2018.07.05

引き続きごきげんについて考える日々だ。

こうして考えていけばいくほど奥さんはえらい。
とてもえらい人だという気持ちが強くなってくる。
というのもこの人はとても言葉の人であり、なおかつなかなか言語化できない生活の機微をも決して見落とすことをしない。言語化オタク・オア・感情モンスターの二極を行ったり来たりしがちな僕は、こうやって奥さんのえらさを思うにつけ奥さんを見習うべきことだなあとしみじみと思い知る。

僕が感情モンスターのとき、奥さんはつとめて論理的に僕のモンスターっぷりを指摘し、徹底的に懲らしめる。そのあまりの徹底っぷりにむしろ感情のモンスター化の引っ込みがつかなくなることもしばしばだけれど、どこからどうかんがえても論理的誤謬は僕にあるのだし、おとなしくさっさと自分の非を認めないと恥を重ねることになる。わかっていてもついつい重ねがちな僕に対して、ますます奥さんの言葉は冴えわたり、感情のエラーはいつしか不合理として見事に処理がなされる。

ここで重要なのは僕を懲らしめる奥さんの言葉は論理偏重のオタク化しているわけではなく、奥さんはあくまで僕らのごきげんのために論理をこらす。言葉はあくまで手段であるということを外すことなく、論理的整合性ではなくあくまで「お互いににもっともごきげんであれる落としどころ」へと着地させていく。言語化自体が自己目的化して本来の落としどころを見失いがちな僕とはこの点でも数枚上手のごきげん巧者なのだ。
すごい。

僕はつい上の様に「論理/感情」という二項対立を前提としたような書き方をしてしまったけれど、もちろん感情は論理によって駆動するし、論理は感情から生まれてくる。この世に対立する二項などというものはないし、二つに一つだという気持ちになったとき、だいたいにおいてどっちもどっちなのだ。僕だってこの「どっちもどっち」というバランスには気を付けているつもりだけれど、わりとよくどちらかに傾く。奥さんは僕がどちらに偏ろうとも冷静に調整を入れてくれる。
すごい。

ちなみにこれは「だめな僕とすごい奥さん」という他人が読んでも胸くそ悪いだけの話がしたいのでもない。上に書いたことは主語を入れ替えても成り立ちうるからだ。奥さんの調子が悪い時は僕がさっそうと調整する側なのだ。なにがいいたいかというと、論理的整合性の追求をヒートアップさせるでも、感情のこじれをバーンナップさせるでもなく、ちょうどいい感じをめざして日々話し合い気遣いあう僕らは最高だなあという、よりしょうもない話だったのだこれは。
すごい……

けれどもさいきんは僕の余裕があまり確保できず、奥さんにばかりえらさを担当させがちである自覚があり、それはとってもムカつくのでもっとえらい人間に僕はなりたい。前の週末、奥さんと買い物に出かけたとき、それはちょっとじーんときちゃうほどいい買い物で、僕はたぶん生まれて初めて楽しいだけで買い物を終えたのだけど、そんな興奮もあって服のことや仕事のことを先日のブログに関連させてわくわくと話していたらその中で奥さんは「なんか正しくアラサーって感じ」と言った。

たしかに僕は正しくアラサーな考えを進めている自覚がある。つまり大人であることを受け入れようとしている。それはよりよく生きることを本気で考えているということだ。そのためにできそうなことは色々と思いついてきたけれど、まずしなくちゃいけないのは奥さんとの時間をもっとごきげんにすることだ。体調の悪さを言い訳にして言語化オタク・オア・感情モンスターに甘んじる時間は心底いらないのだ。そういうのが必要な場合もある。けれどもそれは必要最低限でいい。ほんとうに、余裕を持ちたい。おもに体力面での余裕のなさを本気でどうにかしたい。奥さんに会いたい。帰ったら会えるのだけど帰った時ちゃんと元気でいられるだろうか。帰りの電車でぐったりしちゃうんじゃないか。俺はいつでも元気いっぱいで奥さんに会いたいし奥さんの元気がなければ静かにごきげんに至る道を一緒に探す。そういう風でいたい。いよう。さいきん朝はなるべくラジオ体操のねじる運動のところだけでも抜粋して行うようにしている。背中の血行が促進されるとそれだけで気分爽快。朝から人並みにおしゃべりや判断ができるようになることについこのあいだ気がついたからだ。しかもその爽快さはだいたい夜まで続く。すごい。これはすごい発見ですので皆さんもぜひ朝起きたら体をねじったり反らせたりしてみてください。

もう一つわかってきたこととしてごきげんのためにはひとりで本を読む時間が僕には不可欠だということだ。奥さんといることは無上のごきげんだけれど、奥さんといるだけでは回復しないステータス異常があるようで、それはひとりで本を読んだり映画を観たりすることで回復するのだ。奥さんといることは無上なのでどうしてもおろそかにしてしまいがちであるし、けれどもおろそかにしすぎてしまうと奥さんに提供できるごきげんがイマイチなものになりかねない。いじきたない僕は一挙両得を狙って奥さんのいるところで本を読みふけってみたりもするのだけどやはり二兎を追うと何も得られないのだ。

こうしてブログを書くこともひとつのひとりの実践だろう。
ひとりでいると、自然と奥さんのことや生活のことを考えだす。
人と会うためには、ひとりであることが絶対に必要なのだ。
そのことを何度も忘れかけ、何度もしみじみと思い出す。