2018.08.15

この一週間くらい、奥さんと猛然とおしゃべりをすることが増えていて、話せば話すほど出すもん出して、聞けば聞くほどすっきりした視界からあたらしいものが染み入ってくるような感覚がある。

 


子どものころからなにか外で嫌なことや違和感と出くわすと、当時としてはものすごい夜更けの23時とかまで父や母と猛然とおしゃべりをし、自分なりに腑に落とすということをやってきた。おしゃべりは違和感の咀嚼であり消化であり排泄である。食事は好きな人としたほうがおいしい、というよりも、好きな人との食事は料理がどうあれ楽しい。奥さんはいまの僕にとってこの人と囲めばどんな食卓も最高になるというような最高の人だ。ここ最近の僕は便秘がちでありかつ常に空腹だった。奥さんとのおしゃべりは、みっしり詰め込んだ口の中のものを落ち着いて噛み砕いて、いまの自分に必要なものを取り入れて、いつのまにか取り込んでしまっていた「呪い」を外に出すところまで、いただきますからごちそうさままで伴走してもらうような気持ちになる。太古の昔からおしゃべり上手を助産師に喩えることがあるけれど、産めないからわからないけれど、奥さんとのおしゃべりは収穫だけでなく、種付けのところからトータルサポートしてもらった感じがあってすごい。耳かきをしていて思いがけずごっそり垢がとれた時のようなえもいわれぬ快感がいくつもあった。

 


あっちこっちに脱線と連想を散らかすのがおしゃべりであるので、それをまとめるというのは素敵なレストランに対して食べログで点数をつけるのと同じくらい野暮というものだけれど、食べログは便利なので、むりやりまとめると、「よい読み手でありたいこと」「ボトムアップリテラシー*を上げていく困難さ」「所属するところの価値観を否応なく内面化してしまう怖さについて」という互いに連関する三つのテーマについて猛然としゃべっている。

*ここでいうリテラシーとは読み手の力量としての「読み方の質」のような意味で使っている。

 


たとえば僕が雑誌編集者だとして、僕は第一の「読み手」として、優れたコンテンツに耽溺し、そのコンテンツから引き起されるさまざまな連想によってほかのコンテンツ同士を結び付けたりしながらひとつの「読み方」をつくるような仕事をしたいと思っているとしよう。自分の所属する雑誌にもそうやって、コンテンツの「読み方」をより深めたり、これまでにない視座を提示するといった「読み手」としての矜持を期待している。けれどもその雑誌は、数々のステークホルダーが作り上げる「実在しないダサい読者」、センスもリテラシーも最低レベルの読者のレベルに合わせてものを作ることが常態化している。いやいや、うちの雑誌の読者のセンスやリテラシーを舐めんなよ、と僕は思う。実際にどんどんダサくなっていく雑誌をどうにかしようとするけれど、平のままでできることなどたかが知れている。それならば偉くなってトップダウンで変えてやると意気込むけれど、長く勤めるうちに「いや、そうは言ってもあそこの広告主に逆らえないしな」みたいな事情にもあかるくなって、気がつけば自分のセンスやリテラシーがどんどん「実在しないダサい読者」に近づいていっていることに気がついてゾッとする。

もともとこの雑誌が好きで就職したはずなのに、その雑誌がダサくなっていくのを止められない。どころかその転落に自分は関与すらしている。どうにか食い止めたいが、そのために頑張れば頑張るほど、ダサくする側の倫理を内面化していっていることに気がつく。「よい読み手でありたい」と思って選んだ場所を「ボトムアップでよりよい場所しようとしても難しく」、かといってその場への影響力を持つためにはその場の倫理にかなった振る舞いが求められ、その振る舞いは遠からず「その場の倫理の内面化に繋がる」。

 


僕は出版社で務めたこともないし、だから上記はぜんぶ妄想なのだけれど、こういった内面化はどんなにいやいや通っている会社でも起こりうる。話しているとき、会社を擁護するような物言いになることがある。奥さんにそう指摘されたとき心底ゾッとした。職場で、仕事に打ち込むあまり離婚する人を飽きるほど見てきたと話したとき、そういう人たちの配偶者は、次第に会社の倫理を内面化するその人の変化が耐えられなかったんだと思う、と応えた奥さんは、自分では自分のことを感情と論理の二項対立に捉われがちでしかも論理にかなり偏っている人間だと考えているようだけれど、ここまで細やかな想像力が働く人の論理というのは感情と同じことだ。論理と感情というのは対立するものではなく、お互いに補い合ったり、分かちがたく混ざったりしているものだ。奥さんの情緒ある知性と理知的な感性が、僕はものすごく好きだ。

