2018.09.04

今年の地球で最も強い勢力だという台風がいよいよ近づいてきて、きのうまでの二日間は気圧性の不定愁訴に苛まれていたのだけどいよいよ近づいてくるとむしろ興奮状態になって元気になってくる。台風でハイになるというのは、生き物としてなんらかの危険を感じて、アドレナリンだかなんだかの脳内物質が分泌されるからなのだろうか。しかし「今年の地球上でもっとも強い勢力」って面白い言い回しだ。アメリカの天気予報で「the storongest storm on Earth so far in 2018」と紹介されていたと言う画像が元らしいのだけれど、どこの局なのだろうか。「今年の地球」がいい。今年の町でいちばんの美女。なにか序列をつけるような物言いに、一定の期間を指す言葉が挿し込まれるだけでなんだかすごさがすごいんだかわからなくなる。「いちばん」とか「最も」だとかものごとに序列をつけるような発想に、時間の考えを挿し込むと、途端に序列をつけることそのものが相対化されるというか、盛者必衰が世の理、みたいな趣が表れる。今年はいちばんだが、それはいつだっていちばんだということではない。いつだって今日の自分がいちばん若い、みたいな、ははあという関心と、いやだからなんだよと言いたい気持ちがないまぜになる表現だ。そりゃ視野を狭く持てば持つだけ「いちばん」は増えるでしょうけど、そうして得る「いちばん」になんの意味があるの?うるさいな、なんか「いちばんなんだ!」と思うと楽しいじゃん、そんだけだよ。


とにかく台風ハイで、パソコンで、こうやって猛然と書き出している。こういう書き出し方が久しぶりで、なんというか速さがすごい。というのも、7月末から手書きの日記やアイデアノートを書きつけるようになって、読書量もかなり増えて、なんというか紙や手書きへの嗜好が盛り上がっており、だからSNSやインターネットメディアへの接触が減ってきた。そして打鍵やフリックによる「書く」という運動からもやや遠のいており、手書きと比べて書くことがどう変わるかというと手の疲れ方が全然違うのだけど、それだけでなく保坂和志が「ネコメンタリー」で言っていた、キーボードだと作業だが手書きはサッカーのようなフィールドスポーツみたいだというように、「書く」という運動が身体にフィードバックする感覚が全然違う。この感覚の違いはまずなにより速さにあると思う。自分で読み返して解読できる程度の字を手で書こうとするだけでも打鍵の何倍もの時間と負荷がかかる。紙とペンは摩擦を起こすし、手の運動は指先の運動よりも関与する部分が多いのでそのぶんブレも大きくなる。ともかく手書きをメインにシフトしたいまこうして打鍵すると速い速い、思いついたそばから書き出せる。手書きの場合「こう書いていこう」と思って書き始めると、書いているそばから当初のプランを忘れていくし、手も疲れるのでプラン通りだらだらと書き出すのがだるくなってきて、結局は当初考えていたのとはてんでちがった方向に文章が決着することが多い。記憶力や根気の弱さによって、自分の考えとはちがったものが書かれていくというのも手書きの面白さで、それは頭にあるものをただ出力しているのでなく、この身体全体で書いているというような喜びだ。


打鍵の速さは、「こう書いていこう」と思った通りに素早く効率よく出力できるから、便利だが「書く」という行為から得られる喜びは貧しい、と言い切れたら面白いのだけど、こうやって思うままに書きたいことを書いていき、そのスピードにつられてどんどん書きたいことが脳裏によぎっては消え、消えきる前に打鍵して捉えてさらに先に書き進んでという面白さは、手書きがサッカーならこっちは卓球だというような、スピードの快楽がある。手書きはお散歩で、打鍵は音ゲー、というような気もする。とにかくどちらもそれぞれ面白い。

魂にとってコンピューターはいいものではなかったという推論がある。 確かに、そういう部分もあるだろう。しかしわたしは便利さを取る。もしも二倍の速さで書けて、作品の質がまったく損なわれないのだとしたら、わたしはコンピューターのほうを選ぶ。書くというのはわたしが飛ぶ時。書くというのは情熱を燃やす時。書くというのはわたしが左のポケットから死を取り出し、そいつを壁にぶつけて、跳ね返ってくるのを受け止める時。


チャールズ・ブコウスキー中川五郎訳『死をポケットに入れて』(河出文庫


ブコウスキーはこう言っているし、これを読んだとき僕は「そうだそうだ!大事なのは道具でなく人間だ」と快哉を叫んだように思うのだけど、そもそもブコウスキーはタイプライターからMacに持ち替えたのであって、打鍵から打鍵への移行だったらそりゃ便利なコンピュータのほうがいいでしょうよといまは思う。大事なのは運動であり、運動する主体である人間だ。道具はその運動を誘発する媒介に過ぎないが、ある道具がなければありえない運動だってある。


ブコウスキーは大切なのは道具ではなくそれを使う人間だというようなことを書いた。この人文主義的態度に僕も追随する。たかが道具だ。けれども、そのたかが道具は人間の振る舞い方を規定もする。マクルーハンが言うように、道具=テクノロジーは、すべからく身体拡張の媒介=メディアだ。道具を使う人間のほうが道具よりもえらいに決まっているが、その道具によって人間の身体のあり方は結構変わるということだ。どんな身体の状態で、どんな感覚を増幅・拡張させたいのか、それによって道具を使い分けるから人間は道具よりえらいのであって、一つの道具だけを使うようになったとき、この主従関係はあっさり逆転するだろうとも思う。


描きたいものに応じて絵筆を持ち替えるように、書きたいものに応じてペンとキーボードとタッチパネルをそれぞれ使いわける。そうやって道具をとっかえひっかえ同じようなことを繰り返すのは楽しい。自分にとっての楽しさが打鍵や筆記といった運動ではなく、もうすこし抽象的な「書く」という行為そのものにあると確認すること、そのうえで「書く」という行為の具体的実践のバリエーションを試みること。それらぜんぶが楽しいし、嬉しいし、喜びだ。