2018.04.17

ほんとうに記憶力が弱くって、一年前、いや半年、いやいや一か月前のことですら、ほぼ他人事だ。さいきんは隙あらば本を読んでそのたびに語彙や思考のモードが切り替わるから、余計に自己の連続性があやしい。昔から一晩寝たらなんでも忘れるほうであったのだけど、さいきんは朝の自分を夜すでに遠く感じることもしばしばだ。

 


気がつけば大学を卒業して五年目になる。大学ではいろいろと気持ちが騒がしいこともあったように思うけれど、思い出そうとしてもなんだかすごく恥ずかしい奴だったことくらいしか思い出せない。あまり思い出せないなりに恥ずかしい気持ちにはなるのだけど、生来の恥知らずなので懐かしい人たちの顔を見るとなんであれ嬉しくなってしまう。当時その人たちとどんなふうに接していたのかすら覚束ないし、なんならどんな人であれ恥をかき捨ててきたことだけは間違いがないので冷静に思い返せばどう開き直ったって話しかけることすらままならないような人たちだ。覚えていないけれどたぶんそうだ。そんなような気がする。

 


ともかくその場では嬉しくなって話をする。何日か経って思い返すとあの人に対する態度はあんな感じでよかったんだっけと不安になってくる。これは大学時代の僕が人によって自分の態度というかモードを無意識に切り替えていたことの表れなんだと思う。僕はいまではどんな人に会ってもだいたいくたびれた感じでへらへらふにゃふにゃしているから当時よりも一貫性があると思う。そういうわけなのですでに一貫してへらへらふにゃふにゃしている僕にとって「あの人に対する態度はあんな感じだったっけ」と自問することはすでに意味がなくなっている。その問いの答えがどうであれ僕はもうくたびれた感じでふにゃふにゃへらへらすることしかできないのだから。

 


僕は現在進行形で嫌な奴だし失礼なことも沢山やらかしているだろう。そんなこともどうせ忘れてまた顔を合わせるときにはへらへらするのだろう。本当に、そういうのどうかと思う。われながら。とはいえきっと覚えていられない。これまで人とかかわり合いになる中で、許されないことをしでかしたことはきっとあるだろうけれど、許せないことはなかったことになっている。許されないことに関してはなんとか思い出し、今後はなるべく忘れないようにしたい。許せないという思いを抱いたことはあったようにも思うけれど、思い出してもとくに楽しいことはないだろうから思い出さなくてもいいだろう。

 


許せない人は、今後もし不運にも出くわしてしまった僕がふにゃふにゃへらへら近づいてくることがあったら全力で避けてほしい。避けきれない場合ははっきりとNOを突きつけてほしい。いや、なるべくそんなことしないでいいように自分で察するようにするけども、いざとなったら自分をいちばん可愛がれる方向に舵を切って欲しい。人は一緒にいると自分を自分で可愛がってもいいような気持ちになれる人と一緒にいるのがいい、というのが僕の百項目あるありがたい人生論のなかのひとつだ。

かつて僕に許されないことをしたという人がもしいるようであれば、もしよかったら普通の顔して一緒にふにゃふにゃへらへらしてほしい。覚えてもいない傷よりも懐かしい顔を見たい。いやでも万が一まじで見たくない顔だった場合、静かにその場を立ち去るから絶対に追ってこないでほしい。

 


さいきんは懐かしい人たちに会いたくて仕方がない。

そういうわけでいろいろと身勝手なことを考えた。