2018.04.20
文章の技術は、とにかく書いてみて、それ以上に読むことでしか得られない。
落書きのようなスケッチでも、よく訓練された人のものは見ごたえがある。
基礎のない人の走り描きは、やっぱり特に意味を結ばない落書きにしかならないだろう。
本当に今更なのだけど、自分の悪文に恥じ入る気持ちが湧いてきた。
いや、基礎が欲しいと思い始めたというほうが正確かもしれない。
生活の中で澱のようにたまるモヤモヤを晴らすためにやみくもに書きすさぶのではなく、モヤモヤに向かって粘り強く理を通し、その道程からなるべく無駄を削いだものを文章として仕上げていく。そういうふうに書きたいと思うようになった。
学校と会社は、どちらもその多くは人を馬鹿にした機構であるという点では同じようなものだけど、「話が伝わる」ことの効力がより精確に機能するぶん会社のほうがましなようにも思う。
そして「話が伝わる」というのは、学校や会社なんてところに留まらず、社会的存在として個人がサヴァイブしていくための基礎として備えておいたほうがいい技能だ。
僕はこの事実を直視しないようにして暮らしてきてしまった。
自分にとって面白いことを自分の面白いように考えていられたらそれでいいやと思っていた。
言語とはそれ自体社会的なシステムなのだから、言語のルールに従いながらもそこから逸脱するような言語の使用こそが、システムの内側からシステムに規定されない余白を生み出すための実践なのだと、自分の悪文をむしろ積極的に肯定すらしていた。
けれども今になって、社会化されていない言葉を使用することは、意味不明な独り言を道端で繰り返すようなものだと気がついてしまった。
読み書く方法そのものを独自にでっち上げていくよりも、ただ愚直によく読みよく書いたほうが、より大きな余白を生み出しうるのだと思い直したのだ。
なぜ今更こんなことを書いているのかというと、最近さまざまなところで目にしたコモンズという言葉に感化されたことが大きい。コモンズとは「みんなが好きなように使っていい余白」のことだといまの僕は理解している。システムに規定されない余白とは、みんなが好きなように使ってもいいものだったのだ。余白がみんなのものだとしたら、みんなに伝わらなくちゃ嘘でしょう。
システムの内側にいながらにしていかにシステムに規定されない余白をつくりだしていくのかという興味はあいかわらず変わらない。とはいえ、こういうことを考えるときに想定するシステムというのが言語から組織や社会というものへと移ってきている。
人にきちんと伝えることで、コモンズを共に確保していく。
言語について抽象的な考えを遊ばせるよりも、上のような問いは実践とフィードバックのあり方がすこしは明確であるし、そのぶん具体的に試せることがきっと増える。
まずは愚直に読み解くこと、そしてそれを伝えることを試みたいと思う。