2018.07.09

先週だかいつだったか、同居人が「自分の書いた文章や作品が好き?」と聞いて、そこにいた人たちが首をかしげたので「好きでもないのになぜ書くの……?」と、ほんとうにさっぱりわからないという顔で言うので面白かった。

そのとき自分が何と答えたか覚えていないけれど、「好きでも嫌いでもないな」というのがいま思うことで、それは「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」という有名な台詞があるけれどそれに近い感覚だ。僕は今まで食ったパンの味をいちいち覚えてはいない。

同居人は作品を作る人への問いかけのつもりで、自分の作ったものが好きでもないのにわざわざ自分で何かを作る人の気持ちがわからないと言ったようだった。だからこういう日記代わりにだらだら書いているブログなんかは彼女の想定するいわゆる作品ではないかもしれない。ちがうかもしれないなと思いつつ、考え始めてしまったのでこのブログに対する感じを考えてみると、僕はここに書いたものに対して好悪の判断をしようという発想はないみたいだった。

お芝居を作るときや友達のメディアに記事を書くときも、多少気持ちのモードというかそういうものが異なりはするけれど、出来上がったものへの判断はわりあいどうでもいいなという感覚は変わらないようにも思える。なんというか、書くものによって変わるモードというのは、自転車のギアの切り替えのようなもので辿りつきたいところから要請される遠さや速さなんかによって切り替わるのだけど、自転車に乗るという行為自体は変わらないというような感じで、なぜ自転車で喩えはじめてしまったのか分からないけれど、こういう普段使いの書き物と、よそ行きの書き物とでは、書き方の違いは確かにあるが書くということそれ自体は変わらないというようなことが言いたい。

僕は書くという行為それ自体が好きで、書き終わったもののことはどうでもいいとまでは言わないけれど、どうでもいい。パンの味がどうというよりも、食べるという行為自体がたのしいから食べるのだ。
読み返したときにまた何かを書きたくなるようなものであれば、自分で書いたものも悪くはないなと思う。お芝居の場合、自分で書いたものが他人によって発話されてはじめて意味のあるものだし、その意味というのも書いた本人の想定とはまったく関係のない方向に連想が繋がっていくこともしばしばで、そういう意味ではいつまでたっても完成しない。いつまでたっても完成しないというのはいつまでも書き直し続けていてもいいような気持ちになって楽しい。だからこういうブログに書くものよりもお芝居のために書いたものの方が好きなような気もするけれどそれは書く楽しさが長く続くからであって、完成された作品への愛着ではなさそうだ。

自分の書いたものが人に読まれるのも面白いけれど、人の書いたものを読むのはもっと面白い。本を読むと、その本に触発されて書き出されるものがある。書き出されるものはまた別の本を読むことを要請し、その読書の経験はまたべつの書くことを呼び寄せる。読むことと書くことはほとんど同じことだ。よりよく書くためにはよく読まなければと思うし、よりよく読むためにこそ自分でも書いてみる。読みながら触発されたものを自分でも書いてみたときの「なるほど、こんな書き方もあるのか!」という発見が気持ちいい。僕は野球をみないけれど、それはたぶん僕に野球をやった経験がないからだ。子供のころ野球で遊んだひとたちにとって、テレビで誰かがヒットを打つことは、自分の身体経験となにかしら響きあっている。テレビの誰かのヒットの喜びはそのまま見ている人の身体の喜びとして経験されうる。「なるほど、こんな体の使い方があったのか!」

野球で話してしまうとどうしてもただの妄想になってしまうが、演劇を見るときの僕はやっぱり自分の演技や演出の経験から演劇を見ている。「なるほどそんな空間の考え方があったのか!」「あの俳優はいま気持ちがいいだろうなあ!」と、いつしか自分の経験のように演劇を経験する。学生時代にちょっと演劇をやって今はほぼたまに見にいくだけというような僕でも、演劇を見るとき見るというよりもやっているという感覚で演劇を経験する。このことを考えるとき僕の演劇を見るやりかたは、ただ週末に草野球のコーチをたまに手伝うくらいの人たちが、テレビの野球をまるで自分の人生のように、なんなら自分の人生以上に熱狂して語るときの感じと似ているのではないかと思う。

本を読むのも似ていて、よく読めていると感じられるとき、読みながら書くこともしているような感じがある。自分でただ書くよりも、読むという行為に触発されて書く経験のほうがずっと豊かに感じるのは、自分の人生以上にテレビの野球に熱狂するのとたぶんほぼ同じことだと思う。自分のことよりも自分のことのように熱狂できるものがあるというのはそれだけで豊かだ。僕は野球は解らないけれど、本を読むことや、演劇を見ることを通してその感じを知っている。野球の身体感覚はぼくにはわからないし、他人のプレーを見ても響きあうものはあまりない。けれども書くという身体感覚であれば響くことがあるかもしれない。その響く感じがもっと欲しい、よりよく読みたい。よりよく読むために書く。素振りのようなもの。ただその素振りそのものもけっこう楽しい。だからこうやってだらだら書いてみる。書き終わった後に「いいもの書いたなあ」とは思わない。たぶん野球をやる人も「いい球投げたなあ」とは思わないんじゃないか。終わった後に思うのは「あー楽しかった」ということだけじゃないか。

『『百年の孤独』を代わりに読む』という本を読んで、ものすごく楽しかった。野球を知らなくても野球に熱狂する人の語ることを聞くのは楽しい。そういう楽しさだった。読むことが書くことと直結しているさまを、なるべく生っぽく記録しようというドキュメンタリーのように感じた。「この人はこう読んだのかあ!」という喜びがある。僕は野球を見ないけれど、誰かが代わりに野球を愛している。僕にはその愛は直接体験はできないし理解もできないけれど、誰かのそういう愛を目の当たりにするのはけっこう嬉しいものだ。僕にはない愛を誰かはたしかに経験している。
僕は足が遅いけれど、足の速い誰かが僕の代わりに走ってくれる。たしか山下澄人がどこかでそんなことを書いていたような気がするのだけど、そこで書かれていたような感じで、僕はたしかに「代わりに読まれた」ように思えた。僕にはできないやり方で、誰かが『百年の孤独』を読んだ。読んでいる。
僕も、誰かにはできないやり方で『百年の孤独』を読みたいと思った。
僕にできないことは誰かが代わりにやってくれる。同じように、誰かにはできないことを、僕は代わりやっているのかもしれない。なぜ読み、なぜ書くのかというと、ぼくはもしかしたら誰かの代わりに読みそして書いているのだという、へんな感覚を持っているからなのかもしれない。読んだり書いたりすることは、なんでだか、ひとりでの行為だという感じがしないのだ。一冊の本は、球場と同じように、複数の読者/観客の身体感覚の響き合う場なのだというと、なんだか格好良すぎるだろうか。

ぼくにとって『『百年の孤独』を代わりに読む』は、知らない誰かが確かに熱狂している、熱狂できない僕の代わりに熱狂してくれている、その感覚がびりびりと響いてくるように感じられる、球場のような場所だった。