2018.07.18

奥さんでないころの、奥さんになろうかというタイミングの奥さんにこんなことを言われたことがある。「わたしは色々と綿密に計画立てて、あまりに綿密にシミュレーションするあまり、大事なことほど計画倒れに終わることがままある。あなたはそのへんテキトーそうだから、私が考えすぎているときへらへらと大丈夫大丈夫と言ってくれそうで頼もしい」そう思っていたが、これはもう奥さんは奥さんだっただろうか、ともかく後になって「そう思っていたが案外あなたも考えすぎるきらいがあるから二人でウンウン悩みがちよねー」と苦笑された。


さいきんはslackで日々の帰宅連絡やデートの相談をしているのだけど、行きたいところと行きたいところを繋ぐのお散歩コースをグーグルマップでシミュレーションしてみせてくれたとき、ふとそんなことを思い出した。
そういえば新婚旅行のシミュレーションもグーグルマップで準備してくれていて、そのころ僕は職場のストレスが半端なくてあまりちゃんと把握できていなかった。冒頭の苦笑はそのころのものだったろうか。いや、そのころは結構怒られたような記憶がある。ともかく今となってはあのころのすべてはストレスフルな職場と、あまりに自分本位な上司たちへの怒りしか湧かない。それに屈してしまった自分への怒りもあるが、怒りよりもかわいそうだという気持ちが強い。出発前はけっこう苦しかったが新婚旅行は最高だった。いまでもバルセロナのからっとした、いつまでも続く昼を思い出す。ここは暑すぎる。


ああいうストレスフルな環境はもうごめんだと思う。いまはそういう状況に対してへらへらとかわす図々しさが多少は身に付いた気でいるが、実際にまたストレスフルな環境に身を置いたとき、この図々しさがあっという間に委縮するということはいいかげん身に沁みてわかっているからだ。へらへら図太くいられる環境に、なるべくいられるようにしたい。環境を自分で選びとり、あるいは作っていくというのは、とてもたいへんなことだが、サラリーマン的な「なすがまま」的な不安定もまた精神衛生上よくない。「なすがまま」っつっても、その流れめちゃ人為的じゃないですか。だったらこちらも人為で抗いますよ。抗わせろよ。


未来のシミュレーションというのは不安しか呼ばない。
そもそもシミュレーションとは「あるシステムの挙動を別のシステムで模擬すること」だとググったら出てきたが、ついでに「シュミュレーション」なのか「シミュレーション」なのか「シュミレーション」なのか不安になってきたが、ともかく未来というのはいまだ何もない。模擬するべきおおもとのシステムが未着であり、定まってもいないのだから、模擬のしようがない。未来の模擬とは、似せるべきものが何かもわからないままに行うモノマネなのだから、不安になって当然だろう。


来るかもわからないものにああだこうだ不安になっても仕方がない。けれども、それらはたぶんだいたいちゃんと来るとわかっているからこそ、来ることだけはなんとなく信じているからこそ、不安になるのだから仕方がないとか言われても仕方がない。


なんというか、来るかもわからないものを不安に待っていることしかできないという状況が気に食わない。こっちから行くべき。しかし、どこへ?


デートの行先はこんなこと考えないで済むからいい。
行きたいところへ行くのだ。
それがより楽しくなるように、出発時刻やコースや予算をシミュレーションする。
行きたいところへよりよく行くために準備するのであって、準備がどうなろうとも行く気持ちは変わらないというのが大事だ。
いまここにありもしない未来のために頭を働かせるよりも、いまここから手足を動かしてみるのが先にあるべきで、さいきんの僕らはすぐ手や足が出るからすごくいいと思う。