 


なにかをがまんして飲み込んだ時点でそこに「呪い」がある。違和を感じつつもがまんすることはその違和感の原因そのものを内面化することの第一歩だ。そうはいってもこれは生活のために仕方のないことだからと、知らず知らずのうちにがまんしてきたことが自分にもあったようだ。

わたしは収入があるあなたではなく、理知的でチャーミングなあなたがよくて結婚した。離婚したあなたの上司の配偶者も、最初は似たような気持ちだったんじゃないか。もちろん収入があるに越したことはないしお金はすごく大事、それがなによりも大事だというわけではない。というようなことを、もっと格好よく言ってもらえた時、たしかに「呪い」の解かれる音が聞こえた。僕はいつの間にか、より良い生活のためにより稼がなくちゃいけないし、そのためにはがまんしてでも働くほうがいいと思い込まされていた。はやめに気がつけてよかった。ぼくはなによりも奥さんを、家にいるときの気分の良さを大切にしたい。それを損ねるようなものは、なるべく少なくしていこうと思った。

 


こうしたおしゃべりの猛然さのきっかけは、保坂和志のABCの対談に行ったことだったかもしれない。保坂和志はそこで「安定に不安を感じる人がいるように、僕は帰属することに恐怖を感じる」というようなことを機嫌がよさそうにしゃべっていて、納得しかねたような質問者に「いや、たとえば自分が高校生で、同級の友達といてこいつら最高だなっていうのとさ、この高校最高だなっていうのは全然ちがうわけじゃん」というようなことを応えていて、とてもよかった。

帰属という言葉はなにかに従うこと、なにかの所有下にあることというような印象を受けるし、調べてみたらやはりそのような意味だからこの印象は個人の勝手な印象ではなくて、だいたい共有されているものだろう。僕もそうしたことにかなりの拒絶や嫌悪の気持ちを持っている。いまのところこれはまだ生理的に無理などという安易な言い方でしか説明ができない。

別のタイミングでこの日の対談相手が「保坂さんのご家庭はホカホカしてますもんね」みたいなことを言っていたのも相まって、「帰属への恐怖」と「好きな人たちを大切にすること」は、全く矛盾しないというか別の話なのだと腑に落ちたのがうれしかった。大好きな家族や友達や猫に対して尽くすのは帰属ではない。家族も会社もおなじように制度ではあるけれど、その人にとって家の人が友達や猫と同じようなものであればべつにはたから見て制度であろうとなかろうとそんなことはどうでもいい。家族にせよ会社にせよそれが帰属しなければいけないものになったとき、恐怖の対象に転ずる。怖いのは制度の帰属を強いる側面であって、制度のぜんぶではない。猫や友達のように尽くせる奥さんが実在するのだから、猫や友達の様に付き合える会社もあるのだろうか。

 


ここまでの話は、「辺境にいたい ←→ 参加したい」という二極のあいだでのバランスのとり方の話のようにも思えてくる。この前電車で久しぶりに開いた松岡正剛の「千夜千冊」のなかで、『世界の中にありながら世界に属さない』という本が紹介されていた。いいタイトルだと思った。そういうバランスがいい具合なのかもしれない。最新の投稿を三つくらい読んで、「意識は自分のものではない。とはいえ意識が自分以外のなにかに属しているわけでもない」というようなことを考えて、これもここまでの話にかなり繋がっていくように思うのだけどこれについてはまだ言葉になってこない。この感じを忘れないほうがいいように思って、メモ代わりにツイッターに支離滅裂な投稿を残しておいた。

 


昨晩遅くに最新話がアップされた『ビルドの説』にもここまでのおしゃべりに繋がっていく気配を感じている。気圧の高低など、他人から見たら些細な与件であっさり幸せにマイナス補正がかかる僕たちは、そうしたマイナス補正の原因を特定し、分析し、受ける影響をなるべく少なくするためのシステムをビルドする。そうやって、温存したリソースをなるべくたくさんお家に割きたい。ビルドとは、環境のどこまでを自分のコントロール下に置くかという試行錯誤の実践なのかもしれない。ビルドは楽しい。自分の気分のよさは、自分で作ったり守れたりできると思えるから。