2018.04.11

中学生のころ面陳された雑誌の表紙でかわいくしている水着の女の子が目に入るたび「こんなに沢山のかわいい女の子がこの世界にはいるのに、そのうち誰一人ともお知り合いになれないままに俺は死んでいくのだろう……」という途方もない気持ちになって苦しかった。

いまでも本屋や図書館に行くと「こんなに面白そうな本がたくさんあるのに、残りの一生を興味のある本を片っ端から読むことに費やせたとしてもとても読み切れないな……」という途方もない気持ちになる。
そのたびに冒頭にあげた気持ちを思い出す。
途方もない気持ちになるといまでも下腹部のあたりがふわふわするように感じるからだ。
けれどもそこに苦しさはない。
どれだけ欲望しようとも達成のできない欲望というものの捉え方が変わったのだと思う。
いまは成し遂げることなどはなから求めていないし、ただ一冊一冊読んでいくのが楽しい。
そのように本を追い求めていくことが、果てのない探求であることがうれしい。
もしほんとうにすべての本を満足に読み切ってしまったら、空しいだろうなと思う。
その空しさには興味がない。

目的地ではなく道行きを楽しみにするようになったのはいつからだろう。
思えば幼稚園の相撲大会で初戦敗退した時から、どうしたって成し遂げられない欲望があることを何度も思い知らされてきた。僕は生まれて初めて自分ごととして現れたあのトロフィーが、ものすごく欲しかったのだ。けれどもあっさりと押し出されてしまった。
中学そして高校と女の子に相手にされないまま過ごして、あんまり気にしていなかったつもりだけどもやっぱり何かをこじらせた。いや、こじらせていたから相手にされなかったのかもしれない。
ともかく貧相な体つきや、軽快なトークで場を盛り上げることができない無能に、大きなコンプレックスをもってすくすくと育ってきた。
トロフィーと女の子を同列に語るようなこの文章の運びは本当にダサいけれど、中学高校時代の認識はほんとうのところこんなものだったのだろうか。
たぶんそうでもない。
このころ僕にとって女性とは映画の主人公たちだった。
あらすじのうえで主人公でなかったとしても、母と観た数々の映画はいつだって女性がまぶしくみえて、自分が男であることがいやになるくらいだった。(これはいま思い返すと、観ていた映画そのものがどうだったという話ではなく、当時VHSに付属していた予告編のほとんどが「大人の女性」にむけて作られたものであったことが大きな原因だと思っている。)
ともかく当時のぼくにとって映画というのは女性のものだった。いや、違うな。映画というのはマイノリティのものだった。だからこそ、こじらせていた僕はそうした映画に何度も救われた。
体育の時間に代表されるマッチョで反知性的な世間にまったく馴染めなかった僕にとって、映画のなかのマイノリティたちのほうがうんと身近に思えた。
この当時、僕は数を数えることしかできなかったから、女性が社会から構造的に疎外されたマイノリティであるというはっきりとした認識はなかった気もするけれど、とにかく誰よりも身近に感じていた人たちのことをトロフィーと同列に語るような回路が自分にあったとは思えない。
そもそも人間と本とトロフィーとをごっちゃにしてここまで語ってきているこのやり方そのものがあまりにも乱暴なのではないかとも思う。
中学生の僕が女の子に感じていた欲望と、幼稚園の僕がトロフィーに抱いた欲望と、いま僕が本によって掻き立てられる欲望は、同じ欲望という言葉でくくりはするけれどすべて別々の内容を持ったものだ。
けれどもいまここではそれらを「欲望」という一面だけでひとくくりにして語る。僕は欲望の対象が人間であれ物であれ知識であれ、そうした欲望は必ずや満たされなくてはならないみたいな強迫観念から自由になれた今はとっても楽チンだなーという話がしたいからだ。

どうしたって欲しいものが手に入らないという経験から、達成よりもプロセスを偏愛するようになる人と、ルサンチマンを育んでいく人との違いはなんだろう。
インターネットにあふれる後者の人たちをみると、どうもヒトへの欲望とモノへの欲望がごっちゃになってしまっているように感じる。
そしてその混乱の原因は、「あらゆる欲望は満たされなければならないし、あらゆる目標は達成されなければならない」みたいな強迫観念なのではないかとふと思ったのだ。
そしてそうした強迫観念は、何かを手に入れるという成功体験が乏しいことから生まれるのかもしれない。
そうだとすると僕はなにもできないように思えてしまう。

僕自身わりと非モテをこじらせているし、体は弱いし、お金も稼げないし、社会に対するルサンチマンはある。
しかし僕はなんだかんだで高学歴・正社員・既婚と現代ルサンチマンの標的となる三拍子をそろえているから天下一不幸自慢大会がったとしても書類選考で落とされるだろう。
僕がいまのように達成よりもプロセスを楽しみとする気質を持つにいたったのも、この高学歴・正社員・既婚という成功体験が無関係だとはとうてい言えない。
この成功体験はすべて、たまたま運よくいまの歪な社会構造のなかで恩恵を受けてしまっただけのことで、まったく僕の力で「勝ち取った」ものではない。
だからこそ「自己責任」なんて阿呆臭い言葉を持ち出しながら、いままさに欲求不満に喘ぎこじらせている人たちに対して「君たちの苦しみは達成への妄執が原因だ。成し遂げられないことは無理に成し遂げようとせず、ただぼちぼち成していくそのプロセスそのものを楽しむのがよい」なんてことをいけしゃあしゃあと言えるはずもない。

僕はプロセスそのものを楽しむことで達成に固執しないことでだいぶ楽チンになったから、何度でもそういう話をしてしまうけれど、それが万人を救う万能マインドセットではありえないのだということは忘れないでいたい。
けれども「なにもできない」を結論に落ち着けるのはどうも居心地が悪いので、こういうことはうだうだ考え続けるのだと思う。