2018.06.13

季節の変わり目だ。
気圧も気温も乱高下し、肌荒れが目立つようになった。
遊ぶ金欲しさに関わっている仕事も泥沼の様相を呈し、 朝は早く夜は遅い。
端的に言うとちょっとしんどい毎日だ。


温泉に行きたい、などとベタなことを思う。
wi- fiも飛んでいないような辺鄙なところでおいしいごはんをゆっく り食べる。好きな時に好きなだけ横になって眠る。 思い立ったら熱いお湯に浸かる。 それだけのことがとても気持ちの良いことに思える。 ほんの一日でいい。 毎日の持っている連続性から抜け出る時間が欲しい。 気がついたらいくつものコンテクストを背負い込んでいて、 それらは複雑にもつれていたり、 てんでばらばらの方向へのたくっていたりする。 もう背中はバキバキなのだ。肩も凝ったし眼精疲労もすごい。 いったんこのコンテクストをおろしたい。 ひとつひとつ落ち着いて点検をしたい。 そして点検したそれらをカンケンバッグのようなものに詰めなおす など、とにかく背中にやさしい配慮をしたい。 そのためには温泉が、僕には温泉が必要なのだ。ただポカンと、 照明のケースの中にたまっている虫の死骸を数えたり、 畳の目を逆なでしたり、 窓の外のしんとした景色を眺めたりする必要がある。


そう、 僕はたぶん点検したコンテクストをもういちどちゃんと背負いなお す。 めんどうくさくて重たいそれらを捨て置いたりはしないだろう。 わざわざ山奥の温泉にまで行ってしたいのは、コンテクストの不法投棄ではなく、 それらをちゃんと背負いなおすための整理整頓なのだと思う。


「人生はマラソンだ」という陳腐な比喩があるけれど、 気持ちが10代のころはこれは嘘だと感じていた。 10代の気持ちにとって人生はベルトコンベアーだった。 こちらの事情などお構いなしに、 自分はどこかへ出荷されていく途上なのだなあ、 という苛立ちと諦念。 けれどもいざみごとに社会に出荷されてしまって、すこしずつ「商品」 として自分が機能してきたかなあなどと資本主義社会の構成要素と しての自負が芽生え始めたころ、 どうがんばったって十全に商品であることは自分にはムリ、 ということがはっきりとしてしまった。商品としてただみなの役に立ち生きていくというのはムリなのだとはっきり悟ったのはいいけれど、もう出荷されてしまったいまベルトコンベアーに戻るわけにもいかず、そうしてはじめて自分が自分の足で進んでいくしかないことに気がついた。
ベルトコンベアー感覚でいるうちは、ただ流されていくことに嫌気がさして「しにたい」 などと嘯くこともできたけれど、 あれは自分とは関係のないところで日々が過ぎていく苛立ちであり、それはそれで切実でもあったのだけど、放っておいても止まることはないという 安心もあったからこそ嘯けたのだといまは感じる。 もうここから先は誰もどこにも流してくれない、「しにたい」 と歩みを止めたらほんとうに死んでしまう、というどうしようもない状況のただなかでは、どんなにしんどくてもよちよちと歩いていくしかない。 人生はマラソンなのかもしれないが俺はしんどいのとめんどくさい のが嫌いだから走らない。 マラソンだからって考えもなしに走りだすのはなんというか安直だ 。安直には安直なりの良さはあるが僕にはその良さは分からない。このあたりが精いっぱいの抵抗で、とにかくよちよちよちよち歩いている。行き先を決めるのも、あてどなく進むのも、いまでは怖いくらい自由だ。けれどもこの自由は、ベルトコンベアーのうえで想像していたよりずっと窮屈だ。止まると死ぬというのは結構なプレッシャーなのだ。


「しにたい」というのは「温泉やハワイに行きたい」というのと同じことだ、ようは現実逃避なのだというような物言いを一時期よく見聞きしたものだった。あれはちょっと嘘だ。10代のころのベルトコンベヤー感覚の言う「しにたい」は純粋に現実からの離脱を夢見ていたかもしれないが、いまの僕の「温泉行きたい」は現実との接続を試みるためのいわばインターバルで、いずれ現実に戻ってくることを前提とした離脱は「しにたい」という徹底的な現実の拒絶と比べてなんともだらしがない。
くそったれた現実に強く強くNOを突きつけていたころの感覚を美化したくも馬鹿にしたくもない。逃避された先にもべつの現実があるだけだと知った風にのたまえるいまの自分が、あらゆる現実に対して唾を吐いていた自分よりも賢いとも正しいとも思わない。けれども10代の自分のような人にこれから会ったとしたら、僕はその人のことを「幼児的万能感の肥大した大人子ども」であると言い切らなければいけないとも感じている。


面倒で重たいコンテクストで思うように動けない。それでも自分の足で歩いていかなければいけない。
失うものが多すぎるということは、持たざる者の無敵さを失ったということだ。
その無敵さに対して、ぼくは「幼児的万能感の肥大」と言い続けないといけない。きれいごとだ、持てる側の抑圧的な言い分だというそしりはすでに自分のなかからも聞こえてくる。それでも、僕は「大人子ども」をよしとはしない大人でありたいと思う。


僕のヒーローアカデミア』という素晴らしい作品があって、何より原作がアニメ制作者にもとても愛されているのだと感じられるからアニメ版が好きで、というよりもアニメ版に肩入れしすぎて原作を読めていないのだけど、先週の放送はまじでつらかった。奥さんは原作を読んでいるのでここからの展開を知っている。だから絶対にこの話題は奥さんには触れさせないでいたいと思う。直接に言葉にしなくても、態度に可笑しいくらいに出る人なので、その話題が出た途端に僕はこの先の展開を予見してしまうだろう。
そうなったとき僕は奥さんを許せる自信がない。
奥さんは大好き、けれどもそれとこれとは話が別すぎる……


温泉に行きたい。
僕には温泉が必要だ。
そして温泉宿に『僕のヒーローアカデミア』の単行本が全巻そろっていたら、僕はそれをむさぼるように読んでしまうだろう。