャラになるやり方よりも、プロセスを愚直に積み上げるやり方のほうがなんか強そうじゃん。もちろんこんな比較そのものがナンセンスだ。

ナンセンスと言いつつもいつかこの愚直な日々の積み重ねがとても高いところまでとどくことを期待してしまっているのも認めないといけない。認めます。なんかそういうの求道者っぽくて格好いいと思ってます。
求道者というか、マニアックになることはしかしやっぱり危険だ。
なにしろマニアックになると飽きる。これはマニアックとはなにかを極めたいという欲求であって、この欲求は「何かを極めた自分」という未来に向かって行動することを要求するからだ。こうなるといま自分が楽しいと思うことを素直に楽しめなくなる。せっかく喜びをもたらしてくれる対象が目的でなく手段に取り違えられてしまう。
「心ある道」を自分の手で損なってしまうのは悲しい。
僕は常に素人感覚を研ぎ澄ましていたい。
素人であればつねにプロセスの最中で驚いていられる。
素人くさく、なにごとにもいちいち新鮮に感じること。
そういうまぬけに徹して、これからも楽しく生きたい。